5:東果列島-① 下宿
酉後5時、寡黙な照明と寡少な車音とが照らす小道を、一つの硬い足音が通る。マッスルメモリーの通りに右折し、寝静まった入間荘の玄関の戸を開く。
ツェラヒラは携帯の照明を蝋燭代わりにして廊下を渡る。彼女は教員との仲が良くないし、配属された研究室に於ける人付き合いは全体的に良いものではない。新人への教育は研究室で得た内なる倦怠感はただの風邪だろうと言い訳して前へ進む。彼女は小学生の頃、フィロウイルス熱から早退した記憶を思い返していた。保健体育の授業にて当ウイルスの感染症は重症の際に喀血するとは聞いていたが、彼女は軽症であったにも関わらず治癒3日後に紅い血を鱗につけ、魚鱗マークの車こと救急車で市立病院へと搬送された。
彼女は病院での時間を覚えていない。あの正体不明の喀血の味とはトラウマの根源であり、いつしか鉄分の強い食べ物が苦手となった。ウナギの肝など食べられたものではないし、給食の際口に放り込んだだけで極度のストレス反応を起こす始末だ。中学生の際、雁のレバーを食べて嘔吐し、周囲に嗤われた事が嫌で嫌で仕方がない。雑巾の味のするスキーマが脳内を反芻する中、片手に持ったバッグが彼女の部屋の扉へとぶつかる。彼女が襖を開けた時には何を思い返していたか忘れていた。
さて、ツェラヒラは自室にて緑茶を淹れ、帰路に立ち寄った商店街にて受け取った坵菓子を頂く。街頭が照らすはエンジュの疎らな花々とは綺麗なものだ。口に入れた坵菓子は舌に絡めつつ、ただ遮光カーテンも閉めていない窓の向こうへと見惚れていた。寝なければならない時間であるのだが、夜行性である北夷人としての本能が抗うもので、彼女はとても寝付けそうにはない。着替えもせず布団へと寝転がる。袖から転がってきたUSBメモリを面倒そうに取り出し、数分渋った後にノートPCへと挿すこととした。知人が気分転換に提案した、データの入ったUSBメモリの交換なのだが、彼女はその様式から一瞬ウイルスを連想して警戒した。所謂『デス〇〇』の系譜のように、自分の手元に渡ったものに限ってOS破壊コマンド等が仕込まれているのではないかと、ツェラヒラは予備の廉価PCに挿して確認した。ウイルスの類は研究室で確認された通り仕組まれてはいなかったようだが、内部ファイルは暗号化されており開けない。ツェラヒラは初めに適当な日付を入れてみたが、15回弾かれた所で諦めた。
「よう、夜花見か?」
一瞬、情報処理に長けた教育学部の生徒がよぎったが、忘却に努めようとしていた。
「入ってくんな」
ツェラヒラとて、襖に鍵をする習慣とはカータクの厄介さから忘れ果ててしまったものだ。後ろを振り向き憤慨の声を上げ返す。床に放置していた空の酒瓶が音を立て転がる。
「空き巣だろ、ここ」
ナザネルは足元に卑しくやってきたそれを手に取って睨む。
「通報してやろうか?」
彼女は侮蔑の眼差しを一瞬向けると、すぐPCの方へと視点を移す。ナザネルにとって慣れた睨まれ方であり、彼はただ戯けた女々しい鳴き声を返した。
「なんでこんな時に来るんだよ……」
ツェラヒラにとっては面倒事のキャパオーバーだ。特に、下品な態度を隠さない彼は苦手だ。万物に発情する仕草、かつ現に警察の御用になっていないいことから冗談だとは理解できるのだが、それにしても彼女は彼については距離感のない、不快な記憶が多い。
「そーゆーのは元カレに言ってほしいんだよなぁ」
腕をぶっきらぼうに伸ばしては、ツェラヒラの机へと座って脚をバタツカサエル。ナザネルが記憶をたどる分には、弟は頻繁に彼女の寝室へと侵入していた。
「……あ? ご愁傷さま」
彼女はナザネルを退かそうと考え、ノートPCをもって机の中に入り込もうとした。
「俺様は一生独身でーす。付き合いもしねえぞ!」
ツェラヒラはPCを床に置き、彼の足裏を爪でつついたところ、脚の振幅と周期の値を増させるだけの行為に終わった。
