6:南失高原-② 尹羊歯を焼いた緑の星
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昨年の夏、ちょうど7月頃のことだ。
KhR龍屾のたつやまえ分水嶺公園駅にてリョウセイはリュックを背負い、霧雨の中コンクリートを跳ね駆けるようにして改札を通り過ぎる。天井を縫うようにしてホームに落葉している様は地元は疎か、岶岼ですら見かけられない光景である。
杜籠県皚屽市は山に降った雪が清明の頃まで溶けないと知られているが、真夏日一歩手前の当日には流石に俄に熱いコンクリートと湿度のみを提供する草木花々が散在するだけの地域であった。彼女は数分して走り疲れ、ちょうど公園を示す看板にて止まる。
一汽陸人にとって僻地でしかない分水嶺に深浅葱色の図体があることが珍しいのか、周囲の人々は彼女に対し千差万別の反応を取る。取り分け粘着質な個体を口巧みに躱しつつ、石碑の方を見やる。『←苙圻海 東果海→』と彫られたそこが正しく分水嶺のようで、水流も海や湖では見かけられない独特の形状をしていた。
足元にアルミのメッシュ特有の硬い質感を覚える。蛇人が多いのは当然のことだが、それにしても多い気がしてならない。アブストラクトに道を這う彼らが気味悪く感じ、さっさと奥の方へ向かって帰ろうと考えた。
彼らは道の上を優先的に通りたがる。リョウセイは道をすぐに外れ、通行跡もない落ち葉と土とを踏んだ。少し全力で走った後、息を切らしながら後方を見やった。案の定、彼らは最早追い回す真似はしていない。彼女はゆっくりと前を見やった。
人影だ。彼女は数分前の地を這う彼らを連想した。恐怖に追いやられるがままに引き返す。水中遊泳のように靭やかなUターンをし、即座に別のルートを選ぶこととし――
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「――おばさん、それ聞いたんすけど」
暢気な獣の声が彼女の長話を制止する。記憶の中の存在ではないと認識するのに数秒を要した。上階下階から機械音やら人の声やらが再び聞こえだす。
「……は?」
リョウセイは鰓から総排出腔まで動揺から強張る。ああも気持ちよく話していたというのに、眼の前の彼の表情は最早一欠片も慄いていない。
「俺が聞きたいのはその先なんすよね」
一瞬、彼の正気を問おうと考えたが、眼の前の黄黒は質問させるまでもなく、当たり前と言わんばかりに満面の真顔を見せる。悪辣なリビドーをひた隠すことさえ忘れたその笑みはリョウセイの脚を覚束なくさせる。
「どうせ話したら異常者扱いすんだろ?」
熱り立った胸鰭を隠せずに居た。可能であれば四肢を使って彼に飛びかかってしまいたい。
「ラバースーツ着て山歩きしてたババアのどこが正常なんすか?」
蒼い目と蒼い声が鋭く彼女を刺してくる。
「冬に着る分には普通だろうが」
下階の廊下から漏れ出す場の雑音が一瞬、彼女の罵声に掻き消される。
「十分の一じゃねーっすか、正常要素」
カータクは屁理屈に屁理屈を重ね、あろうことか精神疾患に対する野次と偏見を垂れ流す。
「下手に出てりゃ良い気になりやがって」
リョウセイはハンカチを取り出し、頭部の若干の汗を拭く。蒸し暑いし、こうも惚け間抜けた声を発するストレッサーのお陰で熱り立って仕方がない。
「今日はコラツルがお見舞いしに来るんだよ、さっさと退け」
両手を付け、すぐにでも彼に猛攻する姿勢を見せる。
「自室に居りゃ良いじゃねえっすか」
得意気にするカータクを前に、リョウセイは一瞬神経を整える。
「そうだな」
彼女は全速力で階段を蛙跳びし、音を立てて自身の病室に入ってすぐ連絡用インターホンを押す。バイトに対する愚痴と被害報告とを機械音の向こうへと垂らし、カータクの処遇は病院のよしなにさせた。
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「――ってのが朝の出来事ッ! 妖怪だろ、あんな奴!」
リョウセイは後になって知ったことだが、汽陸人の扱い、特に病人ともなれば岶岼の人々にとって困難なものであり、対応可能な職員が数人しか居なかったという。一方で所詮は一過性の精神状態たる彼女の看護であったが故、病院側は短期アルバイトの募集にて人材を募ったという。故に汽陸人に物怖じしないカータクの換えとなる人材が居らず彼へも注意程度で済まされた。それどころかスタッフに無断退出とクレームを咎められたが為に機嫌が悪い。幸い、精神疾患についても治癒の必要性の無かった彼女は明日には帰宅の見込みであるが。
