悪女はお断りと言われたので
「うちの店はアンタみたいな悪女はお断りだ! 出て行ってくれ!」
店主の怒声に、和気藹々とティータイムを楽しんでいた店中の空気が凍り付く。
「あらそう。それは残念ですわ。ごめんあそばせ」
ツンと顎を尖らせて、ヒールを響かせながら踵を返した私、侯爵令嬢タリア・ラングスベリーは、心の中で号泣していた。
二時間。
二時間、炎天下に日傘を差して並んだ大人気のパンケーキ屋。二時間。私の二時間は、店内に入った途端、店主に怒鳴られ追い返されて終わった。ふわっふわ、もちっもちのパンケーキを食べる為に、ここ三日ほど甘味を我慢し、減量に励んでやって来た念願のパンケーキ屋。並んだ時間、二時間。
この二時間の間に、期待に胸を膨らませ、美味しそうな甘い匂いにお腹が鳴り。一歩進むごとに果てしない希望が湧いた。この素晴らしい経験だけでも私の二時間は無駄じゃない。そうよ。そうなのよ。そうだと言って。
誰かこの苦しみを、悲しみを、分かち合ってくれる人はいないのかしら。悪女がなんだと言うの。悪女だって、パンケーキが食べたい。どんな悪女にもパンケーキを食べる権利があるはずよ。悪女だからお断りだなんて、そんなの差別だわ。横暴だわ。
心で毒づいても、決して口には出せない。だってそんなことを言えば、相手を不快にさせてしまうもの。
ただでさえこの悪女っぽい見た目で人様に誤解を与えてしまうのに、その上口まで悪くなってしまえば救いようがないでしょう?
だからグッと耐えて、涙を堪えながら上を向く。結果的に顎がツンと尖り、態度が悪く見えたのは本当にごめんなさい。あまりの悲しみによろめいて、足がもつれてヒールの音が大きくなったのも。お行儀が悪くてごめんなさい。わざとじゃないのよ。
でも、そんな言い訳も決して口にはしない。何故かって、そんなことを言ったところで誰も信じてくれる人などいないのですもの。
この世に生まれ落ちてからのこの17年の歳月で、私は嫌というほど悟っていた。人間とは誤解する生き物なのである。そして誤解とは、解こうとすればするほど雁字搦めになって、新たに余計な誤解を生み出す厄介極まりない永遠の神秘なのだ。
さようなら、私のパンケーキ。ふわっふわ、もちっもちのパンケーキ。いつかあなたに巡り会えたら、その時は心からの敬意と感謝を捧げるわ。だからどうか、いつかあなたと会えますように。
あまりの絶望と悲しみに握り締めた扇子がバキッと割れる。鉄製なのだけれどおかしいわね。でもこの無駄な怪力は遺伝なの。お父様もお母様もお兄様も力が強いの。本当に自分じゃどうしようもないものなの。ちょっと力を入れただけなの。だからどうか誤解しないで欲しいわ。
「きゃあっ!」
扇子を握り割った私を見て逃げ出したご令嬢。驚かせてごめんなさい。ご令嬢のお連れの方、青褪めさせてしまって申し訳ないわ。でも本当の本当に、わざとじゃないの。
割れた扇子の先が尖っていて危ないわね。かと言ってゴミをその辺に捨てるだなんて端ない行為は絶対にしませんことよ。危なくないように割れた切っ先を外側に向けて持ち直していたら、今度は行列に並ぶ紳士から怒鳴られた。
「それでいったい、何をする気だ!?」
「え?」
顔を上げると、長い行列の途中で私を睨む方々が見えた。
「パンケーキが食べられなかった腹いせに、我々を攻撃するつもりか!?」
「これだから悪女は!」
「誰かあの悪女を追い払ってくれ!」
いつの間にか非難の目が私に向けられる。けれど、なんで皆さん私をそんな目で見るのかしら。扇子の割れた切っ先で刺したって、血が噴き出るくらいで死にはしないでしょうに。なんて大袈裟なの。
ああ、ダメね。私の基準でものを考えてはいけないわ。皆さんにとってこれは脅威なのだから、私が譲歩しませんと。
「言われなくてもこのような所に長居するつもりはございませんわ。ごめんあそばせ」
私はそれだけ言い残してさっさとその場を後にした。この場所はなんと言ってもパンケーキの甘い匂いがずっと漂っているのだ。このままでは盛大にお腹の虫が鳴ってしまい恥ずかしい。
