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淡々後漢書  作者: ンバ
第十八、呉漢伝
93/102

十五・十六、蜀の反乱

15.

十五年,復率揚武將軍馬成、捕虜將軍馬武北擊匈奴,徙雁門、代郡、上谷吏人六萬餘口,置居庸、常山關以東。

(訳)

十五年(39)、

再び揚武将軍の馬成ばせい

捕虜将軍の馬武ばぶを率いて

北方の匈奴を撃ち、

雁門・代郡・上谷の吏人

六万余口を移して

居庸、常山関以東に置いた。


16.

十八年,蜀郡守將史歆反於成都,自稱大司馬,攻太守張穆,穆逾城走廣都,歆遂移檄郡縣,而宕渠楊偉、朐颈徐容等,起兵各數千人以應之。帝以歆昔為岑彭護軍,曉習兵事,故遣漢率劉尚及太中大夫臧宮將萬餘人討之。漢入武都,乃發廣漢、巴、蜀三郡兵圍成都,百餘日城破,誅歆等。漢乃乘桴沿江下巴郡,楊偉、徐容等惶恐解散,漢誅其渠帥二百餘人,徙其黨與數百家於南郡、長沙而還。

(訳)

十八年(42)、

蜀郡の守将である史歆しきんが成都で叛き、

大司馬を自称して

太守の張穆ちょうぼくを攻めると、

張穆は城を踏み越えて広都こうとへ逃げた。

史歆はかくて檄文を郡県に移し、

宕渠の楊偉ようい、朐颈の徐容じょようらが

各自数千人の兵を挙げてこれに応じた。


光武帝は、史歆がかつて

岑彭の護軍をつとめ

兵事に習熟している事から、

呉漢に劉尚りゅうしょう及び太中大夫の臧宮ぞうきゅう

率いさせ、数万人を組織して

これを討伐させた。


呉漢は武都へ入ると

かくて広漢・巴・蜀の三郡の兵を

徴発して成都を包囲し、

百余日で城を破って史歆らを誅殺した。


呉漢がかくて桴に乗り

江水に沿って巴郡を下ると、

楊偉、徐容らは恐惶して

散り散りになってしまった。

呉漢はその渠帥二百余人を誅戮し

その支党と数百家を

南郡、長沙に移して、帰還した。


(註釈)

42年、岑彭の元部下が蜀で反乱を起こした。


直接の原因が書かれてないけど、

大司馬を自称するってことは

生涯大司馬の呉漢に対する当てつけで

お前の存在なんか認めない、って事よね。


「華陽国志」によると

「建武十八年,刺史郡守,撫卹失和,蜀郡史歆,怨吳漢之殘掠蜀也,擁郡自保」


史歆は、呉漢が蜀の人々を害し

略奪を働いた事を怨んで……と

しっかり書かれてる。


「公孫述伝」によると、

成都落とした際に、呉漢は

大規模な略奪を働いて

宮室を焼き払ってしまい、

光武帝にめっちゃ叱られた、とある。


要は鄧奉とうほうの時と全く一緒。

やっぱり最後まで烏桓突騎率いてて

例の略奪病がまた出ちゃったんだろう。


略奪禁止すると、モチベーション

だだ下がりになるような兵だろうし

むちゃくちゃ扱いが難しい。

朱祜しゅこは実際略奪禁止して

そういう目的の兵からは

恨まれていた、とあるし。


後年に鄧艾とうがいが蜀制圧した時、

「俺が呉漢でなくてよかったな」

的なイキり台詞吐いてることからも、

最後でミソがついちゃったイメージ。


また、この頃はまだ

巴西郡と巴東郡がなくて

ぜんぶ巴郡だった。


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