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伝説の魔女に恋したら俺が闇落ちした件  作者: 葛西渚
第一章 トキノ
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6

「あの女は私が生まれる前から既にあの森の中にいた。

私が子供の頃から、今と同じように森は危険なものなんだって言われていた。そんな昔から年に何回かあの森で死ぬ人間がいたからね。


私には親友がいた。ミナコと言って子供の頃からいつも一緒に遊んでいた。一緒に大人になって、大人になっても、死ぬまでずっとこの村で一緒に暮らして、ずっと友達でいるのだと思ってた。ミナコには恋人がいた。背が高くて綺麗な顔をした男前の恋人だ。

ミナコは彼のことを子供の頃から好きだった。ハタチを超えたあたりで、お互いの気持ちが同じであることに気付いて二人は結ばれた。ミナコは美人だったし、気立ても良いから、あの二人は本当にお似合いだった。村一番の美男美女がくっついたようなものだ。誰もが祝福して、誰もが幸せに暮らしていくのだと思った。


ミナコの恋人は数年、街に出て商売をして、帰ってきて村に二人の家を建てた。結婚目前だった。プロポーズも済み、あとは結婚式をあげるだけだった。誰もが幸せな家庭を築くのだと思っていた。何年もかけて二人は幸せを積み重ねていった。ミナコは彼と一緒になってから、さらに彼を好きになり、幸せいっぱいだった。きっと、この幸せは死ぬまで続き、お互いが老いたことにも気づかないくらい幸せに過ごしていくのだと、ミナコは思っていた。


だが、ミナコの恋人はある日を境に変わってしまった。彼のミナコへの優しさは変わらなかったが、時々何か余所余所しさを感じたらしい。ミナコは彼が何か隠し事をしているのだとすぐにわかった。何年も一緒に過ごしていたし、彼の性格上、隠し事ができるタイプではなかったから。ミナコが彼に問い詰めた。だが、彼は何もないと言うばかりで、何があったのか話してくれることはなかった。そこで、ミナコは彼の目をよく見て言った。


『貴方が私に善意をもって接してくれるのなら、隠し事をしていないと今ここで誓うことができる?』


彼の誠実な性格を知っているからこその言葉だった。彼は黙って顔を伏せた。ミナコのその反応を見ただけで確信した。幸せな生活に皹が入ってしまったことに。だが、まだ修復は可能だ。そう信じていた。


『何を隠しているの?お願いだから教えて。私はきっと貴方を許すことができるはず』


そうミナコは言った。きっと、浮気に違いない。他の女性を好きになってしまったのだろう。だが、きっとそれは一時の思い違いだ。ミナコと彼の間には長い時間かけて構築してきた愛があるのだから、きっとミナコが彼を許すことさえできれば元に戻るに違いない。もし彼が何か私に不満を抱いてよそ見をしてしまったのだとしたら、そうならないよう自分が努力し、もっと良い恋人として、妻として認めてもらえるようにすればいいのだ。


ミナコの恋人は『森の中に入った』と言った。

『あの呪いの森に?』

恋人は頷いいた。


『そこで一人の女性に会ったんだ。彼女は助けを必要としていた。僕は彼女を助けなければならない』

『助けって?何を困っているの?』

『分からない。でもきっと助けを求めている。僕は分かるんだ。彼女は誰かの支えを必要としている。僕は彼女の寂しい瞳を見て、何があっても助けなくてはならないと感じんだ』


ミナコは分かった。その女が実際に助けを求めているかどうかは、きっと彼にとっては関係がないということを。彼は単純にその女に恋をしているのだ。だが「女を助けたい」という言葉によって、善意が前提にあるものであると主張しているのだ。


そして、きっと女は実際には助けなど求めていないし、望んでもいないだろう。そういう種類の女がいるのだ。その女の依存心が自分に向いていると男に勘違いをさせるタイプの女が。男はその幻の依存心に答えようとする。女はその男の気持ちに都合よく寄りかかって、自分の身の回りが楽になるように過ごすのだ。そして、男が依存心に応えた代償となる対価を欲求してきた途端に突き放す。男は捨てられる。突然に。汚れ切った雑巾のように。