「そのまま自らの血脈でも絶ってろ!」
彼の性的嗜好からして、同性のパートナーが居たのだろうと考えていた。二重の憤りをナザネルの鼓膜へと見せる。
「相手が一人なんて勿体なくねェ?」
三重奏となった怒りは一瞬、頭突きで発散しようと考えたが、常に裸足で彷徨く彼の足裏に触りたいとは思えないし、口に彼の得体知れずな臭いが付くことは生理的に受け付けない。
「で、あのババアってどうなったん?」
ナザネルは机から音を立てて立ち上がり、窓ガラスに手を載せると、口を開けて蒸気を吹き付ける。
「言い方酷えよ」
彼女はふいに夜風に当たりたくなった。ツェラヒラは肩を前のめりに動かしたところ、欠伸が上がる。頭が僅かに木の低い天井へとぶつかる。彼女はここが机の下であることを失念していた。
「あの汽陸族の中年ってどうなったん?」
ナザネルは指を動かし、ガラスに残した皚々とした湯気が融ける感触を味わう。
「前んときと同じ代理人だよ、今」
机の下、器用にツェラヒラはノートPCを手繰り寄せるように外に出し、机の上に置いた。リョウセイは半年前に自ら左腕を切断し、ナザネルの010番通報によって最寄りの病院――岶岼大学附属病院へと搬送された。リョウセイを含む汽陸族の特性として驚異的な再生を持つのだが、それでさえ腕の完全な再生には四ヶ月を要し、その間は代理人を名乗る蒼尾人が務めていた。
「……へえ」
ガラスに触る黄色は一瞬、体をうねらせる。ふと差別的な発言が喉から出かかったが、自分のものでないそれは意地で飲み干した。
「なんでまた急に消えたんすかね」
ナザネルは自身の手の爪を見ては、爪同士を擦り合わせ研ぐような動作を見せる。急に、彼はガラスの先のエンジュの花々が似合うとは思えなくなったのだ。
「俺は知らん。発作だろ」
僅かに白い泡沫が窓ガラスにかかっているのを見、ナザネルを退かすようにして現場に駆けつけハンカチを当てる。ツェラヒラとていつか酸欠死するだろうとは思っていたし、自傷行為にも等しい山登りを敢行する様は引き篭もる以前より精神科か心療内科に通うべきと小馬鹿にしていた。
「本当に引き籠もったらビビる癖に」
ナザネルは気化した唾液の味を飲む。流血沙汰の瞬間のみを切り取って想起し、その後をつとめて再生しないようにしていた。
「『いつもの』発作って言い換えてやるわ」
彼女はガラス越しに、彼が目を背け始めたエンジュの花を見る。アウトドア派の彼女が一日消える、おまけで帰宅時に家事をする意欲の消沈を起こし商店街の弁当で済ませる程度のことは多発する。そんな彼女を知っているからこそ、流血沙汰を起こしたあの彼女の記憶は恐怖でしかない。血液の臭いこそどうでも良いが、前駆的に感情を失った彼女の身振りこそ思い出したいと思えない。
「3日も消えるのは変っつッてただろ!」
彼は怒りの感情を鮮明に思い出しては顕わした。防風柵と農業用機械、そして夕日とが彼の中でフラッシュバックする。
「え……2日目だぞ今日で?」
「はぁ?!」
唸り散った声と、両足に尻尾が床にて唸り散る音が部屋中を駆け回る。
「一旦帰ってきてたんよな、一昨日に」
ツェラヒラは彼の騒音に当惑しつつ、『細々としたあの態度でな』と、厭味ったらしく後付けの情報を振り向いて加える。リョウセイは感情こそ豊かそうに見えるが、典型的な汽陸人らしく皮肉的だ。しかし一昨日はその比ではない。感情を失ったあの時期と同様に、彼女の思考はただただ平坦かつ淡々と動いていたように見えて仕方なく、ツェラヒラはこの事件について表明したいとは思えなかった。
「……なんで代理人が?」
肺を落ち着けた後、彼は再び声帯を震わせる。ナザネルの記憶では、リョウセイはあの、血と閉鎖空間に満たされた記憶以外にて、代理人を建てた覚えがない。
「一昨年の冬もあったんだよなぁ、こんなこと」