「仕方がないじゃろ……」
見舞客、スズスハ・コラツルは立ったまま頭を掻く。彼女の手枷の鎖の垂れる音はリョウセイに不快な感情を煽らせる。
「勤務態度がクソ、マイナス15医療ポイント。とっとと医療事故でも起こしてろや」
普段からリョウセイは都合よく嘘を吐くし、面倒事は人や機械任せにする。汽陸族としては平均的な性格だ。結局、昨日の件にて実の所立ち直りきれていない彼女は本心から、申し訳無さそうにコラツルを見る。度を過ぎるまでに応答らしい応答を見せない。視線の先を読む限りは完全に、陽の挿す向こう側に気を取られているようであった。
「儂はその続きが知りたい」
口輪の中無表情を見せる彼女はそっぽを向いたまま、極限までに抑揚のない声を発する。
「カータクの手先じゃないよな?」
不快な鱗を退けるように、リョウセイは水掻きで頭を掻く。若干の垢が指先と共に剥がれだす。
「ここ数日は儂と出会っとらん」
コラツルは答えながらも、鎖の音と共に何も無い空間の方へと赴き出す。一昨日以来、脳裏に鮮血と轟音と言語化不能の叫びが染み付いて仕方ない彼女は極力自室に引き籠もっており、移動中も考えないよう辛々来た所である。服も手枷足枷を外さずとも着脱可能なものに換えており、思い出すまいと数日は外していない。
リョウセイは掻いた跡の感触とともに、しばらく口を開閉する。判断が出来ずに居る。口を開こうにも、見栄らしい何かが邪魔をするようで仕方がない。
「……アンタならいいか」
彼女は、一向にこちらを向こうともしない彼女の方へと胴体や頭を向け、投げやるように鰓を開き、鰾の重圧を逃がすように重い言葉を吐き出し始める。
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リョウセイ自身と呼べる存在の最期の記憶といえば、だだっ黒い、辛うじてものが見える程度の部屋である。四肢を動かそうにも何か台に固定され、脊柱一つ曲げられない。青色と、それ以上に赤く鋭い光が周辺視野を覆い、いがいがと彼女を認識から虐げだす。
閾下にてリョウセイは、自身が一糸まとわぬ状態であると気がつく。戦々慄々と首を回すように動かした所、断じて岩場の奥底ではない地形と、人工材所以の細かい凹凸とを認識した。
首の裏を襲う鋭痛が何なのか、彼女はただ違和感のみを覚えていた。自分ではない何かが体内を這いずり回ったようで気色悪い。異様以上の形容の出来ない感覚が胴体を臓物を、やがては四肢の指址と鰭全てにさえ及ぶ。脳にも及んだ頃には最早、思考と認識に靄が掛かったような感触へと陥る。眼の前の蠢く黄青白が何で、眼の前の戸のような合金が何なのか、存在する記憶を呼び出せない。
『これで4桁かー、8進数で』
聞き覚えのない、発したことさえない音韻が意味内容を伴ってリョウセイの言語野に染み渡る。咀嚼こそ出来ないが、直感で回数に関する小言であると気がつく。
「誰か居るのか?」
直感の成すままに声を上げる。未知にしては馴染み深い文字列のメーカーを枠外にて名乗るそのモニターは見慣れないシルエットをした、奇妙な女性を映していた。
『水主くんの願いとはいえ、変容しすぎなんですよねぇ』
彼女の知的な発言をただ大魚の呻き声と断じる『それ』は愚痴を続ける。
「カコ……? 変わった? 誰か居るのか?」
一方的かつ恒常的に寂寥感を発するその気質はどこか懐かしく、そしてリョウセイにとって異質極まりない悍ましいものとして映った。
『人間用の侵襲的生成文法再起装置、十分そうだな』
遠くの正面のモニターは白黒させつつ、人間の声質だろう音を発する。
「……人間。にんげん?」
その情報量の塊がリョウセイに即時性エコラリアを誘発する。彼か彼女か判らぬそれは顔面を変えていたのだが、次の瞬間には、川の光景。再び前後の間が補完できない。夢だと自分に主張してみようとしたが、それにしては光景が鮮明である。
真っ先に川から出、誰も来ないことを祈り身体を乾かす。帰宅の際をどうするか戸惑う所だったのだが、衣類は偶々、物干し竿と言わんばかりの竹筒の上に干されていた。
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「……本当に、記憶を植え付けられとったか」