何故だか生意気だとか高飛車だとか言う声が聞こえてきたけれど、慣れっこなのでもう気にもならない。
とは言え、帰り着いた私はやはり納得ができなかった。
やっぱりどう考えても、パンケーキは平等であるべきだ。
どうしても腹の虫が色んな意味で治らなかった私は、意を決した。そして、外出中の兄の部屋に無断で押し入って、兄の服を勝手に拝借した。
悪女じゃなきゃいいんでしょう? だったら男になってやろうじゃない。
正直に言うと、ヤケクソだった。大人気店のパンケーキが食べた過ぎて、空腹という最高のスパイスを得た私の理性は吹っ飛んでいた。
三時間後、私は再び大人気のパンケーキ屋の店内に居た。三時間。先程並んだ二時間と併せて、実に五時間。ついでに方向音痴の私が店に辿り着くまでかかった時間を足すと、六時間。私は炎天下を彷徨い行列に並んだのだ。そうしてやっと、やっとここまで来た。
店の出入口にデカデカと『悪女お断り』の文字が貼ってあるけれど、今の私は悪〝女〟じゃないからいいの。
忙しい店員は、男装姿の私を訝しげに見るだけで呼び止めたりしない。まさか天下の悪女が男装をしてパンケーキを食べに来ただなんて思いもしないようで、素晴らしいことに門前払いされることなく席に通された。
嗚呼、神様ありがとうございます。お兄様、久しぶりにあなたのことを見直しました。
神に感謝し、運ばれてきた念願のパンケーキを拝んだ私は、深呼吸をしてナイフとフォークを手に取った。ふわっふわもちっもちが、ナイフ越しに伝わってきて涎が出ちゃう。
涙を呑んで、女としてのプライドを売り払って漸く辿り着いたパンケーキ。その一口を、私は苦心の果てに口にした。
「お、美味しい……っ!!」
口いっぱいのバターの香り、甘いハチミツ、ふわっふわもちっもちの食感、その全てがこの世のものとは思えない程に美味しかった。五時間。五時間並んで一時間彷徨った末にやっと巡り会えたパンケーキ。
感動で涙が出てくる。美味しすぎてどうにかなりそう。
隅の席で一人身悶えていると、ふと衝立を挟んだ隣のテーブルの会話が聞こえた。
「聞いた話だが、さっきこの店に誰が来たと思う? 王国一の悪女と名高い、あのタリア・ラングスベリーだ。店主はあの女をすぐに追い出したらしい」
「あの悪女が? そりゃあ、あんな悪女が来たんじゃ商売あがったりだ。追い出して当然だろうな。なあ、お前もそう思うだろ?」
もう慣れっこなので、こう言った陰口が聞こえてきたところで私は何とも思わなくてよ。そりゃあ、いちいち傷付いていた時期もあったわ。でも、キリがないのよ。だからもう気にしないことに決めたの。
ほんの少しだけ、二口目のパンケーキの味が落ちた気がするけど、それもきっと気のせいだわ。だから大丈夫。
耳を塞ぐことすらできず、自分にそう言い聞かせていた私は次の瞬間、思わず耳を疑ってしまうような言葉を聞いた。
「いや。それはおかしいんじゃないか。悪女だと噂される者でも、パンケーキを食べる資格はあるだろう」
男子学生達のその真ん中から、文脈的には悪女である私を庇うような言葉が聞こえたのだ。幻聴かしら?
どうしても気になって、飾ってあるモンステラの葉の隙間から声がした方を覗き見てみる。三人でテーブルを囲む真ん中、私が頼んだのと同じパンケーキを食べている男子が、驚愕する他の二人を前に堂々とパンケーキを口に運んでいた。彼は確か、アカデミーの剣術学部に通う平民出身の男子学生。名前はアダムだったかしら。
学生で平民なのに、その類い稀な才能で既にソードマスターの域に達していて、誰からも一目置かれている人だわ。
「はぁ。お前は本当に変わってるな」
彼の友人が、アダムに向けて肩をすくめた。
「そりゃあ、お前くらい強かったら悪女なんて恐くないんだろうけどな。でもあの女は本当にイカれてるぞ?」
「そうそう。この前なんて、こんなに小さな子猫を鷲掴みにしてニヤニヤ笑ってたんだ。あれは絶対、可哀想な子猫を食べる気だったんだぞ」
その話を聞いて私は飛び上がった。なんで私が可愛い猫ちゃんを食べるだなんて発想になるの?
