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東果を覆う陸海のもの  作者: 浅葱柿
5:東果列島
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5:東果列島-⑩ &0b9 |> En…

☆☆


 彼女は息を枯らしながら後方を確認し、ガスマスクを取りバッグに入れた。頭から分泌されていた液が排出され、霧雨と混ざり滴る。呼気を一層増し、喘ぐようにして立ち上がり歩いていく。首から先だけが適度に冷え、頭を持ち上げるようにしていた。


 槞掏(るうする)寺院の参道を一瞥する。坂の上へと道が架かっている。撐理教や祇道と異なる、『閳渕(せんえん)教』という汽陸族の宗教に関する施設である。普通、汽陸族の棲む街では左右には水路が架かっているのだが、参道は単に矩形状に切り出された岩が壁を作っており、苔が場を有機的に冷やしているのみだ。陸に設置された別院など修行士の為のものであり、ごく少数のイベントの日を除き祈りを捧げに来る者は居ない。リョウセイ自身、生きている合間に百メートルも高い施設に上るとは考えてもみなかった。


 坂が終わり、息を切らしながら後ろを見やる。海霧の上には東果国のかの渕士(えんし)が拝めていたとされる汨鍬陀渕君(みゃぐゎたえんくん)の巨像が、海中にある本堂を表すランドマークとして設置されており、改修工事の入った現在では鉄骨とクローラクレーンに囲まれている。


 別院を改めて視界の中央に入れる。山と雨雲とに六方を挟まれたそれは、日本と呼ばれていた地域の『五重塔』を連想させた。来客を想定しない建物であるが為に塗装は剥げ果て、高々、リョウセイの前に出迎える色といえばガラスに保護された渕画(えんが)程度だ。リョウセイは眼の前の光景と足音一つない現状に安心感を覚え、適当な縁側に四肢を付けた。


 暫くして雨が増したので合羽を脱ぎ、全身を雨に浸らせる。一週間ぶりに彼女は肌を外気に晒した。実際何度か汗や諸々、空腹の処理の為に脱衣こそしたが、体感としては『ようやく』である。リョウセイは周囲のありもしない視線から開放され、半裸で寝転がってすらいた。


 暫しの間、リョウセイはウナギのような汗を雨で禊ぎつつ、空だけをぼんやり眺めていた。現在時刻がいつだったか、ここがどこか、自分が何者であったかさえ忘れてただその場に居た。さながら親の胎内から出てきた時のような、爽やかすぎる気分だ。カラスの鳴き声一つさえ心地がよい。


『痴女かよ、お前さん……』


 ふとした声に首をのたうち回らせる。この場にあってはならない声であった。


『寺院にまで登るとは、なんて罰当たりな』


 発声源を特定した後、リョウセイは嫌そうに体を抜け殻で覆い隠す。


『やっぱりリョウセイじゃんか』


 ジロジロと全身や胸鰭を見やる。彼女の棚に上げる性格は、センリュウにとって次女を連想させる。


『……なんで来たんだよ』


 リョウセイは胸鰭を苛立たせつつ、合羽の袖を結んで巻き、普段着る袴代わりとした。へばりついていた雨水が心地よい。


『あんさんが言うなって』


 カラスが首を回した後、どこか遠くへと羽ばたく。


『言えない。言って何になんだよ』


 彼女は虚ろに芝生を見やる。もしここにコラツルが居るならば、ここは名前も学名もない雑草でいっぱいなのだろう。


『お前さんらしからん……』


 センリュウは胸鰭を左右に振っている。平気で人を振り回す見栄の強い次女とは違い、彼は嘘をつかない部類だ。


『今の長はどうしてる』


 リョウセイは安心感を覚えながら、思った言葉を口にしていた。


『相変わらずでありんす』


 その言葉からリョウセイは全てを察する。よく見れば彼は尾鰭に痣を作っている。それもここ数日に出来たものであろうし、人為的なものだ。


『アタシって、何なんだろうな』


 彼女は再び脚を付けて寝そべり、気がついたら勝手に喋っていた。


『リョウセイだろ』


 センリュウは思い返すように口元をわなわなさせて言う。


『違う』


 『リョウセイ』は通称名である。汽陸族は現存する唯一の魚類種族であり、多くの海域と海辺に棲息している。海を厭わない精神性は貿易の観点ではとても優れており、汽陸族が文明を次なる段階に進ませたケースも少なくはない。他方、生物学上は純陸上種族と相容れない箇所も多い。例えば、海上での会話に適した発声器官の都合上、名前の呼び合いが困難という点。陸上種族がロクに発音出来ない名前を呼ばせる訳にはいかないし、閳渕教の教義として本名は深遠な意味を持つ。そこで大半の文化圏の汽陸族は、翻訳可能な名詞を一般的な名前として用いる文化が生じている。


『じゃあ、Kn'ngahyeか』

『そりゃ、アンタもだろ』


 リョウセイの姓は『Kn'ngwahye』である。留めるを意味する『Kn'ngwahya』の名詞形だ。本名とは異なり特段の意味合いはないが、東果国の戸籍上では省略が可能である。こちらも発音が困難だし、書かれても行政人の面倒となるだろう。リョウセイは諱同様、頑なに口にしないこととしている。


『R'tyoi』


 硬いトーンで発された諱を聞き、リョウセイは反射的に見慣れた仏頂面を平手打ちしたくなる。R'tyoiは雫を意味するR'tyoに人名用接尾の-iがついたものだ。親から与えられ、受け継いだ名前はそうだというのに――


