十二・十三、西方攻略
12.
會隗囂畔,夏,復遣漢西屯長安。八年,從東駕上隴,遂圍隗囂於西城。帝敕漢曰:『諸郡甲卒但坐費糧食,若有逃亡,則沮敗眾心,宜悉罷之。』漢等貪並力攻囂,遂不能遣,糧食日少,吏士疲役,逃亡者多,及公孫述救至,漢遂退敗。
(訳)
折しも隗囂が畔き、
夏、再度呉漢を西のかた長安に駐屯させた。
八年(32)、
車駕に従って隴へと上り
遂に隗囂を西城に囲んだ。
光武帝は呉漢に勅語した、
「諸郡の甲兵がただ
糧食を浪費するのみで
もし逃亡する事があれば、則ち
みなの気持ちが挫けてしまう。
こうした事は悉く取り止めさせてくれ」
呉漢らは(糧秣を?)貪る者と
力を合わせて隗囂を攻めたが
とうとう放逐する事はできなかった。
糧食は日毎に少なくなり
吏人士卒は戦役に疲弊して
多くの逃亡者が出た。
公孫述が救援に至ると
呉漢はとうとう敗退した。
13.
十一年春,率征南大將軍岑彭等伐公孫述。及彭破荊門,長驅入江關,漢留夷陵,裝露橈船,將南陽兵及刑募士三萬人溯江而上。會岑彭為刺客所殺,漢並將其軍。十二年春,與公孫述將魏黨、公孫永戰於魚涪津,大破之,遂圍武陽。述遣子婿史興將五千人救之。漢迎擊興,盡殄其眾,因入犍為界。諸縣皆城守。漢乃進軍攻廣都,拔之。遣輕騎燒成都市橋,武陽以東諸小城皆降。
(訳)
十一年(35)春、
征南大将軍の岑彭らを率いて
公孫述を征伐した。
岑彭が荊門を破り
長躯して江關へ入るに及んで、
呉漢は夷陵に駐留して
露橈船を整備すると、
南陽の兵及び囚人から募った士
三万人を率いて長江を遡上した。
折しも岑彭が刺客の為に殺されてしまい、
呉漢が一様にその軍勢を率いる事となった。
十二年(36)春、
公孫述の部将の魏党、公孫永と
魚涪津で交戦してこれを大破し、
遂に武陽を包囲した。
公孫述が娘婿の史興に
五千人を率いさせて救援させると、
呉漢は史興を迎撃し、
その部衆を盡く殄滅して
そのまま犍為の界域へ入った。
諸県はみな城を守り、
呉漢はかくて進軍し
広都を攻めてこの拠点を抜いた。
軽騎に成都の市街を焼き払わせると
武陽以東の諸々の小城はすべて降伏した。
(註釈)
いよいよ西方の攻略に入るが
(叛逆した)隗囂が優秀な上に
運も味方していて
なかなか下せない。
が、光武陣営が退却(二度目)した所で
隗囂は折悪く病死してしまった。
その残党は来歙らの活躍により平定された。
残るは蜀の公孫述。
呉漢は、荊州から江水を遡るルートの
方にあてられたが、
野戦では無類の強さを誇る彼も
水戦については不慣れだったようで
荊州の水軍指揮については
岑彭に一任する事になったもよう。
(呉漢は操舵兵が多すぎて
食糧が心配という意見を出していた)
部将に浮橋を焼かせて
公孫述配下の任満を破った岑彭は
電撃戦法で一気に
成都の目の前まで迫ったが
刺客の手に倒れてしまう。
光武帝とその配下はこんな状況。
劉秀 親征はできるだけしたくない
鄧禹 赤眉に惨敗したので総指揮は不安
賈復 危険を顧みないので目が離せない
耿弇 クソ強いんだが西方戦線では奮わない
寇恂 死亡
岑彭 死亡
馮異 死亡
朱祜 城の攻伐をよしとしない性格で相性悪し
祭遵 死亡
蓋延 病気で前線に出られない
臧宮 総指揮を取らせる程ではない
陳俊 東方から動かせない
李忠 東方から動かせない
李通 留守番担当なので動かせない
鄧晨 どっちかって言うと内政担当
来歙 死亡
王常 死亡
これは呉漢が出るしかねぇ!!
岑彭の手勢を引き継いだ呉漢は
成都の攻略に着手した。




