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ある日、リナさんの家を一人で訪ねた。以前、リナさんから借りた本を返しにきたのだ。リナさんも本を読むことが大好きだと言うので、僕らはたまに本を貸し借りしている。彼女は僕が貸した本を読み終えると必ず感想を話してくれた。僕もリナさんが貸してくれた本に関してはなるべく感想を言うようにしていた。僕らはそうやって言葉を交わし合い、以前よりも親しくなった気がした。
「以前もこうやって本を貸してくれる人がいたの。ずっと昔のことだけど」とリナさんが言ったこともあった。
彼女は楽しそうだった。僕もリナさんの本を読めるのは楽しかった。楽しいだけではなく、リナさんとの結びつきが一つ生まれるような気がした。
家の中に入ってみるが、彼女の気配がなかった。留守なのかもしれないと思いながら、部屋の中に入っていった。すると、ソファで眠ってしまっているリナさんを見つけた。病人みたいに顔が真っ白で、全く動かない。深く眠っているようだ。
とても美しい、と思った。
心臓が激しく打って、動揺を誘うほどに彼女は美しい。その姿に暫く釘付けになった。吸い込まれそうになる。彼女の中に意識をすべて奪い去られてしまいそうだ。そんな感覚から逃れるように僕は正気を取り戻した。
すると、突然リナさんが苦しみ始めた。悪夢に魘されているようだ。
僕はリナさんを揺すりながら何度も声をかけて起こした。彼女の目を開き、僕を見た瞬間、悪夢の結末を見たかのように目を見開いた。その瞳にあるのは単純に恐怖というわけではなかく、大きな驚きを含んでいるようだった。
「……トキノくん?」
僕は頷き、リナさんが身を起こすのを手伝った。
「大丈夫ですか、とても驚いていたみたいだけど」
僕が冷たい水を差し出すと、リナさんは唇を濡らす程度にそれを飲んだ。
「大丈夫。昔の夢を見てたの。目を覚ましたら、貴方がいて…」
「驚かせてしまったんですね」
「夢の中に出てきた人に少し似ていたの、貴方の顔が」
僕はそれに対してなんと答えるべきか分からなかった。
「凄い魘されていたけど、どんな夢だったんですか?」
リナさんは少しだけ微笑んで何も答えなかった。聞かれたくないことなのかもしれない。
「何も役には立てないかもしれないけど、話したいことがあったら話してください。話せば楽になることはたくさんあると思うし、僕は聞くことは得意なので」
リナさんは微笑みを止めて寂しげに、少し困惑したように眉を寄せた。
「似てるのね、あの人に」
「え?」
僕が聞き直そうとすると、彼女は首を横に振った。
「大丈夫、ありがとう。そうね、いつか頼らせてもらうことがあるかも」
そう言われてしまうと追求するようなことはできなかった。彼女が求めた時に聞けばいいのだ。無理に聞くのは迷惑でしかないだろう。
でも、彼女には何か暗い過去があることには違いないだろう。呪いは過去にあった出来事そのもので、それは今でも彼女を苦しめているに違いない。僕がなんとか彼女を助けることはできないのだろうか。
「トキノくんこそ、暗い顔をしているけど大丈夫?」
リナさんは気分を取り直すように僕に質問をしてきた。
「悩み事があるの?」
彼女が透き通るような美しい微笑みを浮かべて首を傾げる。その仕草に僕は息を飲みそうになった。
「その…」
僕は話したい気持ちがあった。自分の家が窮屈であることや、アマノに対しての感情について。でもそれは単に彼女に甘えたいという気持ちでしかないように思えた。
「僕は大丈夫です」
リナさんは僕の気持ちを見透かしたかのように笑った。
「他人の悩みには親身になれるのに、自分の悩みは自分の中に止めておこうとするのね」
「そういうわけではないですけど…」
