1:岶岼市-⑤ 夜間観察
自動車のフロントガラスは淡々と山岳地帯の風景を映す。道中の様子にカータクは興味を一切示さない。何せ森林は東果国の7強割を占めるし、龍屾地方の殆どは果ての見えない森林に草も生えない高原に、偶に工場と村落と湖とガードレールなしの崖くらいだ。コラツルは未知の木の名前をぼやくが、走行音のジャマーも相まってカータクには全く把握できない。
「ここら辺の植生ってどうなんすかね」
カータクは助手席をチラ見する。彼女の無反応が尻目に入っただけだ。
冷たい彼女に皮肉を吐きつつ、車の操縦に集中する。一人で楽しそうな彼女を見てると、高校の時に生物を取るべきだったかもしれない。コラツルは木々の一つまで把握していないが、カータクは彼女がそれ程に詳しいと錯覚している。
トンネル区間に入り、風景は無機質な柑橘色に染まるとコラツルはつまらなそうに目を瞑る。カータクにとって、トンネルを通ればで山を通過できる現代は楽しい。東果国のインフラ整備はさながら夏至の朝だ。菱垣ー椎伊良浜大橋が開通したことはカータクの記憶に新しい。㞱水地方と端離地方とはかつては東ヶ汐原海峡大橋しかなく、運送で不便を被ることも多かったのだが、新たな大橋により大幅に改善された。5年もすれば地元の蒼畿とも繋がるという。とにかく交通網は日々発展し、安全に往来不能な地名など無いに等しい。
一方で、人類文化学を読み齧るカータクに言わせれば、山は蛇人族文化圏の境でもある。とりわけ龍屾は祇道の風習が根強く、カータクらの遠い祖先が持ち込んだ拝天教を排すかのように独自性が強い。両者とも自然教だし、せいぜい感謝すべきものが地か天かの差しかなく、現に大半の地方では大昔に交雑したっきりだ。龍屾に関しては、交通の不便さ故に蒼尾人の一般習慣が根付かなかっただけである。幸い担い手が歴史ある所だし、拝天教との互換性は無いに等しい。せいぜいお互いの非体系的な部分が交ざり、単一化する程度で済むのだが、どうにも虚しい。トンネルの先はとっくに黄昏れていた。
「25kf……? 遠くないか?」
コラツルはトンネルを開けた直後に、光につられ看板に書かれていた文字を読み上げていた。カーナビを見たときに比べ遠くなっている。
「迂回っす。カーナビの通りの場所だと、俺多分死ぬっすから」
大学から運転をした直後、カータクは経路を知らないことに気が付き、カーナビのルート案内に地名を入力した。東果国のカーナビメーカーの悪い話はよく聞くし、どうせ徒歩を強要されるだろうとは考えていた。だが、絶対に降りてはいけない場所に案内されるとまでは考えていなかった。
気がついた瞬間の、脱皮にも似た感触が鱗に焼き付いてしょうがない。蛇人しか行かない程度の場所であることを失念しており、即座に、別ルートを通ることに決めた。
「? ……ああ」
コラツルは地形図のみを見、死ぬと明言するほどの悪路なのか一瞬だけ疑いがよぎった。実際、カータクにとっては本当に死にうるような場所であった。
別種族の居住区は異界にも等しい。実際に安全なのは観光地や市街地として開拓された土地の範囲のみで、そこから先の安全は保証されない。住居に適する場所が種族により全く異なる故だ。例えばここ、龍屾を始めとした山岳地帯に棲む住民の大半は、東果の最強生物こと蛇人族だ。彼らにとって山というものは酸欠と転落死と毒性生物と低温、稀な霊障にさえ気をつければ良い。傾斜を上り下りすることにも優れた身体の構造をしているため、昼間かつ夏場であれば死ぬ方が難しい。
故に岶岼でも、市街地の外では山道の往来を要求されることが多い。確かに交通網は発達したが、それでも生身を要求される場面はかなり多い。現在の目的地も徒歩を強いられ、さらに緩やかな傾斜が続く地形であるが、コラツルにとっては『商業施設の中は車で通行出来ない』程度の認識でしかない。