『……知らねえやつの記憶があるんだよ、アタシには』


 ――セナだかササキだかトウゲウラだかセナだか知らない異様な呼び名が脳に浮かんで仕方がない。諱は家族以外に言わざる聞かざる存在なのだが、リョウセイは得体の知れない諱を植え付けられたかのようだ。


『エーテルに当てられたんか?』

『セナって奴の記憶』

『?』

『前世は人間って生き物でさ。今アタシはそいつを攫ってんだよ』


 当然の反応をするセンリュウを前に、彼女は口に鰓に鰾を再び動かしては爆発させるように動かしていた。人間という生き物の正体に、人間の滅亡。人間としての前世やその生い立ちまで何もを彼に聞かせる。


『意味分かんねえよ。二つあるみたいだ、本名が』


 名前は親から受け継ぐものであり、子を縛るものだ。故に本名を教えるとは、運命を共にするという意味を成す。セナとかいう邪霊を一人で抱えるから辛い。幸い、ここには愛しい三男が居る。聞いてくれてるに違いないそうであれとリョウセイは期待し、今一度を正面を向いた。


 そこにはもう誰も居なかった。霧めいた虚無と遠景の山河とだけが彼女を出迎えていた。


『……そろそろ、雨は止むか』


 バッグから再びガスマスクを取り出し、渋々装面しだす。顔が完全に隠されて今一度前を向く。潮風も雨天も何も彼女を通らない。誰が何を言うとも彼女はリョウセイでしかない。実の三男は見捨て、第二の地元・岶岼も見捨て、今となっては軽太さえ見捨てんとしている。


 リョウセイは腰で靡いていたものを今一度解き、着衣を始める。ガスマスクにて顔を隠した後、重い音を立てて無人の参道を這い出していた。



☆☆


「君が、ぼくのおばあちゃんなんでしょ」


 軽太は今度こそ慎重に口を開け、勢いのままに質問を発する。脳に突っかかっていた小骨が取れた気分だった。


「喧嘩売ってんのか」


 リョウセイは鰓も胸鰭も微動だにしない、これ以上ない無表情を浮かべている。軽太の目でも認識できるほどに平坦な表情であった。


「なぁーーーんでッ、アタシがそんな気色悪い生物でなきゃいけねえんだ、沈めんぞ?!」


 彼女は軽太が少しして同じ表情をしていることに気が付き、憤怒と言い換えるべき怨嗟を場に撒き散らす。


「おばあちゃん、養祖母なんだけど、なんで人間だと思うの?」


 軽太は頬を緩め、嫌味な微笑をする。彼女に人間の表情など伝わらないと知っているが上の行動だった。


「は、そりゃさ。……」


 リョウセイはこれ以上、言葉を紡げない。爆発した怒りの熱を肺呼吸として発散させるのみで、出鱈目なノイズすら声に出せなかった。 彼女は明らかに人間に生理的嫌悪を覚えている。一方、軽太は人間以外の種族に言及した例がないし、彼らの常識からすれば、本当に一種族のみが支配する国家など想像もつかない筈だ。おまけに彼女は、峠浦瀬奈は血の繋がってない祖母だと知っているにも関わらず、『どうせ瀬奈は人間ではないんだろ』、と言い逃れさえしない。


 軽太はビンゴ、と言わしめたいように背でガッツポーズをする。


「佐々木瀬奈って知ってる?」


 彼はそういえば紙コップに水を入れていたのだと思い出し、ウォーターサーバーの方へと取りに戻る。リョウセイは相変わらず無言だ。


「コラツルがさ、『佐々木瀬奈』って聞いた途端暴れ出しちゃったんだけどさぁー」


 軽太は若干の硬い苛立ちを覚えつつ、先程の愉快な表情を崩さないように心がけていた。


「なんで、そんな言葉を知ってるの?」


 表情を取り繕うことにも飽きた彼はコップに口づけし、ただただ真剣に疑問符を打った。『そんな固有名詞は、人間について調べた如きで出て来る訳もない』だ。実際、佐々木瀬奈ないし峠浦瀬奈は歴史に名を残した程の人材ではない。


「知ってるってなんだよ」

 

 リョウセイは、わざとたらしく口を開けっ放しにしている。


「君の口から出てたって聞いたんだけど?」


 飲み干したカップ片手に、硬い苛立ちの赴くままに疑問をぶつける。いくら軽太が黙秘や嘘を弄そうとも、人間という絶滅動物の正体程度、賢い人ならば見抜けてしまう。一方、『水主軽太の義理祖母である、峠浦瀬奈の旧姓が佐々木である』という、森羅万象にとってマニアックすぎる情報を持っている存在は限られているのだ。


「そうだよな」


 非常に穏やかな声であった。リョウセイは彼の言わんとしていることを受け入れていた。次女に一家の長を譲った時に似たクオリアを浮かべていた。


「アンタは何も悪くない。遥々とした未来に来てしまった、不幸な小学生ってだけさ」


 リョウセイは、涅槃にでも至ったかのような態度を続ける。


「そんな言い方――」

「――どうかしてるんだよ、アタシは」


 軽太はコップを握りつぶしていた。感情をコロコロ替える彼女を前に、どうすべきなのかとうとう判らなくなっていたのだ。


「何があったか、話すさ、あの日のこと」


 リョウセイはジェスチャーで適当な椅子へと腰掛けることを促す。


「あの日って、何?」


 軽太は椅子に食いつくように座るも、当然の疑問と不安の表情を浮かべる。リョウセイは人間の知識から、彼は当然の反応をしていると解釈した。


「……アタシが腕を斬り潰した日だよ」


 現に彼女のしたい話は、軽太が知りもしない、東果に訪れる前の話なのだ。リョウセイは今一度深呼吸の音を発すると、重く閉ざされた口を開き始める。


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