『私を捨てて、その人のところに行きたいの?』とミナコが聞くと彼は頷いた。

『僕の気持ちは止められない。彼女の瞳を見るとどうしようもなくなってしまうんだ』

『分かったわ。でも私は待っている、この家で。この家は私と貴方の家なんだから』


ミナコの恋人は家を出て行った。だが、次の日の朝には家に帰ってきた。


『家に帰れと言われた』


彼は頭を抱えて、一日中何も食べずに眠ることもなくそうしていた。ミナコも彼に寄り添い、食べず眠らず、彼を慰めた。次の日になると、また彼は家を出て森に向かった。だが、やはり夕方には帰り、ぼんやりとしている。そんな日々が続いて二人の肉体と精神は磨り減っていった。やせ細り、目が窪み、肌は浅黒くなった。


ある日、ミナコは思い切って彼に聞いた。


『なにをそんなに悩んでいるの?貴方の気持ちはその人には伝わらないの?』


彼は生気のない瞳をミナコに向けて首を横に振った。


『僕には分からない。何をどうすれば良いのか。ただ毎日が苦しい。彼女を愛していてもどうやってそれを伝えれば良いのか分からない』


ミナコは自分から切り出した話ではあったが、彼のその言葉は堪えるものがあった。彼がこの恋の深いところまで落ちてしまっているのだと知らされるからだ。


だが、彼女はなぜここまで苦しまなければならないのかという疑問が生まれた。彼女は彼の為に苦しみ、彼はその女のために苦しむ。ならばその女は何を苦しんでいるのだろうか。それを断てばすべて収まるのではないか。手段は何でも良い。原因となる女から生まれる苦しみを断てば。




ミナコは始めて私に相談してくれた。彼女の姿を見たとき、私はその変わり様に驚いた。異常に痩せて、白く美しかった肌は荒れ、美しかった髪の毛も傷んでおり、白髪が目立った。体には痣も見られた。暴力を振られている、ということを疑うしかなかった。


彼女に最初うまく話すことができなかったようだが、少しずつ話を聞いているうちに、ダムが決壊するかのように彼女は話し始めた。泣き崩れながら、今までの苦しみを少しずつ、一日かけて話し続けた。


私は怒りを覚えた。彼の恋人を殴ってやりたかったし、森の中に隠れている女というのも殴ってやりたかった。彼女は泣きながら私に言った。


『その女の人に会いたい。会って、これ以上あの人を苦しめないで欲しいと言いたい』


真っ赤な目で私にすがる彼女の顔を見て、彼女の心が既に壊れかけているのだと分かった。私は親友をここまで酷い目に合わせたやつらを許せなかった。一緒に森へ行こうと約束した。




私と彼女は森の中に入った。化け物に襲われもしたが、私が猟銃を持っていたので、何とかあの女の家にたどり着いた。女は優雅に家の中で紅茶を飲んでいた。突然、入ってきた私たちを見てもそれほど驚いた様子もなく、微笑んで『あら、女性のお客さんがくるのは珍しいわ』と言って笑った。あの女はミナコやミナコの恋人が苦しんでいることなど、まるで関係ないかのように、気楽に暮らしているようにしか見えなかった。その姿を見たミナコは取り乱し、女に掴みかかった。


言葉にならない言葉を女に向かって、殴りつけるように発するミナコを止めるのは本当に大変だった。あれだけ弱っていた彼女がどうしてこれだけの力が出せたのか、理解できなかった。きっと、それだけの怒りを彼女は溜め込んでいたのだ。


ミナコをなんとか宥めて私はその家を訪ねてきた理由を女に話した。


『ああ…あの人』

女はまるで他人ごとだった。

『私は反対したわ。奥さんと別れる必要なんかひとつもないって』


ミナコがまた暴れだした。


『あの人をもう開放してあげて!貴方のせいで!あれだけやせ細ってしまって、貴方は悪魔よ、この魔女が!どうしてあの人に関わるの!あの人を利用して、どうするつもり!こんなところまで呼び寄せて、何をさせているの!?』