強がる僕に彼女はそれ以上は何も聞かないでいてくれた。でも僕の中にある気持ちは、もはや否定できないものに変わってしまった気がした。僕はリナさんのことが好きだ。呪いにかかってしまったのだ。
でも大丈夫だ。伝えなければ良い。それだけを守れば死んだりすることはないはずだ。
僕はこのとき、本当に楽観的に考えていたのだ。呪いの本当の恐ろしさはこれからだったのだ。
「トキノくん?」
トモエが呼ぶ声に気がつき、彼女の方を見た。学校の帰り道だった。
「どうしたの。もう何回も呼んだのに」
「そうなの?」
「そうだよ。ずっと向こうの方見て、固まってたんだから」
トモエが指をさした方はあの森の方だった。僕はいま自分が何を考えていたのかよく覚えていなかった。まるで記憶が抜けているのだ。学校の帰り道でトモエと一緒に歩いていたことすら忘れていた。
「何かあったの?」
僕は震えていた。どういうわけか恐怖心がこみ上げてきたのだ。きっと、これが呪いの力なのだ。
それから僕は気が付くと森の方を見つめていることに気付いた。見つめているだけならまだ良かった。気がついたら森の前まで歩いていたこともあった。
こんな状態であることをアマノに気づかれるわけにはいかない。アマノが知ったら森に行くことを止められるだろう。そしたら、リナさんはアマノだけのものになってしまう。そうさせるわけにはいかない。僕は意識をしっかりともって自分を見失わないようにしなければならないのだ。
「ねぇ、大丈夫なの?」
トモエが何度も僕に声をかけていることに僕は気付いた。
「あ、うん」
「何か悩みがあるなら相談してね」
「大丈夫。大丈夫だよ」
僕は自分に言い聞かせるように繰り返した。トモエは首を傾げる。僕のことを本当に心配してくれているようだった。
リナさんの家に花が飾られていた。赤やピンクの色の綺麗な花だ。森に咲いている花とは思えなかった。誰かの贈り物だ。
「これ、どうしたんですか?」
アマノも気付いたらしく、彼が素早くその疑問を投げかけてくれた。
「もらったの」
リナさんは屈託ない様子で答える。
「ここに誰か来たんですか?」
「ええ、来たわ」
アマノはリナさんを睨み付けた。彼女はこちらに背を向けていたので、アマノのその表情は見えていない。アマノは僕の耳元で言った。
「あの人、理解していないんじゃないか。自分の立場ってものを」
苛立たしげにため息をついてから、リナさんへの質問を続けた。
「男性ですよね。村の人なんですか?」
「さぁ。話を聞く限り、この辺の人ではなさそうだけど」
「あまり人は入れない方が良いと思いますよ」と今度は僕が言った。
僕らがいれば食事の問題も心配ないはずだ。他の男をここに入れる必要はないのだから。
「勝手にくるのよ。私は誘ってなんかないわ。貴方たちだって最初はそうだったでしょう?」
「俺たちは違う。事情があったんだ」
アマノは鋭い声でそれを否定した。だが、リナさんは振り返るとどちらでもいいといった様子で微笑むのだった。
村に帰る途中、アマノは腹を立てていた。
「あの女はやっぱりおかしい。自分が他人に迷惑をかけているって気づいていない」
「そうなのかな」
「そうじゃなければ、あんな呑気にしてられないだろう」
僕はリナさんに腹を立てているアマノを見て、どういう気持ちなのか推測していた。彼は本当に彼女の態度に怒っているのか、それとも僕らの知らない男性を家に入れたことに対して怒っているのか。つまりは嫉妬心が、アマノの中にあるのかどうか、ということだ。
「本当に信じられない女だ」
そう言うアマノの声からは本心を読み取ることはできなかった。
トモエから聞いたところによると、芸術家と名乗る人が村に滞在しているらしい。その男がリナさんの家を訪れた人間だろうとすぐにわかった。男は整った顔をしていているが、肉食動物を思わせるような野性的なところがあった。
「かっこいいね。芸術家らしいけど、絵を描く人なのかな」とトモエは期待しているようだった。だが、実際にその彼の芸術という絵やら木彫りを見たところ、トモエは首を傾げていた。