心当たりがあるのは、アカデミーの中庭で木に登って降りられなくなった猫ちゃんを助けて、その可愛さにメロメロになっていた時だ。私の怪力で苦しめてしまわないように、優しく掴んでいたつもりだったのだけれど……傍目から見ると、そんなふうに映っていたなんて。なんて心外なの。
「それは一部だけを見たお前の憶測だろう」
「けど、みんな噂してるだろ? アイツは悪女だって」
「そうそう。性悪なせいで王子殿下との婚約も破棄されたじゃん」
私は今度こそ、手を震わせた。殿下との婚約破棄については、まだまだ私の心の傷が治っていない。触れられると出血多量で瀕死の状態になるくらいには、初恋を引き摺っている。
「それとこれとは別だろう。俺はただ、自分の目で見たものしか信じないだけだ。かの令嬢が本当はどんな人物かなんて、直接対峙しなきゃ分からないだろ。他人の口から出る噂に興味は無い」
キッパリとそう言い切った彼に、私はどうしていいか分からない程の衝撃を受けた。
今まで、そんなふうに言ってくれた人は一人もいない。皆、私がタリア・ラングスベリーだというだけで悪女だと思い込んで勝手に陰口を叩いた。罵倒や忌避は当たり前、本当の私を知ろうとする人なんているわけないのだと思っていた。
噂に惑わされず、私を見てくれる人がいるなんて。そんなの、信じられないわ。
戸惑っていると、店内が急に騒がしくなり、とんでもない言葉が私の耳に飛び込んできた。
「お、あれはサイモン王子殿下じゃないか?」
「じゃあ、お隣にいるのは婚約者のマチルダ嬢か? 噂通りメチャクチャ可愛いな!」
ドクン、ドクン、と心臓が鳴る。急に息苦しくなって、とても目の前のパンケーキを食べられる状態じゃなくなってしまった。
『悪いが悪女はお断りなんだ』
婚約破棄の場で言われた言葉を思い出して、頭痛がする。
悪女であることを理由に婚約破棄されたあの瞬間、彼の隣には愛らしいマチルダ嬢がいた。サイモン殿下にくっついて、その腕に守られていたあの令嬢。
私は淡い恋心を諦めて、婚約破棄を了承するしかなかった。だってあんなに可愛くてお淑やかな令嬢相手に、私に勝ち目なんてないんですもの。全てにおいて私の方が下だわ。唯一勝っているものといえば、あちらは男爵令嬢なのに対して私は侯爵令嬢だということくらい。
それだって、いったい何の価値があるというの。身分で勝ち取る愛には何の意味も無いわ。身分の差も乗り越えて想い合う二人を、私のような悪女が邪魔していいはずないんですもの。
だけど……
怪力で化け物扱いされる私に、唯一人優しくしてくれた幼い頃のサイモン殿下。記憶の片隅にあるその優しさが忘れられなくて、淡い恋心はずっと私の中に燻っている。
二人を祝福したいのに、そうしようとする度に開く心の傷を、どうしたって自分では治せないの。未だにじくじく痛む胸に、涙が出てくる。
「この店は貴族だって並ばなきゃ入れないって言うのに、やっぱり王族は違うんだな」
「あの悪女でさえ並んだって言うのにな。まあ、並んだ末に追い返された馬鹿な女だが」
「それにしてもいいなぁ。マチルダ嬢のようにか弱くて愛らしい婚約者がいるなんて。噂では聖女の生まれ変わりとまで言われてるだろう?」
「そうそう。そんな清らかなマチルダ嬢を、嫉妬にかられて虐め抜いたのもあの悪女、タリア・ラングスベリーだ。国民の憧れを虐げたんだ。嫌われて当然さ」
え……?
次から次へと飛び出していく噂話に、私は放心した。本当に心当たりがなかった。だって私、マチルダ嬢に会ったのは婚約破棄のあの場が初めてで、その後は殿下に婚約破棄されたショックで三ヶ月間引き篭もって泣いてたんですもの。
虐めとは、何のこと……?
まさかまた、私の預かり知らぬところで悪女の噂が立っているの?
