東観漢記、鄧晨伝
1.
晨曾祖父隆,揚州刺史,祖父勳,交阯刺史。
2.
晨與上共載出,逢使者不下車,使者怒,頗加恥辱。上稱江夏卒史,晨更名侯家丞。使者以其詐,將至亭,欲罪之,新野宰潘叔為請,得免。
3.
鄧晨,南陽人,與上起兵,新野吏乃燒晨先祖祠堂,汙池室宅,焚其冢墓。宗族皆怒,曰:「家自富足,何故隨婦家入湯鑊中?」晨終無恨色。
4.
光武微時與鄧晨觀讖,云「劉秀當為天子」。或言「國師公劉秀當之」。光武曰:「安知非僕乎?」建武三年,上徵鄧晨還京師,數讌見,說故舊平生為忻樂。晨從容謂帝曰:「僕竟辨之。」帝大笑。
5.
鄧晨為陳留郡,興鴻郤陂,益地數千頃,溉郡稻,常以豐熟,兼流給他郡。
(訳)
鄧晨の曾祖父の鄧隆は揚州刺史、
祖父の鄧勲は交阯刺史であった。
鄧晨が光武帝とともに外出した際に
使者と逢ったが、二人は車を下りようとしなかった。
使者は怒り、頗る恥辱を加えた。
光武帝は江夏の卒史を称し、
鄧晨は名侯の家丞と名乗ったが
使者はそれを偽りとして
亭長のもとへ引っ立て、断罪しようとした。
新野の宰守の潘叔の請願で免れ得た。
鄧晨は南陽の人である。
光武帝とともに挙兵すると
新野の吏人はそこで
鄧晨の先祖の祀堂を焼き払い、
家宅を汙池(破壊)し、
冢墓も焼いてしまった。
宗族は皆怒って言った。
「家はもとより満ち足りていたのに、
何故婦人の家族に隨って
※湯鑊の中へ入ってしまったのだ!」
鄧晨は終に恨みの色をあらわさなかった。
光武帝がまだ身分が低かった時に
鄧晨とともに讖緯を観たが、
こんな文言があった。
「劉秀まさに天子となるべし」
或る人が言った。
「国師公の劉秀どのがこれに相当するのか」
光武帝は言った。
「どうして僕でないとわかるんだい?」
建武三年(27)、
光武帝は鄧晨を徴して京師へ帰還させ
幾度か酒盛りをした。
旧交のある者と平時の事について語らい
上機嫌となった。
鄧晨は従容(寛ぎ)の場で光武帝に言った。
「《《僕》》は竟にやりましたな」
光武帝は大いに笑った。
鄧晨は陳留郡(太守?)となり
鴻郤陂を興して数千頃の地に
利益をもたらした。
郡の稲作地帯を灌漑すると
常に豊熟となり、一方で
他の郡にも利益を供給した。
(註釈)
上二つが新情報。
曾祖父が揚州刺史、祖父が交阯刺史。
鄧氏はへんぴな所の行政長官だった。
南陽へ来たのは父の代?
また、劉秀と鄧晨は使者に無礼を働いて
罪に落とされそうになった。
新野の宰守に助けてもらった。
この「藩叔」というのは誰だろう?
他のところに出てくるんだろうか。
後漢初の南陽絡みの人物は
ざっとこれくらいいます↓
劉秀(蔡陽県)
劉玄(蔡陽県)
鄧禹(新野県)
呉漢(宛県)
賈復(冠軍県)
岑彭(棘陽県)
朱祜(宛県)
馬武(湖陽県)
馬成(棘陽県)
陳俊(西鄂県)
杜茂(冠軍県)
任光(宛県)
彭寵(宛県)
李通(宛県)
鄧晨(新野県)
来歙(新野県)
卓茂(宛県)
趙憙(宛県)
郭丹(穰県)
三国志だと、
黄忠、魏延、鄧艾、文聘など
レベルの高い人材を輩出する土地柄です。