三・四、斉に轟く威風
3.
建武二年春,攻匡賊,下四縣,更封新處侯。引擊頓丘,降三城。其秋,大司馬吳漢承制拜俊為強弩大將軍,別擊金門、白馬賊於河內,皆破之。四年,轉徇汝陽及項,又拔南武陽。是時,太山豪傑多擁眾與張步連兵,吳漢言於帝曰:『非陳俊莫能定此郡。』於是拜俊太山太守,行大將軍事。張步聞之,遣其將擊俊,戰於嬴下,俊大破之,追至濟南,收得印綬九十餘,稍攻下諸縣,遂定太山。五年,與建威大將軍耿弇共破張步。事在弇傳。
(訳)
建武二年(26)春、
匡の賊を攻めて四つの県を下し
改めて新処侯に封じられた。
引いて頓丘を撃ち、三つの城を降した。
その年の秋、大司馬の呉漢が承制して
陳俊を拝して強弩大将軍とした。
別れて金門、白馬の賊を河内にて撃った。
四年(28)、転出して
汝陽及び項を徇行し、
一方で南武陽を抜いた。
この時、泰山の豪傑は
多くが部衆を擁して
張歩とともに兵を連ねており、
呉漢は光武帝にこのように上言した。
「陳俊でなければこの郡を平定する事はできませぬ」
こうして陳俊を泰山太守に拝して
大将軍の事業を代行させた。
張歩はこれを聞いて
その部将に陳俊を撃たせ、
嬴下にて交戦したが、
陳俊はこれを大破し、
追撃して済南まで至ると
印綬九十余を収得して
ようように諸県を攻め下し、
遂に泰山を平定した。
五年(29)、建威大将軍の耿弇とともに
張歩を破った。この事は耿弇伝にある。
4.
時,瑯邪未平,乃徙俊為瑯邪太守,領將軍如故。齊地素聞俊名,入界,盜賊皆解散。俊將兵擊董憲於贛榆,進破朐賊孫陽,平之。八年,張步畔,還瑯邪,俊追討,斬之。帝美其功,詔俊得專征青、徐。俊撫貧弱,表有義,檢制軍吏,不得與郡縣相干,百姓歌之。數上書自請,願奮擊隴、蜀。詔報曰:『東州新平,大將軍之功也。負海猾夏,盜賊之處,國家以為重憂,且勉鎮撫之。』
(訳)
時に瑯琊がまだ平定されておらず、
そこで陳俊を移して瑯琊太守として
将軍位は元のとおり兼領させた。
斉の地ではもとより
陳俊の名は聞こえており、
界域に入ると、盗賊は皆解散してしまった。
陳俊は兵を率いて
贛榆に於いて董憲を撃ち
進軍して朐の賊の孫陽を破り
これを平定した。
八年(32)、張歩が畔いて瑯琊へ戻ると
陳俊は追討してこれを斬った。
光武帝はその功績をめで、
詔を下して、陳俊に
青州と徐州の征伐を専断させた。
陳俊は弱く貧しき者を慰撫し、
信義を有する者は表彰して
軍の吏人を管制したので
郡県は法を犯せず、
百姓はこれを歌にした。
しばしば上書して
自ら隴・蜀の奮擊を願い出た。
詔書による返報にいわく、
「東州を新たに平定した事は
大将軍の功績である。
(東州は)海を背負って華夏を乱す
盗賊の居場所であり
国家は重く憂えている。
一旦はこれの鎮撫に勉めるように」
5.
十三年,增邑,定封祝阿侯。明年,征奉朝請。二十三年卒。子浮嗣,徙封薪春侯。浮卒,子專諸嗣。專諸卒,子篤嗣。
(訳)
十三年(37)、食邑を加増され
祝阿侯に封じられる事が確定した。
明年、征きて朝請を奉じた。
二十三年(47)に卒し、
子の陳浮が嗣いで
薪春侯に改封された。
陳浮が卒すると
子の陳専諸が嗣いだ。
陳専諸が卒すると
子の陳篤が嗣いだ。
(註釈)
2位呉漢と4位耿弇の
サブみたいな扱いだけど優秀。
泰山の賊を平定し
勇名は聞こえ渡っていた。
隴西と巴蜀の平定には従軍させてもらえず
留まって東方をおさめた。
一回南陽の反乱でUターンしたから
劉秀の気持ちもわかる。
〜陳俊評価〜
・戦闘 ★★★★★★★ 7
・戦略 ★★★★★★ 6
・内政 ★★★★★★★ 7
・人格 ★★★★★★ 6