「都会では流行っているのかな。私にはよく分からない」
トモエは興味を無くしたようだったが、村の何人かの女性は彼の芸術作品を買い、その様子を見た男性も何人かは話題についていくために、それらを買った様子だった。その男は得意げだった。
「なんだか気に入らないなぁ」とアマノは言っていた。
僕も同意見だった。
次にリナさんの家を訪ねた時は最悪のタイミングだった。例の芸術家の男がリナさんの家に来ていたのだ。リナさんの家からは口論するような声が聞こえてくる。言い争っているようだ。僕とアマノは急いで家の中に入った。
芸術家が大きな声を出していた。
「どうして。あの時は僕が来ることを喜んでいたじゃないか。僕がこんな怪しい森から連れ出してあげるから。さぁ!」
「そういうの、迷惑なの。貴方が私を変えられると思ったら間違いよ」
「そうやって本心を誤魔化すのはやめるんだ。僕には君の本当の声が聞こえる。君は森を出て愛情のある暮らしをしたい、そう願っている。僕ならその願いを叶えることができる」
「私の願いなんて、とても貴方に理解できるものではないわ。例え理解できたとしても、貴方には叶えられない」
「そんなことはない。僕は君を愛している。その力は何よりも勝る。君の望みを叶えるためならすべてを投げ捨てる覚悟だってある。それを証明してみせるさ。ここから一緒に出てくれさえすれば」
リナさんはずっと顔を背けていたが、その言葉を聞いて男の顔を見た。その表情は睨みつけているようでもあったし、哀れんでいるようでもあった。
リナさんが芸術家に興味を失ったかのように顔を背けた。それを見た芸術家は激高した。
「なら、無理矢理でも外に出してあげるさ!そうすれば、君だって分かる。僕のほうが正しいって」
男は進み出てリナさんの手首を掴んだ。力任せに引っ張ったためにリナさんはバランスを崩して床に膝を打ったみいだった。
「やめてください」
最初に止めに入ったのは僕だった。背後から男に声をかけると、ゆっくりと振り返った。
「なんだ、子供か」
男と目が合った。瞳の奥に黒い空間が広がっているように見えた。それは呪いの力によって愛情が憎しみに変わり、それに呑み込まれてしまった人間の目だった。
「立て!」
僕なんて存在しなかったかのように男は振る舞い、リナさんを無理やり立たせようとした。
リナさんは膝を痛めたらしく、顔を歪めた。僕は駆け寄り、男の腕を掴んだ。
「やめてください!」
「なんだよ」
男は僕に掴まれた腕とは反対の腕を振り回した。それが僕の頭を横殴りにした。僕は突然のことで反応することもできず、それをまともに受け、何歩かふらついて家具にぶつかって倒れてしまった。
「邪魔するな」
男はそういって、またリナさんを掴んで引っ張ろうとした。
「おい、やめろって言ったよな、おっさん」
今度はアマノが止めに入った。アマノは怒っていた。口元は笑っているようだったが、目つきは鋭い。
「もう一人いたのか。お前も殴られたくなかったら引っ込んでろ」
「おっさんこそ、殴られたくないなら、すぐにこの家出ろよ。出ていったところで死んじゃうかもしれないけど」
「なんだと?」
男はリナさんを物でも扱うように突き放す。彼女は床に倒れて、痛めてしまっただろう膝を打ったようだった。男はリナさんが苦痛に呻きを漏らしても、かまう素振りは見せずにアマノの方に一歩近寄った。男はアマノよりも背が高い。力もあった。いくら運動神経が良いアマノでも勝てるわけがない。だが、それは全くの勘違いだった。