今日まで引き篭もっていた私には、何が何だか意味が分からなかった。
泣きまくる私を不憫に思ったのか、甘党の私のためにパンケーキの話をしてくれた兄。王都で爆発的な人気を誇るパンケーキ屋の話を聞いた私は、失恋の痛みを乗り越えて引き篭もりを卒業し、今日こうして外に出たのだ。それがまさか、こんなことになるなんて。
今度こそ私は、パンケーキの前で号泣した。周囲は突然泣き出した私にドン引きだが、もう構ってなんかいられない。
どうしていつもいつも、上手くいかないの……私が何をしたというの。
あんなに待ち望んでいたパンケーキは、二口食べただけでもう口にしたくない。皿ごと遠ざけて、甘い香りから距離を取る。ポロポロと落ちる涙を止める方法があるなら、誰か教えて欲しいわ。
ハンカチを取り出そうとして、兄の服に着替えた時にハンカチを忘れてきてしまったことに気付く。
涙を拭う術さえない私は、なんて惨めなのかしら。賑やかなパンケーキ屋の片隅で念願のパンケーキを前に、私は絶望した。その時だった。
「タリア・ラングスベリー嬢」
突然小声で名前を呼ばれて驚き、顔を上げた私の前に、白いハンカチが差し出された。
「隣、いいだろうか」
「え、あ……」
見上げた先にいたのは、先程衝立の向こうで話していたアダムだった。
「悪いな。流石に見ていられなくて」
「どうして……」
男装したこんな格好で、店の片隅にいる私に気付く者などいないはずだった。驚愕する私を他所に、アダムは私の隣に腰を下ろす。その手には、ちゃっかり自分のパンケーキを持って来ていた。
「俺は人の気配に敏感でね。最初から君だと分かっていた。さっきは俺の連れが失礼なことを言ったな。本当に申し訳ない。普段は気の良い奴等なんだが、どうにも君の話題になると頑なに悪女だと思い込むんだ」
正体がバレバレだった羞恥と、どうしようもない現実に私は俯くしかなかった。
「それは……あのお二人に限ったことではないわ。この国の誰もが、私を悪女だと思っているんですもの」
「……」
「……」
一瞬だけ落ちた沈黙の後、遠ざけていたパンケーキの皿が私の前に引き戻された。
「独りで食べるものほど味気ないものはない。嫌でなければ、一緒に食べよう」
アダムは自らのパンケーキを切り分けて、口一杯に頬張った。それを見て、私もナイフとフォークに手を伸ばす。
彼を真似して大きめの塊を頬張ると、甘さが口一杯に広がって最初の一口より美味しく感じた。食欲が戻ってきて、パクパクと食べ進める。隣のアダムも同じペースで、黙々と二人並んでパンケーキを食べた。
「……それで、あまりの絶望に鉄扇を握り割ってしまって、凶器を持っているように誤解されてしまったの」
お腹が満たされると不思議なことに、気分まで軽くなる。私は愚痴を言うように、今日あった出来事をアダムに話した。
「それは災難だったな。けど、鉄扇を握り割るような芸当、なかなかできるものじゃない。俺は素直に凄いと思うけど?」
「そ、そうかしら?」
まさかそう返されるとは思ってなくて、些か戸惑ったけれど。いちいち変な誤解をしないでいてくれるアダムに、私は感動すら覚えた。思えば、こんなに長く家族以外の人と話したのは初めてかもしれない。大抵は悪女と誤解されて途中で相手が怒り出したり怯え出したりするんですもの。
「君は気負いすぎなんだよ。もっと肩の力を抜いたらどうだ?」
「で、でも……それだと余計に誤解されてしまうわ」
「いいだろ別に。というか、素でいることに誤解も何もないだろう。気負わず自然体でいる、それが君自身なんだから」
その言葉を聞いた瞬間、私は目から鱗が落ちた。
「それはそうだわ。そんなに簡単なことに、なんで今まで気付かなかったのかしら」
最初から素でいれば、それが私だもの。それで悪女だと言われたところで、それがありのままの私だと言うだけ。私は私だわ。
パチパチと瞬いて新発見に驚く私を見て笑っていたアダムは、頬杖をついて穏やかに口を開いた。