コラツルはリョウセイから発された単語を追って要約する。
「植え付け? 何を言っているんだお前は」
尤も、その鳴き声はリョウセイに伝わるものではない。リョウセイをそっちのけに、彼女はただ押し黙る。
「おい、――」
「――初めっっから言えば良かったじゃろうがッ!」
リュウグウノツカイが水面で錯乱したかのよう様な暴音が再び彼女の鰓を貫く。軽くその光景の耳鳴りが聞こえてくる。リョウセイはあたふたと彼女を見つめていた。目が合う。
「儂がどれだけ納得行かなかったと思っとる!? パパに聞いても『判らん』じゃし! 」
コラツルは瞳孔を細くして、手枷は悴むように震える鎖の音を奏で、手を平らにしていた。リョウセイには何も言えない。
「言った先はなんだよ、どうせ『お前は何を言っているんだ』だろ!? あのアルビノ女と同じで笑い事にすんだろ、いっつもいつも!」
さっさと四肢を地面に付けて飛びかかってしまいたい。リョウセイは本能に逆らって手を拳にする。小脳由来の衝動を理性で抑えきったつもりでいる。
「言わないよりマシじゃろうが、儂にとってもPTSD級の出来事じゃぞ?!」
横に伸びた脚が地団駄を踏み、体重相応に重厚な音を奏でる。彼女が訴える怒りは結局のところ極めて、自己中心的な理由だ。『自分が嫌な思いをした』。筋の通らない人物に対する至極真っ当な怒りであることを除けば、リョウセイの癇癪と然程変わらない。
「そっちこそなんで、なんで早くアイツのこと言わなかったんだよ。言ってればアタシは、――アタシは早く真実を知れたじゃんなッ!」
ありったけの疎外感を、怒りの体を崩さないで発する。プライドと、眼の前の彼女の様相とが大人げない態度を取らせないでいた。自己中心的な理由から動いていることは理解しているし、今ここで本性を現せばこの話は有耶無耶に出来るだろう。
しかしリョウセイは話の面舵を取れずに居る。梃子の板の取り合いだ。
「儂はニンゲンについて何も知らん。『お前の夢の中で南失高原が出た』程度は何の関連性にもならんし、第一、生物素人のお前に聞くと思うか?!」
そんな取り合いの中、コラツルは支点に近い論点を用い出す。抱いていた本能的な怒りがふと、理性所以の憤怒へと挿げ変わる。脚はしっかり地につけ、顔の向きごと不服を訴えていた。
「そりゃあ、……」
彼女の顔を改めて視界の中心に入れた所、言葉が続かなくなった。段々と怒りが鎮まる。手の張力が収まり、自然な取っ手の掴み方となる。
「……話を遮ってすまん」
コラツルは自身の口元を触ろうとしたが、結局は未知のものを撫でるかのように両手を動かし、自身が捉えていない何かに呆然とする。リョウセイにとってすれば他人事がすぎる振る舞いだ。
「カルタが、お前に記憶を植え付けたと言っとった」
彼女は今一度重い腕を伸ばし、事実を述べる。今となっては手枷が鬱陶しく、リュックサックの留め具を外して荷を降ろしだす。
「陰謀論じゃねえんだからさ」
ポリ袋やら何やらの音をバッグから奏でる彼女を余所目に、リョウセイは内心、ファンタジーを垂れ流す彼女の精神状態を疑っていた。
「カルタが言うには、ニンゲンの文明は進んどる。記憶を消すなら兎も角、付け足す分には容易いじゃろ」
コラツルは寝そべり錠を開く。反射的に、リョウセイは掴んでいた手を離していた。
「まさか。軽太が植えたんじゃないよな?!」
リョウセイは言葉に反して嬉々と興奮し、コラツルの方へ駆け寄る。気がつけば鉄の輪を握り、リュックサックの適当な空域に埋めてしまっていた。
「……『ワカタ』という奴が記憶を植え付けとった、じゃとか。あと、儂は枷類はバッグの側面に入れとる」
『セナ』の記憶が人為的なものであると知り、リョウセイは唖然として緊張が解ける。前世の記憶でも何でもないし、逆説的な信仰証明としても破綻した。
「ワカタ? ……為守のことか?」
単語とともに、インターネットを辿るように意味が《想起》される。若田為守。アニメ調の柄をした行政用AIの通称であり、日本国に於いては21世紀50年代後半からの運用が成され、十数年を得て辺境へと追いやられた存在だ。
「さしずめ、機械生命体と言った所か?」
彼女は周りだしたのでリョウセイは離れる。胴体が概ね三日月状になった後に彼女は右脚に左手をかけ、錠を回す。
「いや、人工知能」