ツェラヒラは反射的に舌先を引っ込めた。生きた大量のウナギを寄せ集めたかのような臭いが連想されて仕方なかったのだ。
「は? なんで口を抑えんだよ」
「いや……別に」
ツェラヒラは適当な方向を見やる。彼の体臭に関する話ではないが、彼女はデリカシーから説明を拒んでいる。
「あのババアお騒がせすぎだろ。エクストリーム自殺でもしたいんか?」
ナザネルは彼女の少ない言動と挙動から、すでに『冬に山に登りに行った』と言ったと解釈した。汽陸族の体は冷温にいくばくかの耐性があるとはいえ、湿めることのない氷点下の環境は地獄にも等しい。それに加えて蛇人族は冬季に巣篭もりを行う為、山暮らしの彼らからの救助も期待できない。
「それな」
彼女はナザネルの脚が、意思に反するかのようにもう片方の脚をつつくのを見やる。
実際、リョウセイはそれを見越して冬こそはオーナーとして退屈そうに過ごしたが、雪解けの頃には運動欲に逆らえずにいた。結局、彼女は雪も残る3月中旬に山登りを敢行した。脳天気な彼女は命の危険まで想定はしていなかったが、療養生活になるだろうとは見越して代理人を建てた。
「ゴムのスーツとガスマスク付けててさ、化学隊かと思ったわ」
彼女が話を続ける中、ナザネルは興味がないかのようにその動作を続ける。尤も、2日後にリョウセイは無傷で帰ってきたが。体液という体液に下半身を滑らせていたリョウセイを視覚的に思い起こす。彼女は海外から輸入したそれを風呂場にて脱いだのだが、数週間はムチンとその物質に寄生する物質の透明なスメルが風呂にまとわり付いた。
「防護服? 何で着るんだよ」
ナザネルは話半分で聞いていたが、すでに理解が苦しくなっていた。東果国軍の化学防護衣は、防衛省の情報から察するに低温環境に適したものではない。一瞬、実験室で用いられるような防護服が思い浮かんだが、大掛かりな設備を要する代物を彼女が手にできるとは考え難い。
「低温低湿への対応だってさ」
ツェラヒラは。彼女が着用していた『低湿低温・化学防護衣』は代謝される自身の体液と、ゴムに籠もる自身や外部の熱を用いて蒸し風呂の状態にする代物であったようであり、着用していたガスマスクは完全に熱と湿度の出入りを遮断するためのもののようだ。
「……なに、は?」
理解が苦しいと、彼は顎を引いて真顔を取る。リョウセイの行いは正気の沙汰ではないし、性癖の産物と考えようにも魔合成がすぎる。
「狭苦しいし、汗が気持ち悪いからもうやらないっつってたな」
ツェラヒラはそんな様子を滑稽がるように話を続ける。リョウセイは度重なる登山から低酸素運動には慣れており、ガスマスクによる呼吸困難には陥らなかったという。彼女は雨合羽で良いなどとも供述していたが、ツェラヒラの目でなくとも自殺行為がすぎる行いだ。
「残念だなー」
ナザネルは口角を上げると、落胆の鳴き声をも上げる。特殊性癖に目覚めたとしか思えない彼女を実際に拝んでみたかった、という口惜しさだ。
「わかるわ」
ツェラヒラは面白そうに顎を上げる。一方で彼女は有毒ガスの出るエリアに無断で立ち入った、などと武勇伝を宣ってもいたが、彼には教えないことにした。
「それでお前、何しに来たんだっけ」
「泊まりに来た!」
ナザネルの目は、この場を照らす蛍光灯以上に輝いてみえた。
「……俺以外の部屋にしてくんね?」
ツェラヒラが続け様に気だるい仕草と態度を見せたところ、彼はわざとらしい大声を上げた。
「もう寝たいですよ俺は」
自身の喉元を手のひらで横に指し、下げるジェスチャーを行った。こうも騒がしい人が居ては彼女も眠れたものではない。
「ャダよォ」
ナザネルはタイムラグを置いて、食道で発しただろう声を発する。弟に比べれば可愛いネズミのようであるが、それでも夜泣きされては煩いものだ。
「……じゃあ俺が外行くわ」
ツェラヒラは自身が眠れずに居たことを思い出し、彼が飽きるまで部屋を好きにさせた。