私に押さえつけられてもミナコは凄い力で抵抗しながら叫ぶが、女は少し困った顔をしただけだった。


『そんなこと言われても…私は別に彼に対して何かを求めているわけではないし、彼に会いに来て欲しいと言ったこともないのだけれど』


女にとってはそれは、家に虫が出てちょっと困っているといった程度のことのようだった。ミナコはそんな女の態度を見て、ついには白目を向き、口から泡を吹いて気絶してしまった。


女はそんなミナコをベッドに寝かせ、冷えたタオルを頭に乗せてやった。


『貴方はこんなにもミナコに恨まれているのに、どうして平然としてられるの?』


私は女に聞いた。これだけの増悪を向けられれば恐怖や罪悪感を少しはあってもいいはずだ。ミナコは異常だった。


『人と会話するのが楽しいの。こんなところで、ずっと一人でいるから』


女は確かに寂しげだった。女の私ですら、女のその表情に胸が締め付けられるような気持ちになった。この表情にミナコの恋人もおかしくなったのかもしれない。


『なぜ、こんなところに一人でいるの?』

『私って人を傷付けてしまうタイプみたいだから』と女はミナコを見る。

『だから、こんな風に一人でいた方が良いのでしょうね』


女は自分の意思ではないかのような言い方だった。


『森が危険と言われたり、魔女がいるだとか言われるのは、全部貴方の仕業なの?』

『たぶん、殆どは私のせいでしょうね。もしかしたら全部、私がいけないのかも』


『どういうこと?』

『呪われているのよ、私』


呪われている、という言葉を聞いて私は思い出した。森に踏み入って死んでしまう原因がこの女なのならば、私はもしかしたら近いうちに原因不明な死を遂げてしまうのだろうか。動揺を見せる私に女は落ち着かせるかのように微笑んだ。


『大丈夫、貴方もこの子も死んだりしないから』

ミナコがうなされている。目を覚ましそうだった。

『私がいたら彼女の体に良くないようだから、少し出るわ。彼女が起きたら二人で帰るのが良いと思う』


女は家から出ていこうとした。その背中に私は問いかける。

『貴方、本当に何者なの?』

女は振り返って微笑んだ。


『また来てくれたら教えてあげる』


女が出て行って暫くしてミナコは目を覚ました。意識がまだ朦朧としているようだったが、思い出したくないことを思い出す前に家に帰らせた方が良いだろうと思い、私は彼女の肩を担ぎながら家を出て、森を出た。




その二日後、ミナコの恋人が死んだ。

やはり死んだ。森に入ってあの女に会ったことが原因に違いない。私は恐ろしくなってしまった。ミナコは酷く取り乱しているようだったが、私は彼女を支える余裕がなかった。私も数日すれば死んでしまうかもしれない。あの女は私たちは死なないと言っていた。ならば死に至る条件は他にあるのかもしれない。だが、私はそのように冷静に考えることなどできなかった。


私は父に森に入ってしまったことを相談した。父は厳格な人で森に入ることを厳しく禁じていた人間だったが、だからこそ何か知っているかもしれないと考えたのだ。


『お前にはいつか話そうと思っていた』と父は大きく溜め息をついた。


父はあの女と知り合いだったのだ。それどころか週に一度、あの女の家に通い、食料を運び入れていたらしい。


『あの女は何者なの?どうして森に入った人間は死ぬの?』


私の質問に父は答えてくれた。あの女はやはり父が子供の頃から既にあの森にいたらしい。父の知り合いも何人も森で死んだそうだ。父は自分の叔母から食料を運び入れる仕事を引き継いだそうだ。そういえば、一年前に親戚のお婆さんが死んだのだった。きっと、その人が父の前にあの女の面倒を見ていた人だ。


