5:東果列島-⑪ 려棲
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青い筈の空に、白なのかも判らない斑模様。夢に見る生き物と言えば、得体の知れない粘液を流す、ゴム状の肌をした気持ち悪い何か。得体の知れない色をした草木に枯れ葉。山の鮮やかな色彩さえ穢れているようで仕方がない。そんな中途半端な色だった筈がない。
岶岼市紅蓮区の源泉群は『下呂温泉』という名前な筈もないし、巽峡地方に多く見られるカルテマイト層は『元・五大都市の四割』の筈が無い。ワグンローデア大陸がユーラシア大陸に酷似しているのは偶然だろうし、そもそも地球がなんだ。空似だろう。現実問題、異世界は地球に似ていない方がおかしいのだから、飛騨山脈のような山脈が岶岼市東部に存在するのは偶然でもなんでもない筈だ。そもそもここが人類滅亡後の世界だとすれば、プレートの配置なりなんなり変わっていて妥当なはずだ。ほら、九州だって上下に割れているし、確か偉い研究者が言うには約50万年後にはこうなるという。偶然に決まっている。
とにかく、『人間』などという生き物は実在しない。すなわち、悪夢は悪夢でしかない。喩え目の前の画像がホモ・サピエンスの頭蓋骨にしか見えずとも、復元図が酷似していたとしても、無関係だ。異世界なんだ。偶然だ。異世界転生などという都合の良い物がある訳がないし、未来の世界だったとして記憶をどう移そうものか。喩え輪廻転生をしようが変わらない。前世の記憶があるならばそんな話を周りから聞いている筈だ。だが宿民の誰もそんな話はしないし、巷でも聞かない。
――だから、違う。アタシはリョウセイだ。Kn'ngwahye家の長女だ。R'tyoiだ。佐々木、否、ササキセナだとか、トウゲウラセナな訳が無い。夢に出る男の人が峠浦龍之介だとか、あまつさえたっつんなどと甘々しい呼び方をする筈が無い。というか甘々しいとはなんだ。たっつんはただの意味のない音韻だろうが。日本語がなんだ、そんな言語は実在しない。アタシが会話できるのは母語と東果語だけだ。日本語なんてダリにも判らないし、ダリなんて異界人はこの世に居ない。そもそもアタシは未婚だ。配偶者など棲息していない環境なのだから事実上は喪女も良いところだ。現代風に言えばインセル。死語だったかもしれん。そう、アタシが産んだ生き物はアタシと同じ汽陸人であって、吐き気を催す頬赤の能面と炭化した気色悪いイソギンチャクな筈がないんだ。だから黙れよ、アタシはあんな生き物じゃない、お前も、お前も、お前も、お前も、そんなに自分が気持ち悪い生き物だと認めろというのか。あんな顔も不定形でアメーバ状で、鏡を見ろよ。ほら、アタシはアタシだった。アタシだ。リョウセイだ。リョウセイは鏡を見ると、何でもないように調理室へと向かっていく。そういえば、もう彼らの為にチョコレートでも買って上げたいなどと考えた矢先、何故彼らに猛毒など盛ろうと考えたのかと苦悩する。
調理室に辿り着いたので、冷蔵庫を開く。リョウセイは食材の搬入を忘れていたことを思い出した。今日の分を作れば明日の昼・夕食は作れないだろうが、構わずリョウセイは人数分の食材と作り置きを取り出す。鴨肉を取り出し、包丁で2寸程度の大きさに切り出す。塩を振り、袋に入れ揉み込んで暫し待つ。右腕が彼女を嘲笑う。自分ではない何かが彼女を見下ろし嗤っていた。
しばらく経った後、ボウルに片栗粉と水を入れて混ぜ、更にその工程に小麦粉を加える。鴨肉に出来上がったそれをまぶし、用意していた油の中へと入れ熱する。油の向こうに歪んだ自分の顔が見える。彼らは自分を嘲笑っている。
裏返した後、強火にして一分後に取り出そうとした。熱油が彼女へと飛び散り、反射的にリョウセイは腕を宛てがうように覆う。熱い痛みが襲う。その箇所は右腕であった。4本指で犬かきが生え、不気味な粘性の鱗が覆う腕であった。自分の腕ではない。自分は5本指であったはずだし、そもそも水かきもついていない。なんなんだ――
――なんだというんだ。いつもいつもアタシの邪魔をしては我が顔をする、次女に無能な父に地元のクソ共。自分には逃げ場がないとでもそんなに嘲笑いたいのか。アタシはお前らが邪魔でウザくて反吐が出るから山に暮らすと決めたのに、どこまでどこまでどこまでどこまで――