アマノは床を蹴るようにして、男に素早く接近したかと思うと突然右手側へ滑るように移動した。男が突き出した拳を躱したのだ。男は横に移動したアマノを追いかけるようにもう一方の拳を突き出す。だが、アマノは自らの横手にあったテーブルに飛び乗ってそれを再び躱す。テーブルに飛び乗ったかと思えば、アマノは空中で蹴りを出した。かすめただけに見えたが、その一撃は男の意識を失わせようとするほどの威力があったらしい。男の膝が折れ、ふらつく。着地をしたアマノはさらに拳を突き出し、男の腹部を殴った。男はもはや立つことすらできないらしく崩れてしまった。
「すごい…」と僕は思わず呟いた。
「ほら、早くどっか行けよ」
アマノに言われ、男は這いつくばるようにしながら家を出て行った。
「大丈夫ですか?」
アマノがリナさんに手を差し伸べた。リナさんはその手を取って立とうとするが、膝の痛みに顔を歪めた。それだけではない。何かを感じたのかアマノの顔を見ると、茫然と見つめたまま動かなくなった。
「貴方…もしかして…」
リナさんがそう言ったのを僕は確かに聞いた。彼女はアマノに何かを感じたようだった。彼女の顔が青ざめていくのも僕にはわかった。
リナさんはアマノの手を借りて椅子に座る。
「ありがとう。凄いのね、貴方たち」
彼女は本当に関心したように言った。
だが、その「貴方たち」というのは殆どがアマノのことであるということを僕は理解していた。
「本当に助かったわ」
リナさんはそう言ったが、どこか暗い表情をしていた。そして、何度もアマノの方を見る。
「大丈夫か?」
アマノは今度は僕を立たせようとして手を差し伸べた。しかし、僕はその手を振り払ったのだった。
「そういえば、あの話題聞いた?」
学校からの帰り道、トモエが教えてくれた。
「この前、一緒に見た芸術家って人…昨日、遺体で発見されたんだって。森に入って死んじゃったんじゃないかって噂だよ」
アマノにやられたあと、どうやら呪いの力で死んでしまったらしい。
「どうして森に入ると死んじゃうんだろうね、今更だけど」
トモエはどうして空は青いのだろう…と言った素朴な疑問を口にするように言った。
僕はリナさんの家に訪れていたあの芸術家のことを思い出す。やつは酷く乱暴で口調も荒々しかった。そして、リナさんのことを平気で突き飛ばしていた。リナさんのことが好きであるのなら、あんなことはしない。
それは呪いの力に違いない。あのように他人を憎んで、凶暴になってしまうという、人の性質を変えてしまう力が、呪いにはあるのだ。そして、最終的には死に至らしめる。死ぬのだ。
僕はあの芸術家の死によって、自分がどんな立場に立たされているのか本当の意味で理解ができたようだった。足が震え、動けなくなってしまう。
「トキノくん、大丈夫?」
僕の様子に気付いたトモエは僕を支えて歩かせ、近くにあったベンチに座らせる。僕は恐ろしさで頭を抱えた。僕もいつかは、あの芸術家と同じようになってしまう。他人を、リナさんを傷つけて最後には死んでしまうのだ。恐怖に飲まれ僕は混乱する。どうすれば良いのだろうか。このままでは気がおかしくなる。
そのとき、背中に温かさを感じた。トモエが僕の背中を撫でているようだった。
「トキノくん、大丈夫だよ。私が傍にいるから」
僕の意識はどこかに飛んで行ってしまいそうだった。でも、トモエがくれた温かさが僕を繋ぎ止めた。トモエは僕が落ち着くまでずっとそうしてくれた。
「嫌なことがあるなら投げ出しても良いと思うよ。今の状況をずっと続ける必要もないし、予測している未来を絶対に進まなければならないってわけじゃないと私は思う。だから、違う道を選ぶ自由はあると思う、私は。何とかできるよ」
トモエは僕にそう言ってくれた。僕はこの村を出ていくことを考えてみた。そのとき、トモエが一緒にいてくれることも想像する。そうすれば森の呪いからも逃げることができるのではないか。でも、僕の心の奥で何かが囁く。
「あの女を手に入れたいだろう?」
手に入れたい。誰よりも。何よりも。どうしても。
でも、どうすれば?
方法は分からない。分からないけど、あの人のところへ行かずにはいられないのだ。