南失高原は酉後の時間帯全てに交通制限が設けられる。カータクは看板を目視するや否や、素通りした。このルートにバリケードやセンサーの類がないのは確認済みだ。実のところ、カータクは案内通りに通行しても死なない自信はあるし、ここで死ぬのも悲劇的で好いだろうと考えている。彼としては、正当性を得た公権力ほど面白みもない存在のほうが厄介である。
「懐中電灯の用意、あるよな。あとカイロも」
コラツルはカータクの方をオーバー気味に向く。死の危険は否が応でも関心を向けざるを得ない。種族的特性として彼らは夜目が利かないし、コラツルは低体温症のリスクがついて回る。
「用意してるっすよ」
カータクは『当然』の音色で回答する。ガジェットの類は趣味としてバックドアの裏に収納してあるが、助手席の彼女と冒険するようになってからは特に気を使うようになった。
「そういや門限大丈夫なんすか?」
最初に訊いておくべきだったと言わんばかりに、カータクは頭を片手で抱える。カータクの印象として『門限』と彼女がこびりついて仕方がなかったのだ。
実際、コラツルは破ったが故に一度トラウマを負っている。直接的な要因はそれではなかったし、一つ一つならば興味もない事態の塊であったため、コラツル自身も困惑して仕方がなかった。深い傷と混乱を負った彼女は翌日、案の定手枷と足枷を嵌めていたし、軽く数週間はこのままだった。
「守る必要がない」
コラツルは何食わぬ顔で即答した。妙な生き物の調査の為に門限を破るのは生物学者として当然だし、コラツルにとって今回は門限を破る罪悪感など何処にもない。最悪でも未来の自分は数日くらい嵌めていれば気が済むだろうと、彼女は自身の精神的苦痛の最大値を低く見積もっている。
彼女は疑問に思ったことはないが、フラッシュバックを防ぐ効果がある。嵌めてるだけで歩行や両手を使う動作に制約を負うし、最悪適当に手枷でも引っ張っとけばその肌感覚が面白いが故に、軽度のフラッシュバック程度なら逃れられる。
「さて、探すか」
カータクにはこうも、拘束具の類を好む蛇人族の感覚はよく分からないし、トラウマに懲りることがない彼女たちが分からない。
一方、異常事態ではこれ以上に頼もしい存在はない。カータクは彼女に続き、車を離れる。
☆
南失高原にかつて設置されていた駐車場は須らく、看板やら何やらによって物々しい文字列と共に封鎖されていた。カータクは若干の焦心の後、駐車条件にうるさいコラツルを宥めつつ、道路外れの適当な広場を駐車地とした。二人は車から降りて前進し、瞬く間に錆びついたバリケードを難なくぐり抜ける。放棄されたきり、学名も無い植物の蔓に囚われた仮設住宅がフラッシュライトに照らされる。
撤去すら許されなかった人工物共が十年前の禍根を物語っている。南失高原は曰く付きの土地だ。この土地には『神隠し』があると恐れられているために蛇人でさえ居住しようと考えない。十年ほど前にはテーマパークを建てる計画があったのだが、施工中に精神に異常を来す者が多く発生し、計画は頓挫中とされている。翻ってこの地にて人が行方不明になった、という報告など皆無に等しいのだが、コラツルにとってはリョウセイが神隠しにも似た経験をしたのが気がかりだし、例によってこの土地で『変な生き物』の目撃報告があるのはどうも怪しすぎる。特に、神隠しは夜間に起こる事象だし、夜間写真が出回っている以上、どうせ不埒な連中は何度もここに入っているのだろう。二人には確たる知識から、その共通認識を持っていた。
