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淡々後漢書  作者: ンバ
第十八、呉漢伝
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98/102

東観漢記、呉漢伝中

8.

公孫述大司馬田戎將兵下江關,至南郡,據浮橋於江水,吳漢鋸絕橫橋,大破之。


9.

吳漢進逼成都,阻江北為營,使副將武威將軍劉禹將萬餘人屯於江南。


10.

吳漢伐蜀,分營於水南水北,北營戰不利,乃銜枚引兵往合水南營,大破公孫述。


11.

吳漢兵守成都,公孫述將延岑遣奇兵出吳漢兵後,襲擊破漢,漢墮水,緣馬尾得出。


12.

吳漢平成都,乘筏從江下巴郡,盜賊解散。


13.

吳漢性忠厚,篤於事上,自初從征伐,常在左右,上未安,則側足屏息,上安然後退舍。兵有不利,軍營不完,漢常獨繕檠其弓戟,閱其兵馬,激揚吏士。上時令人視吳公何為,還言方作戰攻具,上常曰:「吳公差強人意,隱若一敵國矣。」封漢廣平侯。

14.

吳漢當出師,朝受詔,夕即引道,初無辦嚴之日,故能常任職,以功名終。

15.

吳漢嘗出征,妻子在後買田業。漢還,讓之曰:「軍師在外,吏士不足,何多買田宅乎!」遂盡以分與昆弟外家。

16.

吳漢爵位奉賜最尊重,然但治宅,不起巷第。夫人先死,薄葬小墳,不作祠堂,恭儉如此。疾篤,車駕親臨,問所欲言。對曰:「臣愚無所識知,唯願慎無赦而已。」病薨,奏謚曰:「有司議宜以為武。」詔特賜曰忠侯。無後,國除。


(訳)

公孫述の大司馬である

田戎でんじゅうが兵を率いて江関を下し、

南郡へと至ると、

江水の浮橋を占拠した。

呉漢は鋸で横橋を絶ち、大いにこれを破った。


呉漢は進軍して成都へ逼り、

江水の北を阻む形で陣営を張ると、

副将で武威将軍の劉禹に

一万余人を率いさせ、江水の南に駐屯させた。


呉漢は蜀を伐ち、

陣営を江水の南側と北側に分けた。

北側の陣営は戦うも勝利できず、

そこで枚を銜え、兵を引き連れて

江水南の陣営へ向かって合流し、

公孫述を大破した。


呉漢の兵が成都へ迫る(?)と

公孫述は、延岑に

奇兵を呉漢の兵団の背後に繰り出させた。

襲撃され、破られた呉漢は水に落ち、

馬の尾に捕まって脱出を果たした。


呉漢は成都を平定すると

筏に乗り、江水に従って巴郡を下ったので

盗賊は解散した。


呉漢の性格は忠義心が厚く、

お上に事えるに篤実であった。

初めて征伐に従ってから

常に左右にあり、

お上が落ち着かぬ時は

則ち側で屏息するに足り、

お上が落ち着いてから

然るのちに舎屋へ退がっていた。


いくさに不利があり

軍営が完備されていなくても、

呉漢は常にひとり

その弓戟を修繕し、

その兵馬を検閲して

吏人や士卒を激励していた。


お上が時に人を遣わして

呉公(呉漢)が何をしているのか

観察させた際、戻ってきて

「ちょうど戦具を整えておりました」

と告げたため、そこで嘆息して、


「呉公は人の気持ちを奮い立たせてくれる、

その威厳はあたかも一個の敵国のようだ」


と述べ、呉漢を広平侯に封じた。


呉漢が戦に出ようとした際には

朝に詔を受けたなら

夕方すぐに出立でき、

準備が整っていない日など

一度もなかった。

だからこそ常に(要)職に任じられて

功名を全うする事ができたのである。


呉漢が嘗て出征した際に、

妻子が後方に在って

田地を買った事があった。

呉漢は戻ってくると

これを責譲して、言った。


「軍師が外に在り、

吏士が不足しているというのに

何故たくさん田宅を買うのだ!」


遂に、盡くを兄弟や

外戚の家庭に分け与えてしまった。


呉漢は爵位や俸禄の面で

最も尊重されてはいたが

ただ自宅を治めるのみで

巷第(立派な屋敷?)を起こす事はなかった。


夫人が先に亡くなった際

葬儀はささやかで墓も小さく

祠堂を作ることもなかった。

彼の恭倹さはかくの如くであった。


病が篤くなると、車駕は自ら臨んで

言い遺したい事を問うた。

呉漢は対して言った。


「臣は愚かで識知る所はありませぬが

ただ、慎まれ

もう大赦をおこなわぬよう

お願い申し上げます」


病で薨じると、

諡について上奏された。


「有司は(おくりなを)武にするべきだと

議しております」


詔を特別に賜り、忠侯といった。


後裔はなく、国を除かれた。


(註釈)

呉漢が川に落ちて

生還するエピソードなかったっけ?

と思ってたら、東観漢記でした。


こちらは、子孫が書かれてない。


范曄後漢書では、

子哀侯成嗣,為奴所殺。二十八年,分漢封為三國:成子旦為灈陽侯,以奉漢嗣;旦弟盱為築陽侯;成弟國為新蔡侯。旦卒,無子,國除。建初八年,徙封盱為平春侯,以奉漢後。盱卒,子勝嗣。初,漢兄尉為將軍,從征戰死,封尉子彤為安陽侯。帝以漢功大,復封弟翕為褒親侯。吳氏侯者凡五國。


とあるので、建初八年より

前に書かれてるのかな。


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