6:南失高原-① 夢現の怪
彼女は見ている。
潰れたゴム状の顔がリョウセイを見ている。リョウセイは何でもないというように、蔦状のサンゴを靡かせ蠢く何かと会話する。足鰭を割いたかのような足で歩み、五本指のそれは桜並木へと歩みだす。
花に木々は異次元の色彩を照らし出す。S疑錐体とL疑錐体では説明できない異常な世界が彼女に生かさせる。諸行無常。遮二無二。遮二無二。空を見上げる。彼女自らが醜い人間となって映画として映し出されている。見覚えがないと、見覚えのある映画に言う。彼女はリョウセイであると同時に、人間であった。
一人の少年が泣いている。リョウセイは不審に思い、近づく。
水主軽太であった。キャビンの中で彼は嘯く。
『佐々木瀬奈』
樹形図、或いは系図が白い壁面を覆う。佐々木瀬奈、峠浦龍之介、その他見知った名前と名字が箱に収められ、炎によって荼毘に付された。
名も知らぬ動物が海を泳いでいる。その名を彼女は知っていた。
ペンギン。現代では『ヴォーテックス』とでも呼ぶべきモノへと進化した生物の祖先だ。橙の彼女が泳ぐ。リョウセイはその個体名を知っていた。
彼女は重い鰓を動かす。その名前を呼ぼうとする。呼ぼうとする腕は暗く、色さえ見えない。
そこはだだ黒い、浴槽の中であった。水面がガラス越しに見える。両手両足は動かない。台に拘束されていた。
痛覚が走る。
『佐々木瀬奈』
軽太が彼女を見る。縄が水面を下りる。リョウセイは飛び込もうとするが、水面から先に進めない。
書籍の中には人間の記事が書かれている。そこに居るのは過去の残滓と判示であり、まで読み進んだところ文字列がぼやけだす。
☆
意識が現実世界に戻った時、必ず風呂場の暗闇に夢の続きが映される。数瞬もしないうちに現状の思考が異常であることに気がつき、はっと今ある現実を知覚する。
陶製の硬質な白と、それを覆う青い天井の中彼女はじっと寝ていた。ジャグジーからは泡が溶け、溶けきれなかった分は風呂蓋に張り付きやがて抜け出す。彼女は泳ぐようにして天井を退かし、地面に飛び込むようにして浴槽を抜ける。自宅とは異なる、硬質な音と感触が両手足に響き渡った。戸口を手に取り、すぐさま体をマットで拭き換えの病院服に身を包む。容易な着脱という機能のみを持つそれは人間に着せるものと大差がなく、リョウセイは着衣を済ませるのに1分もかからなかった。
「よーっす」
病室と更衣室を仕切る戸の開く音と共に現れた、その痩せ膨れた胴体を見てリョウセイは四肢を構えていた。ナイラス・カータク。薄い卦服の袖を病院固有の薄水色のたすきで留め、気持ち短い袴は先端を紐で尻尾と両足首に巻いている。彼はわざとったらしくクリップボードを持ち、わざとったらしく口角を引っ張っている。
「何でアンタが居んだよ……!」
眼の前の彼に頭を抱える。彼女にとってカータクとは軽太の次に出会いたくない存在だ。
「来ちゃったっす」
要領を得ない回答を楽しげに返し、風呂場の方へ向かい舌の先を伸ばした。
「人格障害が白衣着てんじゃねえよ」
一昨日の軽太も相まり、彼女には怒りを隠す気力もなかった。こうも横を何度も反復されると鬱陶しいこと極まりない。
「バイトだからしゃーねーだろっす」
カータクは両手を広げ、知らないという態度を装う。
「あっそ」
リョウセイはドアごと彼を横切ると、真っ先にベッド備え付けのインターホンのスイッチに手をかけようとする。日雇いであれ、岶岼大学病院様がカータクなどという人格破綻者を採用する筈がない。
「お前の面倒見ろって言われたんすよ! コラツルさんの父から」
「あっそ」
開けた明るい視界の中、ベッドにてリョウセイは足を止めた。彼女の認識としては碌に聞いているつもりはない。
「それに、俺聞きてえことが山脈程あるんすよね」
リョウセイはいい加減な返事を返しに脊柱を向ける。
「お前、ニンゲンだろ」
彼の全容が有効視野に入った途端、脊柱が硬直する。彼女は一瞬何を聞いたのか戸惑う。
「……軽太から聞いたか?」
リョウセイは慄く芝居をする。彼の顔を見据えるのが精一杯であったが、彼に隙を見せてはいけないとツェラヒラから伝聞されている。彼は一度でも気を許せば粘着質に迫ってくるというし、質感として稚児のような鬱陶しさを持つ彼がそうでないとは考えたくない。
「コラツルから聞いたんすよね。泣かせたの覚えてねえの?」