「なあ。今度、騎士の叙任式があるんだ。その際に宴が開かれる。その宴に、俺のパートナーとして参加してくれないか」
「わ、私でよろしいの!?」
あまりの驚きに声を上げてしまって、慌てて口を塞ぐ。そんな私に微笑んだアダムは、ハッキリと頷いた。
「君がいい。どうせ、あちこちの令嬢から声が掛かってウンザリしてたんだ。早めにパートナーを決めたいと思ってた。俺を助けると思って、同行して欲しい」
確かに。よく見るととても整った顔立ちをしているアダム。最年少のソードマスターということもあって、相当モテるんでしょうね。私なんかが虫除けとして活躍できるなら、彼を助けるのも悪くないと思った。
「いいわよ。あなたのパートナーになるわ」
私はこの時、同じ店内にサイモン殿下とマチルダ嬢がいることなんて、すっかり忘れ去っていた。それくらい、アダムとの会話が楽しかったのだ。
誰からも一目置かれるソードマスターであるアダムは、叙任式でも注目の的だった。
そんな彼の隣にいるのが私だと気付くと、誰もが眉を顰めてコソコソと陰口を叩いた。
「……ごめんなさい、やっぱり断るべきだったわ。私のせいで、あなたの晴れやかな舞台が台無しね」
落ち込む私の手を取って、アダムは堂々と私をエスコートした。
「何故君が謝るんだ? 君にパートナーを申し込んだのは俺なんだが」
「だって……」
「忘れたのか? 素のままでいいと言ったじゃないか。君らしく歩けばいい」
周りの目なんて気にしないアダムにそう言われて、私は吹っ切れた。人様に迷惑を掛けないようにと、音を立てないようにしていたヒールを鳴らし。顔を上げて、丸まっていた背を伸ばす。
悪女だからと、蹲っている必要はないんだもの。私をエスコートしてくれるアダムに負けないくらい、堂々としなきゃ。
そう思った途端、ヒソヒソと聞こえていた陰口がどうでも良くなった。アダムに合わせて歩くのが楽しい。考えてみたら、誰かと肩を並べて歩いたのなんていつぶりかしら。
定位置に立つと、今日叙任される予定の他の騎士見習い達も国王陛下に向けて並ぶ。
彼等とそのパートナーを見渡した国王が、玉座から立ち上がり口を開いた。
「本日、新たに騎士の仲間入りを果たすそなた等を歓迎する。そして、この場で宣言しよう。この度、王子サイモンを王太子へ冊封することに決めた。今後王子は私の後継者、未来の国王となる。皆の者、叙任を終え正式な騎士となり、これからもよくよく王家に仕えてくれ」
ああ、サイモン殿下も無事に王太子になるのね。私の感想はそれだけだった。
拍手と祝福と共に、国王とその横に並ぶサイモン殿下へ向けて頭を下げる者達の中で、信じられないことが起こった。
「異議あり」
高らかに響いたその声に、会場中が静まり返ったのだ。
え? 聞き間違いかしら。私の横からとんでもない言葉が聞こえたわ。誰か空耳だと言って。だって、そんなの嘘でしょう? 本当に、私の隣にいる男が、国王に向けて異議を申し立てるような、とんでもないことを言っちゃったの?
そう思ったのは、私だけではなかったようだ。
「……おほん。今、何やら妙な言葉が聞こえた気がするが、気のせいであろうな。最年少のソードマスターと名高い、天才騎士となるはずの男が王族に対して不敬を働くなど、あるはずがない。そうであろう、アダムよ」
国王に睨まれたアダムは、堂々と前に出た。
「いいや、聞き間違いなどではない。何度でも言おう。私はサイモンが王位を継承することについて、賛成しかねる」
本当に聞き間違いではなかった。王子を呼び捨てな上に、国王に対して上からものを言うような口ぶり。不敬罪必至の言動を、堂々と繰り広げるアダム。そんな彼に、国王は顔を真っ赤にして激怒した。
「貴様! たかが平民の分際で、何様のつもりだ!? 誰ぞ、あの反逆者を引っ捕らえよ!」
私は一瞬、とても迷った。アダムに助太刀すべきかしら、知らんぷりするべきかしら。