女は呪われている。とても強い力で。しかも、相反する二つの強い力に呪われているそうだ。


一つは異性ならば誰でも自分の虜にしてしまう呪い。確かに女の容貌は美しいものだが、それだけではなく呪いの力が働くのだという。男である限り、それに抗うことはできないそうだ。厄介なことにあの女の意思でそれをコントロールできるものでもないそうだ。だから、男たちはどうすることもできず、あの女に惚れてしまう。


もう一つの呪い。それは女に好意があることを伝えた人間が必ず死ぬという呪いだった。

つまり、男であれば必ずあの女に惚れるし、その気持ちを伝えてしまったら必ず死ぬということなのだ。だから、森に入った男は絶対に死ぬ。呪いの効果を知っていても知らなくても、避けられないものであるかのように。


父はこの話を直接女から聞き、実際にその力で死ぬ人間を何人も見てきた。父は森に入れば命を落とすという噂をさらに広めたそうだ。これ以上、被害を増やさないように。


『どうして歳を取らずに生きているの?なぜ食料を与えるの?放っておけば死ぬんじゃないの?』と私は言った。


父は首を横に振る。


『なぜ死なないのかは分からない。食料を与えずに餓死させるという方法を昔、私の祖母が試したそうだ。だが、彼女は空腹でも死なないし、空腹の時間が長くなると、森の中にいる化物が村まで食料を探しにくる。普段は男の力なら倒せる獣だが、彼女の空腹状態が続くと、かなり凶暴になるらしい。彼女を生かすためだ。祖母の時代には、それが原因で村の人間が何人も食われたそうだ』


父も父の祖母もあの女に食料を運んでいたそうだ。もしかしたら、もっと昔から私の一族はあの女に食料を運んでいたのかもしれない。


『そんな一人の人間が生きるために、何年も村の人は巻き込まれているの?』

『あの女の意思ではないらしい。死のうとしても、無理やり生かされているのだと言うことは一度だけ聞いたことがある。彼女自身はもしかしたら、死にたいのかもしれないな。私は彼女のように長く生きることはできないから、それがどんなものなのか想像もできない』


私も父も黙ってしまった。けっきょく、女が何者なのか分からなかった。ただ、その危険性を正しく理解しただけで、対処法だとか解決方法も分からない。もちろん、ミナコの気持ちを救う方法なんて何もなかった。


長い時間、二人で黙っていたが、父が意を決したように口を開いた。


『私が死んだら、彼女に食料を運ぶ役目をお前に任せたい』


私はすぐに返事をすることができなかった。誰かがやらなくてはいけないことだということはわかる。あの女が物を食べなければ、化物たちが村までやってくるのだから。しかし、ミナコを苦しめている女の面倒を私は死ぬまで続けることになるということだ。


『幸いお前は女だ。私より適任だろう。私は少し疲れてしまった。たった一年、あの女の面倒を見たが…正直、私はもうダメだ』

返事をしない私に父は微笑んだ。

『頼んだよ』


そういう父の顔はいつもよりも老けて見えた。長年背負っていた荷物の置き場所を見つけたからなのだろう。数週間後に父は死んでしまった。


父はあの女に思いを伝えたのだろう。そして死んだ。あの疲れきった微笑みは、やっと思いを伝えることができるという気持ちと死を受け入れた微笑みだったのかもしれない。


どうして、あんな女一人のために死ぬことができるのだろうか。


次はミナコが死んだ。自殺だった。私は復讐を決意した。父を奪い、親友を奪い、そしてこの村に不幸をもたらし続けるあの女は、殺すべきだ。私がやるしかない。




私は銃を手にして森に入った。殺意を持った私を森は歓迎しなかった。あの化物たちが以前より執拗に私に襲いかかる。私は化物に噛み付かれ、肉を裂かれ、骨を折られながらもあの家にたどり着いた。血だらけの私が入ってくると女は目を丸くして立ち上がった。


