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淡々後漢書  作者: ンバ
第二十一、李忠伝
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四、丹楊教導

4.

六年,遷丹陽太守。是時,海內新定,南方海濱江淮,多擁兵據土。忠到郡,招懷降附,其不服者悉誅之,旬月皆平。忠以丹陽越俗不好學,嫁娶禮儀,衰於中國,乃為起學校,習禮容,春秋鄉飲,選用明經,郡中向慕之。墾田增多,三歲間流民占著者五萬餘口。十四年,三公奏課為天下第一,遷豫章太守。病去官,征詣京師。十九年,卒。

(訳)

六年(30)、丹楊たんよう太守に遷った。


この時、海内は平定されたばかりで

南方の海浜や長江・淮水の間では

多くが兵を擁してその地を占拠していた。


李忠は(丹楊)郡に到着すると

降伏、帰順した者は招いて懐柔し、

帰服せぬ者の悉くを誅殺して

旬月ですべてを平定した。


李忠は、丹楊が南越の風俗的に

学問を好まざる事や

嫁を娶る礼儀について

中国(中原)に劣る事から、

かくて学校を建て、礼容を習わせた。


春秋に郷飲をおこない

経書に明るい者を選抜登用し

郡中は彼を敬慕した。


墾田は増え、三年の間に

流民のうちで戸籍を得た者は

五万余口であった。


十四年(38)、三公が考査して

治績は天下第一であると上奏した。

豫章太守に遷ったが

病で官職を去り、京師を詣でた。


十九年(43)に卒した。



5.

子威嗣。威卒,子純嗣,永平九年,坐母殺純叔父。國除。永初七年,鄧太后復封純琴亭侯。純卒,子廣嗣。


子の李威りいが嗣いだ。


李威が卒すると、子の李純りじゅんが嗣いだ。


永平九年(65)に

母が李純の叔父を殺した件に

連座して、国を除かれた。


永初七年(113)、

鄧太后が再び李純を琴亭侯に封じた。


李純が卒すると、子の李広りこうが嗣いだ。


(註釈)

丹楊に赴任して不服住民を

あっという間に平定。

南越の風俗は学問を好まぬ、

嫁取りの文化も中原とは

比べるべくもなかったので

学校を建てて礼儀を教えた。


揚州はまだマシな方で、

交州は農耕の文化すらなかったと

されているので、あっちの方は

まだまだ未開のフロンティア感が強い。


その後、南西の豫章よしょうにうつるが

江南特有の疫病に罹ってしまったか

そこで髑髏を乞う。


孫の李純の代で国を除かれた。

半世紀経ってから亭侯に復帰。

よく生きてたなぁ。



・李忠評価


戦闘 ★★★★★★ 6


丹楊の不服従民を短期で平定。


戦略 ★★★★★ 5


ここは特に加点要素なし。


内政 ★★★★★★★★ 8


前漢末期から実働40年近く。

丹楊に学校を作って教化を広め

生産性桁違いに向上。

治績は天下第一と評された。


人格 ★★★★★★ 6


光武帝に身も心も捧げてて怖い。

家庭をも顧みず

国家に忠節を尽くした。


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