コラツルはカータクに時間を取らせ、簡易的に厄除けの儀式を済ませた。幸い彼は祇道的儀式や神楽に詳しいので巫覡役として最適だったし、彼女も家元が家元なので神主役に最適だった。元より野生の勘だけで夜の山を乗り越えられると思っていない。地理学知識を以っても不安はつきまとうし、完全にこの世を知ってでもない限りは不可能だ。あの神隠しもどきは断じて、神様の起こす事象ではない。コラツルは自身の役目をこうも奪われ、責任を擦り付けられる神様に同情した。彼のガジェット入れには粗末な代替道具しかなかったが、最大限彼に心は込めさせ、彼女自身も全力で儀式を執り行った。コラツルからすれば、これでも自身に罰が当たるのならば、これからの行いは本当に悪しき行いであったまでである。
カータクは手当たり次第に仮設住宅の中を調べることとした。コラツルは用心棒として外で待機させている。予想の通り、大半は家の中はモノと砂とガラスとで散乱している。中にはぬいぐるみが布団の上からこちらを凝視していたこともあった。主から見捨てられてなお、この場を見守っていたというのだろうか。健気なやつだ、とつい呟く。
最後の住宅の中を見る際にカータクは身構えた。妙に鉄臭い。殺人でも起きたのか? カータクは両足を中へと進め、部屋に照明を付けさせようとした。
知ってはいたが、部屋の照明のスイッチは機能しない。仕方なくに懐中電灯のスイッチに手をかけると、案の定というべきか、赤黒く変色した血痕が床にこびりついていた。密室めいたこの様相とが交ざり軽くPTSD気味になり、口元を左手で抑える。密室が原因であるので、目をつむり窓の方へと向かい、窓に手をかける。幸い窓のフレームは歪んでなく素直に開いてくれた。カータクは顔に水気のある冷たい風を受ける。
改めて、カータクは部屋を見渡す。気になることといえば、布団や簾等がきちんと手入れされており、それも気休め程度の範疇だ。つまるところ、『ちゃんと人為的に荒らされている』ようで、カータクは誰かがここで暮らしているかを疑う。
空調機器のリモコンがあったので、カータクは本体へとかざしボタンを押す。特に稼働する様子はなく、そもそも電力の類は通っていないことを把握した。一瞬、北夷族の居住を疑ったが、彼らだったらUMAでもなんでもないし、そもそも白い蛇人族みたいなものなのでUMAと誤認識などされないだろう。
「おい、カータク」
ドアの軋む音にカータクはそちらを向く。空気のみを発するかのような声でコラツルは彼に呼びかけていたのだった。
無言でカータクは彼女に続きを促す。
「『変な生き物』、おったぞ」
カータクは顔を綻びさせ、自分にも気にかけず外へ出向く彼女を追うこととした。事前にコラツルからはスポットライトを切るよう言われたので目視での確認となったが、三間くらい先だろうか。そこには『変な生き物』が居た。それも道具を扱う程度には知性があるようで、刃物を右手に掴んでいるし、オニカナヘビの子供を狩っていたようで、左手には死体をぶら下げている。血抜きは雑なのか衣類らしきものには血がついていた。
間違いなく、この世の存在ではない。まずその鬣から言及すればよいだろうか。頭にだけ毛を生やす種族は居るし、濡烏色の毛を持つ種族も存在するが、複合となると存在しない。次に彼は尾の存在も確認できず、衣類もワグン州文化圏の特徴に近い。奥行きを潰したような胴体といい、尾を自切した蒼尾族のようなシルエットといい、一つ一つの要素ならば合致する種族はあるのだが、完全に『こいつ』と合致する種族は存在しない。コラツルは言葉を交わすまでもなく、彼の意見を承認した。
向こうのそいつは二人の存在に気がつき、ジロジロとこちらを向いた後に、二人から退く方向へと向かっていった。
「追うぞ」
コラツルは既にその存在へと構えていたので、カータクも走る準備をしておくこととした。