『どうしたの?大変だわ』


女は私に駆け寄ろうとしてきた。私の傷を見ようとしたらしい。そんな女に私は銃を向けた。女は足を止める。特に驚いた様子はなかった。


『私を殺しにきたの』


女はなぜか恥ずかしそうに頬を赤らめた。


『気を付けないと…。私に殺意をいだいたまま森に入ると、あの子達いつもより凶暴になるの』

『黙って!』


私は女を黙らせるために銃を構え直した。女は両手をあげる。ゆっくりと。


『撃っても良いわ。でも、三日後には食料がほしいの。そうしないと大変なことに…』

『…理由を聞かないの?こうやって殺意を向けられる理由を』

『貴方が話したいのなら話せば良いわ』


私は女の態度に逆上した。頭が熱くなった。怒りが体の中心から頭へと突き抜けるようだ。


『なんて傲慢な態度。私たちの怒りや憎しみをどうして知ろうとしないの?そうやって私たちを下に見て、偉そうに!』


女は怒りを露わにする私を見て不思議そうに首を傾げた。


『下になんて見ていないわ』


『そんな訳がない。貴方みたいな人間は私たちの気持ちなんて理解できない。そうやって微笑んでいれば、他人から優しくされる。だから、他人の気持ちなんて理解する必要なんてなかったからよ』


女は僅かに微笑みを浮かべて黙っていた。私の言っていることを理解しただろうか。聞こえているのだろうか。人格を否定されているのだと認識しているのだろうか。


何一つ理解していないだろう。きっと、この女には犬や猫が必死に吠えている程度にしか見えていないのだ。


私は引き金をひいた。銃声が響き、女は仰け反ってそのまま倒れた。一瞬で分からなかったが、女の胸の辺りに銃弾が命中したように見えた。床に血が広がっていく。私は倒れた女に近づき、至近距離から何度も引き金をひく。女は血を流し、胸や腹部の中にあったと思われる臓器が飛び散っている。私は倒れた女の顔を覗き込むようにして見た。目は虚ろで焦点が合っていない。死んでいる。当然のことだが。


私は家を出て森の中で嘔吐した。


人を殺してしまった。あれは確実に死んでいた。蘇るわけがない。私は怯えながら、数日家の中に引き篭もった。隣人は父やミナコが死んだことが原因だと考え、引き篭る私を気遣ってくれた。そうしているうちに一週間が経った。




父が話したことと同じことが起こった。

森から化物たちが現れたのだ。次々に化物たちが人を喰らおうとする。男たちが抵抗するが、化物の数がどんどん増えて、怪我人も増えていく。このままではすぐに死人が出てしまうだろう。私は水と食料を持って森へと走った。一週間前の怪我はまだ治っておらず、殆ど体を引きずるようにして走った。化物たちは殆ど村へ出て行ったためか、森の中にやつらの気配なく、いつも以上に静かだった。


女は部屋の隅にあるソファで横になっていた。バラバラになったはずの頭も体も元に戻っている。何事もなかったかのように。ただ、空腹のためなのか、疲弊しきっているようだった。私は女に駆け寄る。私はまず女に水を飲ませた。殆どが女の口には入らずに溢れてしまったが、しっかり飲み込んでいるようだった。咳き込む女の上半身を抱えて座らせ、少しずつだが、食料を与えた。呼びかけると女が反応した。


『もう大丈夫』と女が言った。


それは、あの化物たちがもう人を襲ったりはしない、という意味だったのか。

私は刺激が少なそうな食べ物を調理して、女に食べさせた。


『ありがとう。本当に助かったわ』

女は微笑む。

『村の方は大丈夫だった?』


女の質問に私は答えない。


『ごめんなさい、迷惑ばかりかけて』


女は言葉では謝るが、それは言葉だけだった。悔やむ気持ちや省みるような気持ちがあるようにはとても感じられなかった。きっと、女は自分がかける迷惑を他人は受け入れると知っている。迷惑をかけても許される。それがこの女にとっては当然なことなのだ。