でも、こんなの迷う必要ないわ。答えは決まっているもの。誰もがアダムから距離を取る中で、私はアダムの隣に留まった。
しかし、そんな私の葛藤など無意味だった。アダムを捕らえようとした騎士達が、見えない壁に当たったかのように一瞬にして吹き飛んだのだ。
「国王。反逆者はどちらだ? まだ私の正体が分からないのか?」
涼しい顔で立つ、異様な雰囲気のアダム。
「な、何の話だ!?」
騎士達の惨状を目にして怯えた国王が声を震わせる。そんな国王へとアダムは溜息を吐いた。
「はあ。先祖が謙虚だからとて、子孫にまでその遺志が受け継がれるとは限らないらしい。とても残念だ、我が弟の血を継ぐ者よ」
アダムの言葉に、国王は愕然としていた。
そしてアダムが手を前に翳すと、その手の中に剣が現れた。白銀に輝く刀身に、大きなラピスラズリが埋め込まれた美しい剣。あれ、何処かで見たことがあるような……
「そ、そ、それはっ! まさか聖剣……!?」
国王は、慌てて玉座から飛び降りるとアダムの前に跪いた。
「父上!? いったいどうしたのですっ!?」
素っ頓狂な声を上げたサイモン殿下。アダムの奇行に怒りを露わにしていた彼は、父王に睨まれていた。
「お前は黙っていろ! 聖剣の主、英雄王のご帰還を、心より歓迎致します」
サイモン殿下を怒鳴りつけて深々と頭を下げた国王。途端に広間が騒つく。聖剣の主、英雄王。この国で、その話を知らない者はいない。
古い伝説、今や御伽噺になりつつある言い伝え。その昔、若き豪傑の英雄王がこの国を治めていた時代。突如として各地で災いが起こり、原因を追求した英雄王は、聖剣の中に閉じ込められていたドラゴンが目覚めたことを知った。
聖剣から溢れ出すドラゴンの邪気で国は衰え、災害が相次いだ。
彼は国を救うため、ドラゴンのいる聖剣の中に自ら封じられ、時空の狭間で死闘を繰り広げた。ドラゴンの邪気は英雄王との闘いに向けられた為、外に漏れ出る事はなくなり、国は平和を取り戻した。
英雄王から国を任された彼の弟は、愛する兄が帰還するまで国を一時的に統治することを決意し、毎年兄の封じられた聖剣を祀っては勝利を祈願したという。
しかし、兄の帰りを待ち続け年老いた弟王は、聖剣の中で衰えず闘い続ける兄に再会することなく天寿を全うしてしまう。
弟王はその遺志を子孫へと託した。そして英雄王が勝利した暁には、聖剣から再びこの世に戻り、彼を待つ弟王の子孫は真の王へ王位を返還する、という内容だ。
聖剣を手に、国王を弟の子孫だと言うアダム。彼はまさか……
「永らく戻ることが叶わなかったが、私は帰還した。しかし、あまりにも長い歳月が流れてしまった。国の様子も随分と変わってしまったな。故に我が弟の子孫の統治が正しく行われていれば、私は王位など捨て騎士として生き直そうと思っていた。そのため暫しの間市井に身を投じ、この国を見守っていた」
間違いなく彼が帰還した英雄王であると分かり、周囲は混乱の中一先ず跪き始めた。
「そこで目にした、国王であるそなたとその息子サイモンの、タリア・ラングスベリー侯爵令嬢に対する所業は実に赦し難い」
突然私の名前が出てきて飛び上がる。え? 私、何か酷いことをされたかしら??
「な、なんのことでございましょうか。私めには心当たりがなく……」
冷や汗を流す国王を、アダムは空気だけで威圧した。
「嘘を吐くな。我が弟は、とある能力を持っていた。他者の精神に入り込み、操作する能力だ。子孫であるそなた達にもその能力は引き継がれているはず。そなた達はその能力を悪用し、故意にタリアが悪女であるという思い込みを国民に植え付けたのだ」
「なっ!?」
私は思わず息を呑んだ。まさか、そんな。私が何をやっても周囲から悪女だと勘違いされ、身に覚えのないことで陰口を叩かれ、悪評や事実と異なる噂を立てられていたのは、全て国王とサイモンの仕業だったというの?
