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淡々後漢書  作者: ンバ
第十七、岑彭伝
43/102

七、田戎の明暗

7.

秦豐相趙京舉宜城降,拜為成漢將軍,與彭共圍豐於黎丘。時田戎擁眾夷陵,聞秦豐被圍,懼大兵方至,欲降。而妻兄辛臣諫戎曰:『今四方豪傑各據郡國,洛陽地如掌耳,不如按甲以觀其變。』戎曰:『以秦王之強,猶為征南所圍,豈況吾邪?降計決矣。』四年春,戎乃留辛臣守夷陵,自將兵沿江溯沔止黎丘,刻期日當降,而辛臣於後盜戎珍寶,從間道先降於彭,而以書招戎。戎疑必賣己,遂不敢降,百反與秦豐合,彭出兵攻戎,數月,大破之,其大將伍公詣彭降,戎亡歸夷陵。帝幸黎丘勞軍,封彭吏士有功者百餘人。彭攻秦豐三歲,斬首九萬餘級,豐餘兵裁千人,又城中食且盡。帝以豐轉弱,令朱祐代彭守之,使彭與傅俊南擊田戎,大破之,遂拔夷陵,追至秭歸。戎與數十騎亡入蜀,盡獲其妻子士眾數萬人。

(訳)

秦豊の宰相である趙京ちょうきょう

宜城ぎじょうを挙げて降伏し、

拝されて成漢せいかん将軍となり、

岑彭とともに黎丘れいきゅうに秦豊を包囲した。


この時、田戎でんじゅう夷陵いりょうにて

多勢を擁しており、

秦豊が包囲を受けていると聞いて

大勢の兵が今にも至る事を懼れ、

降伏しようと考えていたが、

妻の兄の辛臣しんしんが田戎を諌めて言った。


「現在、四方の豪傑が各々郡国に據り

雒陽の地は掌の如くですから、

甲を収めて、事態の変化を

観察するに越した事はありませんぞ」


田戎は言った。


「秦王の強さを以ってして猶

南征され囲まれているのに、

況してや吾なら尚更だ。

降伏の方針を定めよう」


四年春、田戎はかくて

辛臣を留めて夷陵を守らせ、

自らは兵を率いて

長江に沿って沔水を遡り

黎丘へと止まって

期日を定めて投降しようとした。


しかし、辛臣が後方にて

田戎の珍宝を盗み取り、

間道を伝って先に岑彭に降伏しており、

書状を以って田戎を招いた。


田戎は間違いなく辛臣が

自分を売ったのだろうと疑い、

遂には敢えて降伏しようとせず、

百反して秦豊と連合してしまった。


岑彭は兵を出して田戎を攻め

数ヶ月でこれを大破した。

その大将である伍公ごこう

岑彭を詣でて降伏してしまい

田戎は夷陵へと逃げ帰った。


光武帝は黎丘れいきゅうに御幸して軍を慰労し、

岑彭の官吏や士卒で

功績があった百余人を封じた。


岑彭は秦豊を攻めること三年で

九万余級を斬首しており、

秦豊の余勢はわずか千人、

また城内の食糧も尽きてしまっていた。


光武帝は、秦豊が

転じて弱体化した事から

朱祜しゅこを岑彭に代えてこれを守らせ

岑彭と傅俊には

南方の田戎を攻撃させた。


田戎を大破して遂に夷陵を抜くと

追撃して秭帰しきへと至った。


田戎は数十騎とともに

亡命して蜀へと入り、

その妻子や士卒数万人の

盡くは捕われたのであった。


(註釈)

夷陵いりょう秭歸しきといった地名は

三国志で劉備が呉を攻めた場面で

見覚えがあるものと思います。


12の県を掌握していた秦豊の軍勢を

3年間で90000人斬首して

残り1000人まで追い込むとか……

呉漢ごかん馮異ふうい耿弇こうえんの影に隠れがちだけど

岑彭もえげつない強さです。


辛臣が割とろくでもない、

閻行と胡赤児足して2で割ったようなヤツ。

こいつが余計なことしなきゃ

田戎もとっとと降れてたのに。


田戎はこのあと、蜀の公孫術こうそんじゅつに降り

度々出てきます。

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