私はこの女をもう一度、殺してやりたくなった。あの時のように何度もこの女に向かって銃の引き金をひいてやりたい。


『良いのよ、殺したくなったら殺しても』


女に背を向けて料理をしていたが、その言葉に振り返って女を睨みつけた。


『ただ、数日たったら今日みたいにご飯を運んできてくれると助かるのだけど』


女を殺したい。でも、どんなに殺しても無意味だ。女を殺すことはできない。


私は家を出て村に戻った。死者が数名出たそうだが、化物たちを追い払うことができたそうだ。聞いた話によると、化物たちは何の前触れもなく突然、森に戻って行ったそうだ。きっと、私が女に食料を与えた頃だったのだろう。


私はあの女に食料を与え続けなければならないだろう。あの女が空腹を感じないように。そうしなければ村の人々がまた襲われる。どんなにあの女が憎くても、私はあの女の面倒を見なくてはならない。そして、あの女はそれを当然であるかのように受け取るだろう。




それから私は週に一度ほどのペースで女に食料を運び入れた。時々、食料を運ぶのを遅らせたりした。無駄だと分かっていたが、女を少しでも苦しめたかった。もちろん無意味だった。私は女と会話をするようになった。女は私に親しげに話しかけてくることもある。私が結婚したときも女はおめでとうと言ってから平然と『今度、旦那さんを紹介して』などと言った。どうすればこの女を後悔させることができるだろうか。どうすればこの女が反省するだろうか。どうすればこの女が許しを請うだろか。私に。父に。ミナコに。この女を愛したすべての人に。


私にはまだ分からない。きっとこの気持ちを抱きながら死ぬのだろう。私はあの女に呪われている。あの女が死ぬまで、この呪いは解けない。きっとそれは私が死んでも解けることはないのだ」




村長は僕たちにも理解できるように言葉を選びながら、詳しく話してくれた。

「あんたたちはまだ子供だ。だが、成長すればするほど、あの女と会うのは危険になる。分かったなら、森に行くんじゃないよ」


僕らは村長の家を出た。三人で帰る途中、アマノが最初に口を開いた。


「カネタ、もうあの女と会うのはやめろ」

「はぁ?どういうことだよ。俺はダメでもお前は良いのか」

「そういうことじゃない。誰が会っても危険だ。でもお前は特に危険だろ」


「何言ってるんだ。別に俺はあの人のことを危険だなんて思わない」

「だから、そういうことじゃない。あの人自身が俺たちに危害を加えなくても、あの人を呪っている何かは確実に危害を加えるって話だろ」


カネタの目つきはどこか病的だった。言っても聞かないだろう。理解しようとしないだろう。


「そんなこと言って、お前は一人で会いに行こうって魂胆だろう。お前は何を考えてるか、分からない余所者だからな」


アマノがカネタを殴り飛ばした。尻餅をついたカネタは、アマノを見上げる形で睨み付ける。


「図星つかれて言い返せなくなったら暴力かよ。最低だな、なんでも暴力で解決しようとするお前の性格。最低だよ!」


カネタの目つきは今まで見たことないような恐ろしい目をしていた。黒い液体を流し込んだかように目の奥が真っ黒だ。それは何かおぞましい感情に塗れている。だが、カネタの口元は笑っていた。どうしようもない歪みが彼の心の中にあるのは確かだった。いつからだろうか。彼はもっと大人しい性格だったはずだ。いつの間にか、何かに染められてしまったかのようだ。


そんなカネタを見下ろすアマノは何かを口を出そうとしたが、適切な言葉が見つからないのか黙っている。アマノは踵を返すと、何も言わずに歩き出した。カネタはその背中に罵倒を浴びせる。「余所者」だとか「お前ら親子は狂っている」だとか。アマノは振り返らず、僕らの視界から消えてしまった。それを確認すると、カネタは舌打ちをして立ち上がり、違う方向へと歩き出した。


これが僕たち三人で話す最後の機会だった。

僕らはお互いが気まずく感じて、会わなくなってしまった。僕はまたいつか三人で遊べるだろうと思って、蟠りが解消されるのを待った。


だが、そうなることはなく三年が経ち、カネタは死んでしまった。僕も思春期と言われるような年齢となっていた。もし、僕とアマノが次に彼女に会うことになったら、二人ともカネタと同じことになってしまうのだろうか。

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