足枷の外れた朴念仁はニュアンスに指図していたが、流してすることとした。人工知能。東果国の研究機関こそ人工知能を扱うのだが、実用上は未だ海の向こうの存在である。運用上、最も人工知能の発達の進んだ苙圻地域ではあるが、精神性の違いから多種族対応は絶望的とされている。リョウセイにとって生成知能系の算出する『画像』はナンセンス文学の退屈さのみを抽出した存在であり、疎ましそうな態度を読むに対岸の彼女もそうであるようだ。
「……ああ、ニンゲンしか居らんからか」
コラツルは外した枷をスペースに納め、チャックを閉めてしまう。この世界の住民にとって人工知能なんnぞ、坵暁国、東果国に分布する蒼尾族の知的玩具がせいぜいである。他方、鴻・苙圻連合国の住民にとってはオラクルマシンであるというので信じがたい。重量を大きく増したリュックを背負い直す彼女を、リョウセイは茫然と眺める。
「人格を持っておる、というのが引っかかるな」
自由にした両手足を用い、コラツルは右往左往と動き始める。彼女の知る論文のいずれにも彼らが自我を持ったという報告はないのだ。ユゴス連邦産の機械種族も電脳上で実装される人工知能とは根本的な仕組みが異なるという。
「行政用なんだよな」
リョウセイにとってはコラツルの発言の意図こそオラクルマシンなのだが、相変わらずが過ぎて適当な返しをする。
「……なぜカルタと行政用機械が知人関係にあるんじゃ」
そりゃあ、と言おうとした鰾が詰まりだす。記憶が辿れない。彼女は意にしない様子で、箪笥の方へと這い続ける。
「ワカタはいつまで運用されとった」
コラツルの続け様な台詞が耳に入る。リョウセイは《思い出した》途端、心底から狼狽えだす。
「……!? カルタが生まれるより前、セナが死ぬ前! 2065年!」
唐突に箪笥の前で両手脚を止めた彼女は『2065年』をニンゲンの用いる暦であると解釈した。実際、リョウセイにとってはたった今発覚した事実の前には『西暦』という些事たる固有名詞は夢中の事象でしかない。両者とも口腔からすり抜け落ちていたのだった。
「カルタが生まれたのは」
「知るかよ!!」
怒声を前に、コラツルが若干怯えながら立ち上がり出す。
「ワカタの製造に関わった者に、カルタの親は含むか?」
彼女の不安定な機嫌に対し強迫気味に怯えつつ、コラツルは何か質問をしていた。
「……! 居た! 笥富! うちの子……いや、峠浦瀬奈の婿!」
中年に差し掛かったセナの記憶では、里子たる峠浦丹鳳は水主笥富と結婚したし、その笥富は量電子情報工学の道を歩み、生物相応の頭脳を持つ演算装置さえ製造したという。
「『ササキセナ』は偉人ではないんじゃろ?」
何を当然のことを、と言わんばかりにリョウセイは答える。そういえば、コラツルは初対面時、軽太がニンゲンの世界のものであろう物資を多数所持していたことを思い出す。若田も軽太に野垂れ死ぬことは望んでいない。しかしニンゲン一人に出来ることなど限度がある。コラツルとして、著名でもないニンゲンの記憶を植え付けた理由も見当がつくし、製造に携わった人員の両親であると言うならばその再現も容易だ。
「――お前で、カルタのお守りをさせようと企てたのではないか?」
語られた、ただただ冷たい推察が彼女の脳裏を襲い出す。ふと、数ヶ月前に南失高原の悪夢をコラツルへ語ったことを思い出してしまった。何故、毎週だか隔週だか南失高原の悪夢を見るか。人間の名付けた名前でもないソレを夢として『思い出す』訳が筈がない。
――軽太を拾わせるため、意図して夢見るよう仕向けていたのだ。
「なんで、なんでアタシなんだよ」
畏怖の念と、それを覆い隠すだけの憤りが彼女の脚を縮ませる。身に綯うよう積み重なった不条理を相手に、彼女はただただ一定の言葉を反響させる。
「……確かに、気になるな」
内なる狂気を反響するリョウセイを他所に、コラツルは『わざわざ』リョウセイの素体を選んだ理由を疑い出す。ニンゲンに鰓などないし、皮膚呼吸も鰓呼吸も存在しない。骨格も似た蒼尾人の方が好都合の筈だ。
「――怖い、怖い。そこまで何をさせたいんだよ」
リョウセイはベッドの下と屈み、気がつけば身体が蹲っている。
「そら子守じゃろ」
ようやく恐怖を受け入れた所、コラツルはいつの間にか病室を立ち去っていた。一人となった病室で、リョウセイはわなわなとベッドに戻りだす。梅雨時であるし、加湿器無し仮眠を取る程度なら可能である。リョウセイは布団に潜り、暗闇の中に身を窶した。