カータクは芝居がかった躊躇いを隠さない。蛍光灯による蒼い目のハイライトが燦々とリョウセイを突き刺さんとしているかのうようだ。
「会ってねえんだわ」
嫌悪感を押し殺し、脊柱の半ばや腕に力を入れて返す。威嚇であると捉えられることはないと
「切断厨がよ」
ドスを効かせた糸目でリョウセイは睨まれていた。彼の怒る様は比較的マシな兄を連想させる。
「アタシが自傷フェチみたいにほざいてんじゃねえぞ、常習犯が」
リョウセイは彼の腕に刺さる目線の意図を察しつつ、罵倒に罵倒を重ねる。蒼尾人は尾を自切出来るのだが、頻繁に行うのは情緒不安定な個体だけだ。
「……お前の記憶力には期待してねえんで、答えなくていいっすけど――」
彼は慇懃無礼の前半分を切り落とし、緩々と甲高い足音を立ててリョウセイに近づく。
「誰に教えてもらったんすか? 『ササキセナ』について」
「知らね」
リョウセイは両足を弾ませ、そっぽを向いて彼を通り過ぎる。
「カルタくんからってオチは無しっすよ?」
引手に目線を合わせんと立とうとした所、彼女の肩に生硬い質感が襲う。
「本当に覚えてねえんだよ、いつ覚えたのか」
リョウセイはカータクの手首を乱暴に掴み、大人しく平行移動させるように引き離した。
「痛いなこの年増」
悪態を隠さない彼に背鰭を見せ運動すると言い聞かせる。
「じゃあいつ、リョウセイじゃなくなったんすかね?」
彼は朗らかな声を発する。感情表現の見境の無さはリョウセイに後ろ寒い感情を覚えさせる。
「お前のが痛えわ」
跳ねるように引手を取り、戸を後にした。襖と壁の続く廊下が線に沿って点滅して見える。
「さっさと答えてほしいものっすねぇ!」
場違いな大声が自販機のノイズや人の声、その他複数の音響を通して精神科棟を駆ける。
「昨年の秋だ」
小声で思いついた言葉を返し、引き離すように廊下を駆ける。
「どこから来たの?」
「南失」
「嫌いなものを2つ」
「注射、大型犬」
「オオガタケンって何すか?」
「大きい犬」
「ニホン語は?」
「話せる」
「ヒダ市北区は?」
「知らん」
「好きな食べ物は」
階段の踊り場にて、リョウセイは壁を殴って振り返る。環境音のエコーチェンバーを失ったことから、その音響は両者の受音器官へと高々しく響いた。
「なんでついてきてんだ、退けよ」
どことない不快感を覚え手についた煤を背で払い、ついででどことなく湧いて出た掻痒感を取る。
「てことは君は、イヌに記憶を植え付けられたんすね」
彼はいじらしく両目を瞑り、歯を見せて応答する。
「は?」
リョウセイは瞬膜を瞬いた後、瞬時に彼の顔元が見入る。蒼尾人の表情としては『自慢』を表す態度であるし、オーバーなその表情表現は彼女にとっては非言語的シーニュを暗記するだけの作業に過ぎない。
「聞いたこともない存在が嫌いなんて――」
「――人文系降りろ」
三文小説未満の推理であると鰭で吐き捨て、咄嗟に土間のUターンの続きをして下階に降りようとする。
「――何があったんすか?」
一段目にさっさと脚を運ぼうとした所、カータクが先回りして立ちはだかった。彼は一段下に脚をかけているというのに、彼は見下ろし嘲け顔を見せつけていた。
「……帰る」
視野の奥に映る別の患者の方を一瞥した後、リョウセイは再び背鰭を向ける。
「明日明後日また同じことされるだけって判らねえんすか?」
足がターン半ばで止まり、相変わらずの表情を見せる彼の方へと頭は振れ直る。
「お前、いつまでバイトするつもりだ?」
背筋と脊柱を曲げ、邪悪な態度を続ける黄と黒のそれを左目の中心に捉える。患者の気など考えられない彼への嫌悪感に託つけ、生来の彼に対する憂々を立ったまま全身で表現する。
「知らねーっす、コラツルのパパさんにお目付け役を頼まれてるだけなんで」
カータクは昼過ぎ、コラツルの家にて遭遇したフウギの様子を思い出す。秋以来のコラツルの足首から鳴る鎖の音といい、日光を浴び燦々とするその翡翠色の鱗はただ、彼の底知らずの呪詛と怨嗟を封じたいだけと思えてならない。
「捨て土産に話すか」
リョウセイは彼の顔が若干、作り嗤いへと変貌したのを見過ごさなかった。蒼尾族というものはリョウセイからすれば、逃亡精神逞しい草食系生物だ。実際の食性こそ雑食であるが、恐怖を覚えた彼らはまず自らの逃走を試みるものだし、現に彼の脚はリョウセイへ向かう方へと竦んでいる。
表情の崩れた彼を前に、『黙って聞いてろ』と言いつけ前に立つ。




