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淡々後漢書  作者: ンバ
第十六、寇恂伝
61/102

六・七、蕭何に倣う/雍奴侯

6.

時,軍食急乏,恂以輦車驪駕轉輸,前後不絕,尚書升斗以稟百官。帝數策書勞問,恂同門生茂陵董崇說恂曰:『上新即位,四方未定,而郡侯以此時據大郡,內得人心,外破蘇茂,威震鄰敵,功名發聞,此讒人側目怨禍之時也。昔蕭何守關中,悟鮑生之言而高祖悅。今君所將,皆宗族昆弟也,無乃當以前人為鏡戒。』恂然其言,稱疾不視事。帝將攻洛陽,先至河內,恂求從軍。帝曰:『河內未可離也。』數固請,不聽,乃遣兄子寇張、姊子谷崇將突騎,願為軍鋒。帝善之,皆以為偏將軍。


(訳)

時に、軍糧が俄かに欠乏しており、

寇恂は輦車や驪駕を以て運搬して

前後を絶やさず、

尚書は升斗で百官に与えた。


光武帝が幾度か策書で労問すると、

寇恂の同窓生である茂陵の董崇とうすう

寇恂に説いて言った。


「お上は即位されたばかりで

四方はいまだ平定されておらぬ。


しかして郡侯は

この時を以って大郡に據り、

内には人心を得て

外には蘇茂を破り、

威風は隣接する敵を震わせ

功名は聞こえている。


これは、讒謗の者が側目し、

災禍の起こる頃合いだぞ。


昔、蕭何は関中を守り

鮑生の言を悟って、

(一族の者を前線に送ったので)

高祖は悦んだ。


今君は率いる所は

みな、宗族や昆弟だろう。

先人(蕭何)を以て

鏡戒とせずにはおれまいぞ」


寇恂はその言葉を尤もと考え

病気と称して事業を視なくなった。


光武帝は洛陽を攻めんとして

先に河内へと至り

寇恂は従軍を求めた


光武帝いわく、

「河内からまだ離れるべきではない」


幾度も要請したが聞き入れられず、

そこで兄の子の寇張こうちょう

姉の子の谷崇こくすうに突起を率いさせて

軍の先鋒とする事を願い出た。


帝はこれを嘉し、

いずれもが偏将軍となった。


(註釈)

鮑生は蕭何にアドバイスした人。


戦場にいる劉邦が

何度も何度も使いを寄越すのは

蕭何のことを疑っているからで、

身内で軍務に堪えられる者を

前線に送った方がいいよ、と。


寇恂は友人のアドバイスで

蕭何に倣い、身内を従軍させた。


東観漢記だとこの場面で

蕭何の名前出してない。

誰がねじ込んだんだろう?


7.

建武二年,恂坐系考上書者免。是時,潁川人嚴終、趙敦聚眾萬餘,與密人賈期連兵為寇。恂免數月,復拜潁川太守,與破奸將軍侯進俱擊之。數月,斬期首,郡中悉平定。封恂雍奴侯,邑萬戶。

(訳)

建武二年(26)、寇恂は

拘留や拷問をした罪に連座して

上書した者は罷免されてしまった。


この時、穎川の人である

厳終げんしゅう趙敦ちょうとん

万余の部衆を集めて

密の人の賈期かきとともに

兵を連ねて略奪を為していた。


寇恂は免官となって数ヶ月で

再び穎川えいせん太守に拝され、

破奸はかん将軍の侯進こうしんと倶にこれを撃った。


数ヶ月で賈期の首を斬り

郡中は悉く平定された。


寇恂は雍奴ようど侯に封じられ

食邑は万戸であった。


(註釈)

連座で免職、でもすぐ復帰。

司隷の河内郡から豫州穎川郡の太守に。

7位馮異(ふうい)、9位祭遵(さいじゅん)

12位銚期(ちょうき)、14位臧宮(ぞうきゅう)

三国時代の荀彧や鍾繇、陳羣のホームです。


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