「誤解でございます! その女は元から悪女。我等は何もしておりません! 全てはその女の所業故の悪評でございましょう!」
「黙れ」
国王の弁明に、アダムは静かだけれど有無を言わさぬ鋭い声を上げた。そして居並ぶ周囲の者を見回す。
「では問うが。この中で、タリアが実際に悪事を働いた場面を目撃した者はいるのか?」
誰もが絶句した。一人として、手を挙げる者はいなかったのだ。その事実に誰もが愕然とした。
「そなた達は、王族に洗脳され、事実とは異なる先入観を植え付けられていたのだ。タリアは悪女ではない。もっと言えば、そなた達が聖女の生まれ変わりと持て囃すマチルダこそ、血税で贅沢を繰り返す真の悪女だ」
そう言ってアダムは、懐から何かをばら撒いた。散らかった紙には、マチルダが王子であるサイモンから多数の宝石やドレスを贈られ、マチルダの家門には借金の肩代わりと言う名目で多額の資金が横流しされていることが書かれていた。それらはサイモンの私財ではなく、国民の納めた血税から捻出されている証拠も抜かりなく記されている。
「国民への洗脳。勢力を拡大する侯爵家への牽制もあったのだろう。タリアを悪女に仕立て上げることで王家の汚点から目を逸らさせ、自分の気に入った女に血税を貢ぎ込み、婚約破棄を正当化する為に他者を蹴落とそうとするその外道ぶり。私と弟が愛し守り抜いたこの国を、これ以上そなた達に預けるわけにはいかない。即刻王位を私に返還してもらおう」
力強いアダムの宣言に、国王が呻き声を上げる。いつも余裕の表情を見せていたサイモンは髪を振り乱し、カッコいい王子様とは程遠い形相で剣を抜いた。
「納得いかぬ! 今更出てきて何なんだ! この国は私のものだ! 今更お前なんかに渡してたまるものかっ! お前達、私に従いその反逆者を抹殺しろ!」
サイモンが声を張り上げると、周囲にいた騎士見習い達は目を虚にさせてアダムを取り囲んだ。これが洗脳なの? 恐怖を感じる私を守るように抱えたアダムは、面倒臭そうに聖剣で床を突いた。
剣圧だけで吹き飛んだサイモンが、壁に当たって悲鳴を上げる。と同時に、アダムの周りにいた騎士見習い達の洗脳が解けたのか、次々に正気に戻っていき自分の行動に驚愕していた。
「愚か者め。その程度の力で私に勝てると思っているのか。そなたの力など、微風にもならん」
恐怖に凍り付く国王とサイモンを見下ろして、アダムは淡々と告げた。
「我が弟は所謂ブラコンだった。そのブラコン加減たるや、私が帰還した際に自身の子孫が私の復帰の妨げになるようなことはあってはならないと、自分の血に呪いを掛けた狂人ぶりだ。可愛い我が弟の呪いにより、そなた達は私の命令に逆らえない」
一歩も動かず。アダムは、国王とサイモンを言葉だけで屈服させた。
「跪け」
大勢の前で、アダムに向かい跪く二人。
「タリアに謝罪し、赦しを乞え」
ひっ、と小さく悲鳴を上げながらも、二人は私に向かい土下座した。
「タリア嬢。我等はそなたの名誉を貶め、悪女と汚名を着せることでそなたの家門の力を削ごうとした。更には王子が浮気したと言う王家の恥を隠すため、マチルダが聖女の生まれ変わりであると国民に吹聴した。私が間違っていた。どうか赦して欲しい」
「タリア、そなたとの婚約を優位に進めるため、幼い頃から人々を洗脳しそなたを悪女に仕立て上げたことは事実だ。しかし私はマチルダに恋をしてしまった。マチルダと婚約するために、そなたの悪評を助長させて婚約破棄を正当化させようとした。私が悪かった。赦してくれ!」
洗脳が解けたのか、周囲の人々が、私がいるのに私ではなく国王と王子を冷ややかな目で見ていた。私が口を開く前に、アダムが更なる命令を下す。
「そのまま地を這いつくばり、己の行いを反省しろ」
震える二人は、床に額を付けたまま顔を上げることがなかった。その無様な様子を見下ろして、アダムが吐き捨てる。
「皮肉なものだな。そなたらを王族たらしめていたその血が、そなたらを王座から引き摺り下ろすのだ。そなた達は私に逆らえない。私が死ねと命じれば、死ぬしかない運命だ。せいぜい大人しくしていろ」
鋭い目をしていたアダムは、ふと目線を和らげると私を見た。
「ということで、タリア。待たせたが、踊ろうか」
とても優雅に自然に差し出された手。戸惑いながらも手を伸ばすと、音楽が流れ始めた。
