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淡々後漢書  作者: ンバ
第十五、来歙伝
30/102

十・十一、後嗣/范曄評

10.

子褒嗣。十三年,帝嘉歙忠節,復封歙弟由為宜西侯。褒子棱,尚顯宗女武安公主。棱早歿,褒卒,以棱子歷為嗣。


(訳)

子の来褒らいほうが嗣いだ。


十三年(37)、

光武帝は来歙の忠節を嘉して

復た来歙の弟の来由らいゆうを封じて

宜西ぎせい侯とした。


来褒の子の来棱らいりょう

顕宗(明帝)の娘の武安公主を娶った。

(天子の娘を娶ることは「尚」と表現)


来棱は早逝し、来褒が卒すると

来棱の子の来歴が後嗣となった。


(註釈)

そして三国志の来敏らいびん

繋がっていくわけです。


変わり者だったようで、たびたび

仕事をクビになりましたが、

97歳まで生きた指折りの長寿マンです。

10年ほど来歙に

寿命分けてあげてくれんかね。


また、隋の時代の来護児らいごじ

来歙の18世孫だそうな。


唐の来俊臣らいしゅんしんもかなぁ?


11.

論曰:『世稱來君叔天下信士。夫專使乎二國之間,豈厭詐謀哉?而能獨以信稱者,良其誠心在乎使兩義俱安,而己不私其功也。


(訳)

論にいう、世間では

来君叔は天下の信士と称えられている。


そもそも二国の間で使者を専らとすれば

どうして詐謀をいとえようか。


(汚い手を使わざるを得ない外交官の中で)

来歙のみが信義を以て称えられたのは

彼に誠心があり、両国の義を倶に安んじて

その功績を自分のものに

しなかった事が良かったのである。


(註釈)

李通のことはけなしてた范曄も

来歙のことはほめております。

さすがねっ。


最後にンバの個人的な来歙評です。


戦闘 ★★★★★★★★ 8


〜来歙の戦績〜

○略陽(VS隗囂)

○天水(VS田弇、趙匡)

○落門(VS周宗、趙恢)

○金城(VS西羌)

○襄武(VS傅栗卿)

○河池・下弁(VS王元・環安)


7戦7勝無敗


河池は蓋延伝だと

勝てなかったとありますが。


動き始めるのは後半からですが、

隴西や巴蜀の攻略に大車輪の活躍。


暗殺されてなければ

功臣の筆頭クラスだったでしょうに、

惜しいなぁ。



戦略 ★★★★★★★★ 8


外交官としても優秀で、

隗囂に任子を送ることを了承させた。


隴西の地理に詳しく、

木を切ってルートを開通し

略陽への奇襲を成功させているほか

隗囂配下の王遵へ引き抜き工作を仕掛け

主導権を終始に渡って握っていた。


さらに穀倉を開放して人心を収攬するなど

西州平定はマジで来歙の力である。



内政 ★★★★★★ 6


隗囂への調略がメインで、

民政手腕を本格的に

発揮する前に終わってしまった。


穀倉開放や資財のばらまきを見るに

もっと長生きしていれば

この項目も★7か8になっていたかと。



人格 ★★★★★★★★ 8


南陽で劉氏の挙兵があったときに

王莽に捕まってしまったけれど、

賓客たちが来歙を助けに来た他、

地元でない西州でも人望があり

王遵の引き抜きに成功している。


来歙が刺客に襲われたとき

蓋延が常態を失するレベルで

泣いているのがとても印象的。


蓋延は脳筋で不良っぽい印象があるが

来歙にはすごく懐いている。


死後も子孫が国を除かれずに

栄達しているっぽい。

彼の遺徳によるところも大きいとして

★8とします。

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