『――往ねよ』
リョウセイは、手に持っていた包丁を振り翳す。右肩が軽くなっていた。調理場の熱に生臭い体温と動脈血とが足元に混ざり、包丁で叩き潰されては軽快に肉汁と血肉を滲み散らす。切り離されたそれは気枯れたような瘴気を放っていた。彼女は東果語を話す理性も、時間感覚さえ失い、ただただ罵詈雑言を右腕へとぶつける。
『往ねよッ! もう往ねってんだよッッ! 猥褻で淫猥で、さもしいクソ肉共が!!! いっつもいっつもアタシに這い寄っては邪魔してッッ! 胎の肉でも貪ってたようなクソ寵童が、遅生まれのゴミが何、アタシの可愛い弟を虐げて、何があんだよお前にッ、パパも早死しやがって、軟弱な喪男がなーに、託せもしない一族をアタシに遺そうとして? 邪魔なんだよ、ササキセナぁッ! お前さえ居なきゃアタシは余程良い人生送ってんだよッッ! ポッと出の前文明の悪霊の分際でこれ以上アタシを苦しめんじゃねェえ!!! ササキセナァ!!! この腕ごと、この血ごと貴様らを殺してやる、ササキが、ササキが、ササキがよッッ、――』
東歴2362年13月2日、酉後1時32分。幾許の年月と彼女を邪魔してきたソレらの潰えるその瞬間は、愉快で愉快で仕方がなかった。
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酉後1時25分。ナイラス・ナザネルはコラツルを連れ、入間荘の一室を借りていた。現在彼がしていることといえば、携帯電話でWebページを漁ることくらいだった。
「いつまで俺の部屋に居るんですかねぇー」
ツェラヒラは壁にかかった時計を見、鬱陶しそうな態度を崩さない。医学図書館から借りたであろう医学書を片手に勉強しているが、ナザネルにとって興味の対象ではない。
「あの女の調理が終わるまでだよ」
ナザネルは携帯を眺め、適当に思いついた単語をタイプする。
「たかるとはそこまで落ちぶれたか」
ツェラヒラは彼の携帯から発された何かしらの音楽をBGMにしつつ、勉強の片付けを行いだす。
「アイツの飯に興味ねえわ」
カータクが大嫌いであるというリョウセイに対し、ナザネルは興味を抱いていた。見知らぬ人を夕食の場に抱えさせ、我々は住人だと言い張って困惑させたい。純粋な子供心から来た悪戯だった。
「ちょっと果物屋寄ってくる」
ツェラヒラは急に立ち上がり、バッグを取って外へと赴き出した。
「もう夕食じゃねえの?」
ナザネルは雑な片付けられ方をした机を一瞥した後、今一度彼女の方を見る。
「夜食用」
ナザネルは、自身が既に空腹を訴えていたことを思い出し、数分、ナザネルは体力を使わないようじっと、椅子で携帯を操作だけをしていた。
「いつ悪戯は終わるんじゃ」
横にて聞き慣れた蛇人の声がする。彼は悪戯の為、コラツルを同伴させていたのだった。
「知らねえよ俺様も……」
率直な感想であった。
「もう門限を30分は過ぎとる」
「それこそ知らねえよ……」
ナザネルはこれ以上イライラさせるなと言わんばかりに、投げやりに応対をする。
「帰らせろ」
「えー」
「か、え、ら、せ、ろ。」
コラツルは苛立ちを隠さず、ナザネルの腹元を睨む。
「夕食って酉後1時と言っとったな?」
「あ、そうだが――」
「遅すぎ。儂は帰る」
コラツルは地面に四肢をつけたまま、帰路を這い進もうとする。
「じゃあ見に行こうぜ!」
ナザネルは底抜けた明るい声を発する。
「意図がわからん」
コラツルは半目でナザネルを一瞥する。
「自分は引き返したくねえわ。カータクが嫌いッつってる奴だぜ? 憂さ晴らしよ憂さ晴らし」
彼は大袈裟な身振りと共に大袈裟なイントネーションでコラツルに呼びかけている。コラツルにとって今の彼はストレスでしかないが、この場合は従わない方こそストレスが増えると学習していた。
「……さっさと見に行って終わらせるぞ」
苛立たせた足音を立てて部屋を出るので、ナザネルは軽い身振りで様子を眺めることとした。廊下を渡るときも無言を貫き、そこに会話はない。ナザネルも様子を確認することだけが本命になっており、主目的を完全に忘れていた。
二人は匂いを参考に調理室を探す。家に忍び込んだときに比べ、料理の匂いが希薄すぎる気がする。数分して調理室だろう部屋を見つける。
「……何故閉まっとる?」