そのままダンスが始まる。怪力のせいで、ダンスを踊って相手に何かあったらと心配する必要もないくらい、アダムは強靭だった。緊張から思い切り手を握り締めたのに、眉一つ動かさない。流石は英雄王だわ……これがサイモンなら、複雑骨折してるでしょうね。
「実はな、私は随分と前にドラゴンを倒したのだが、聖剣が錆び付いて抜けず、なかなか外に出られなかったのだ。そして毎年聖剣の元を訪れていた弟の子孫はいつの間にか私の元に訪れなくなり、私はもう全てを諦めていた。独り寂しく、聖剣の中で自我が消滅するまで存在し続けるしかないと。そんな時、聖剣の元に来てその怪力で錆び付いた刀身を引き抜いたのが、他でもない君だったんだ」
踊りながら説明されて、記憶を辿る。
何となく思い出してきたわ……。二年ほど前に、王宮で道に迷って奥の森に入ってしまったことがあって、その時に岩に刺さった古い剣を抜いたことがあったわ。
あの時、剣は抜けるとすぐに消えてしまった。怪力で壊してしまったのかと思っていたけれど、なるほど。聖剣だからだったのね。
「お陰で私は外に出られた。数百年ぶりの外の空気がどれ程美味しく感じたか、誰にも分からないだろうな。とにかく私は君に感謝し、この国と共に君のことも陰ながら見守っていた。そしたらどうだ、他でもない王族が君にとんでもないことをしているではないか」
まだ床に顔をめり込ませている国王とサイモンを見て、アダムは舌打ちをした。
「あんな者達に国を任せてはおけないからな。聖剣の外に出たら悠々自適なスローライフを満喫する予定だった私は、少々面倒だったが王位奪還を決意した」
「これからあなたは国王として、再びこの国を導いてくれるのね」
「まあな。しかし、もういい加減、独りでいるのには飽き飽きでな。可愛い弟も随分と前に逝ってしまった。できることなら、私は私だけの家庭が欲しい」
ぎゅっと、握られた手に力が入った気がした。
「タリア。俺の家族に、なってくれないか」
力強い目で私を見るアダム。先程までの威厳を漂わせていた空気は和らぎ、そこにはパンケーキ屋で語らい合った少年のような彼がいた。他の誰でもなく、私を求めてくれる人がいる。それがこんなに嬉しいだなんて、思いもしなかった。
返事をしようとしたところで、私の頭に声が響く。
『うちの店はアンタみたいな悪女はお断りだ! 出て行ってくれ!』
『悪いが悪女はお断りなんだ』
悪女というだけで否定され続けてきた私は、自分に自信なんて持てない。
正々堂々と格好良く、気高く優雅で強いアダムに、自分は不釣り合いな気がしてならなかった。
「……でも私、悪女はお断りと言われるような女なのよ? 本当に私でいいの?」
素直に不安を吐露した私に、アダムはどこまでも真っ直ぐな目を向けた。
「君はさっき、騎士に取り囲まれた俺を見捨てようとしたか?」
「……いいえ、あなたに助太刀しようとしたわ。必要なかったみたいだけど……」
「俺を助けようと側に立ってくれたのは弟だけだった。その弟も遠い昔に旅立ってしまった今、同じように俺を強者ではなく一人の人間として見てくれる君が、俺はどうしようもなく慕わしいんだ」
そう言ってアダムは、怪力であるはずの私をいとも容易く引き寄せた。
「君が悪女なら俺は化け物だ。お似合いだろう?」
穏やかに微笑むアダムの綺麗な顔を見て、私は初めて気付いた。サイモンに抱いていたあの気持ちは、恋でもなんでもなかったのだ。ただ自分に唯一優しくしてくれた人を失いたくないという、幼子の執着でしかなかったのだ。
じゃなかったら。今アダムに感じている、この温かくて優しくて切ない気持ちが何なのか、説明できないもの。
「君でいいんじゃない。君がいいんだ」
ぽろりと涙が零れ落ちる。
悪女だと陰口を叩かれること。ずっと、辛かった。心細くて、消えてしまいたいと思ったことさえある。それでも、彼にこうして巡り会えたこの時のために生きてきたのだと思えば、何をやっても悪女だと勘違いされてきた日々が報われる気がした。
「私も、あなたがいい……っ」
声が詰まって、それしか言えなかった。悪女と名高いはずの私は、好きな人の前で声を詰まらせて泣いてしまうような、か弱い女なのだ。
そんな私を見て、周囲から温かな拍手が起こる。私を悪女だと噂し罵る声は、もう一つも聞こえてこなかった。
悪女はお断りと言われたので 完