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淡々後漢書  作者: ンバ
第十五、李通伝
8/102

八・九、明帝からの賞賜/范曄評

8.

李軼後為朱鮪所殺。更始之敗,李松戰死,唯通能以功名終。永平中,顯宗幸宛,詔諸李隨安眾宗室會見,並受賞賜,恩寵篤焉。


(訳)

李軼りいつは後に朱鮪しゅいに殺される所となり、

更始帝が敗れた際に李松りしょうは戦死し、

ただ李通のみが功績と名声を

全うする事が出来たのである。


※永平年間、

(※57〜75。

光武帝の次代、明帝劉荘(りゅうそう)の時代)

顕宗けんそう(劉荘)はえんに御幸し

詔によって諸々の李氏を

安衆あんしゅう県の宗室に随わせ、彼らと会見した。


揃って賞賜を受け、恩寵が篤かった。


(註釈)

朱鮪しゅいは光武帝が挙兵した頃に

手を組んでいた盗賊団のリーダーですが、

色々あって決裂します。


李軼りいつは、李通の従弟。

挙兵の時から一緒だったし、

昆陽の戦いでも共闘してたのに、

光武帝の兄、劉縯りゅうえんを手にかけました。

寛大な光武帝も彼だけは許さず、

降伏の手紙を朱鮪にわざと見せることで

彼を謀殺したのでした。

(説明ヘタクソかよ


9.

論曰:子曰:『富與貴是人之所欲,不以其道得之,不處也。』李通豈知夫所欲而未識以道者乎!夫天道性命,聖人難言之,況乃億測微隱,猖狂無妄之福,汙滅親宗,以觖一切之功哉!昔蒙穀負書,不徇楚難;即墨用齊,義雪燕恥。彼之趣捨所立,其殆與通異乎?


(訳)

論にいう、


※孔子は言っている。


「富貴は人の欲する所であるが、

正しき道を踏まずして

これを得ても、しかたがない」


(※論語、里仁篇第四)


李通はどうして

(富貴を)欲している事を知りながら

正道に則っておらぬことが

わからなかったのであろうか。


そもそも天命とは

聖人すら言葉にし難きものであり、

ましてやその隠微を

憶測するとなれば尚更である。


無妄の福に猖狂して

(思いもかけない幸運を求めようとして)

一族郎党が根絶されてしまっては

一切の功績が台無しではないか!


昔、蒙穀もうきは書に背いて

楚難にしたがわず、

即墨そくぼく(田単?)は斉に用いられ、

義によって燕への恥を雪いだ。


彼らの取捨によって立つ所は

殆ど李通と異なるのではないだろうか?


(註釈)

范曄(後漢書の作者)の李通評。


各巻の最後には「論」がありますが

後漢書の場合、

こうやって個人の伝の末尾に

くっついてることもあります。

誰かが批判してたような、誰だっけ……。


とにかく、范曄は李通を評して

光武帝を天下取りレースに

出馬させた功績よりも、

一族を死なせちゃった過失の方に

注目しています。


「軽率に一族を死なせたやつが

たまたま勝ち馬に乗れただけだろ」


という感じのめっちゃキビシイ批評。


范曄は1600年前の

光武帝ファン(雑)だけど

讖緯しんいは全否定派。


信じるか信じないかは

あなた次第ってやつですね。


「一切之功」の一切は

全部という意味にとりましたが

少しという意味かもしれません。


「蒙穀負書,不徇楚難」は

蒙毅が書にそむいて

楚難にしたがわず?


蒙毅もうきは史記内で検索かけてみたら

李斯りし蒙恬もうてんの列伝に

ちょっと名前が出てくる程度で、

この「不徇楚難」っていうのが

どこのことを言ってるのか。


「王翦列伝」では王翦おうせんにかわって

李信りしん蒙恬もうてんが楚を攻め、

(負けちゃったから)王翦が復職、

「蒙恬列伝」では蒙武もうぶが王翦と楚を攻め

項燕こうえんを殺した、とあります。


蒙恬は対匈奴、外征で活躍して

弟の蒙毅が用いられるようになり

内政で活躍するようになった。


蒙毅は趙高ちょうこうを弾劾しようとして

恨まれ、始皇の崩御後に

兄の蒙恬ともども殺されてしまった。


「漢書」や「過秦論」に蒙毅は出てこない。


そもそも「楚難」が

秦の楚攻めの意味合いじゃない??


「楚の難事」だとすると

西楚の覇王が攻めてきたことや

楚王の韓信が殺されたことや

呉楚七国の乱のことなのかな。


「即墨」は、斉の田単でんたん

燕の楽毅がくきを退けたときの話で

たぶん間違い無いと思うんですが。


ワシもさすがに、李通のことを

蕭何や伊尹に例えるのは

行きすぎだとは思いますが、

陳寿(三国志の作者)なら過失を責めつつ

最終的に謙虚ムーブの方に

誘導すると思いました。


最後にワシの個人的な李通評です。


戦闘 ★★★★★★ 6

描写があるのは甄阜しんふ梁丘賜りょうきゅうし戦、

延岑えんしん戦と公孫術こうそんじゅつ戦のみ。

劉秀の河北道中膝栗毛には

従軍していない。

小長安の戦には従軍してそうですが、

さすがにどうにもできなかったか。

延岑と公孫術は、

光武帝側のが戦力充実してたので

大きなプラスにはしないでおきます。



戦略 ★★★★★ 5

親父どのがこだわっていた

「劉氏が復活して李氏が補佐する」

という予言を背景にして

劉縯と劉秀の兄弟に目を付けたところは

評価できるのですが……

計画が露見して一族を壊滅させているのは

大きなマイナスポイントです。

伝達役にアクシデントがあったのは

仕方ないにしろ、ちょっと

見通しが甘かったと言わざるを得ません。



内政 ★★★★★★★★ 8

巫の丞として著名だった。

家柄のお陰もあると思いますが、

本人の治政も高評価だった。


更始帝政権で重んじられていましたが、

地元に赴任したタイミングで

劉秀の妹を娶ったあたりに作為を感じます。


更始政権が瓦解しても

劉秀に鞍替えできるように、

保険かけといたんじゃないかなぁ。


また、劉秀の遠征のたびに

大過なく留守番務めあげてる点も、

権勢を自ら手放そうとする姿勢も高評価。


宮室再建、学校設立、民衆安撫と

内政手腕は高そうです。

蕭何や伊尹に例えられているのは

伊達ではない?


旗揚げ時は割に無鉄砲でも、

一族が族滅された事でかなり

保身には慎重なスタンスに

変わった印象です。


どん底を知っているから

最悪を想定して動ける男、

★8とします。



人格 ★★★★★★★ 7


光武帝政権下で顕職に就き、

やたらと謙虚になりましたが、

それはスタートで痛い目に

遭っているからだと思いました。


総合26点、関羽と同じです。

さすがだねっ。


続いて、東観漢記とうかんかんきを読んでいきます。

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