コラツルは現状に対し、真っ先に違和感を覚える。
「さあ?」
ナザネルは彼女の方を見て応対する。彼女は苛立ちがその嘘のようにじっとしていた。
「というか。調理にしては音がおかしくないか?」
打撃音を鼓膜が、両手足が聞き取っていた。料理中にしては音と振動の鳴る高さが低すぎるし、敷物越しの響き方ではない。
「ま、そこは知らんっ」
ナザネルは軽々しい気持ちを取り繕い、調理室の扉に手を掛ける。ほんの少しだけ開け、右目で垣間見ることとした。
彼は、そこに何が映っていたか理解が出来なかった。汽陸人が低い姿勢で調理しているように見えたが、それにしては血の気が凄まじい。彼女はまな板も使わず、ただ青い鱗をした肉のようなものを包丁で叩き刻んでいるように思えるし、獣のような、言語を持たない罵声が耳を劈いていて仕方がない。調理中といえど、割烹着に付いた血は屠殺場のそれに近い。彼は、隙間から広がる光景を理解しないつもりでいた。
「……?」
コラツルが、ナザネルの様子に対して訝しい視線をぶつける。彼は微動だにせず、ただわなわなと手を震わせていた。焦燥感が共振的に生じてくる。コラツルは最早時間に耐えられずにいた。
「退け!」
金属のフレームが脚の裏に当たった感触がし、反射的にナザネルはコラツルに道を譲ってしまった。
扉が完全に開かれる。凄惨な光景が丸裸に訴えかけてくるというのに、ナザネルは扉が根の国のものに思えて仕方がなかった。
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生々しい鉄の匂いが舌先を、鼻の裏側を貫く。汽陸人の彼女は、腕の一部らしきものを、左腕に握った包丁で叩き潰している。右腕の肘の先を無くし、断面から動脈血をただただ、カーペットに撒き散らしながら、本来あるべき体の部位を左腕に握る包丁で叩き潰している。
「鐫■゛Γ、鐫■゛Γ、ササキセナッ!! ひ豐゛瀦駟mh、甕!!!」
目の前のそれは何かを蠢いている。たった今調理場に入ったコラツルとナザネルにとって、この女性は、この部屋は、この惨状は未知以外の何物でもなかった。
「お、おい!? お前何やって――ッッ!」
紺の服を着た蒼尾人は状況を一瞥し、直ぐ様彼女を止めようとした。次に蛇人の彼女が飛び出した瞬間には両手を口に当て、訳も分からないまま立ち尽くすばかりだった。奇声と奇声が部屋を蹂躙し、一上肢失った彼女に理性を失くした彼女が飛びかかっている。
「ササキセナッ、鐫■゛Γ、鐫■゛Γ、ササキセナッ!!! 罒さ臥呂゛藏ゟゟ!!!」
コラツルといえば、ただ自身を揺るがす原因の消去が最優先タスクとなっていた。彼女の足の軟条に鈎爪が刺さると、掴むようにして動かさせない。リョウセイは小癪な介入者に包丁を翳そうと所、彼女の首元の口輪に防がれ跳ね飛ばされる。ナザネルは、すぐ傍らで軽快な金属音を立てて転がる、動脈血の色のソレをステップで躱そうとした。
『こちら010番です、もしもし!』
右手に握っていたそれが、多少の白い光と大音量を伴って彼に突き刺す。視線が反射光を浴びせるソレに向かって仕方がなかった。
「――! 事件です! 入間荘一階調理室! オーナーが腕切り落とす、されて暴れてます!」
この場のものではない声に気付いたナザネルは耳元に形態の液晶を当て、覚えた限りの言葉の羅列を叫ぶ。
『自傷ですか?』
彼は今一度前を向いてしまう。惨状を齎している彼女ら二人が再び視界と聴覚に入り始める。
「……! はい。同伴、パート……ぼ、ボクの同伴が今止めてます!」
単語が詰まりだす。舌をこれ以上外気に晒したくない。血液のくぐもった臭いを嗅ぐまいと、舌を可能な限り口の端へと追いやろうとする。
『ところで君は?』
「……大学生! 通りすがりの!」
ナザネルにとって最早、逃避のための言葉でしか無かった。通話が切れるときには、惨劇もコラツルも、自らの気の甘さも何もかもを放り投げていた。せめての償いと考えたときには両者ともに暴れるだけの力を失っていた。彼女の切断面を止血していた際に警察官との応対をし、その後にリョウセイは救急車で搬送された。
以降の出来事は誰にも伝わっていない。誰も、この出来事を思い出したくなどない。彼女に親しいというツェラヒラにナザネルは事情を尋ねたが、説明など不可能であった。




