5
それから数日、僕たち今までどおりに過ごした。アマノも元気そうだった。もうきっとあの森に入ることもないだろう。僕はそう考える度に森であった出来事を思い出してしまう。僕は森の方を何度も見た。森と森に住む魔女、そして化物。いったいあの森で何が起こっているのだろうか。でも、それだけじゃない。僕は何かを思い出そうとしている。ずっと、頭の中で何かが引っかかって取れない。
アマノかカネタか、どちらかがすぐに森にもう一度行こうと言い出すだろうと僕は思っていた。僕は落ち着いて日常を過ごせば良いと思っていたが、なかなかうまくいかなかった。自分が思っている以上に、僕は森のことを気にしていたらしい。きっと、アマノが言い出すに決まっていると思っていたが、意外にもカネタが最初に森について触れた。
「もう一度、森の中に入ってみないか?」
「なんでだよ、危ないだけで意味ないだろ」
むしろ、アマノは興味がなさそうに返事をした。僕はどう返事をするべきか迷った。僕の返事を待たずにカネタは前のめりになって興奮気味に言った。
「あれだけ不思議なことが起こったのに、ただ、はいそうですかって言って忘れろって方が無理じゃないか。僕は色々なことが気になって仕方ない。君のお父さんのこととか、魔女のこととか、森のこととか」
カネタのことを好奇心が強いタイプだとは思わなかったので、ここまで彼が積極的であることに僕は少し驚いていた。
「知ってどうするんだ。何ができるんだ」
「分からないけど、何か出来るかもしれないじゃないか。もしかしたら、長い間ずっと謎のままになっている森の秘密を解くことができるかもしれない。そしてら、僕たちは英雄だよ」
「そんなことできるわけがない。子供がやる謎々じゃないんだ」
「行くのが怖いのか?」
「違う。ただ理由が感じられないってだけだ」
二人の意見は平行線。二人とも僕の意見を求めてこないのが幸いだった。
「良いよ、一人でも行くから」
最後、カネタはそう言い残して森の方に歩き出した。僕とアマノは彼の背中を見送る。
「トキノはどうするんだ?」
「…一人で行かせるのも心配だから僕も行ってみるよ」
「危ないぞ」
「わかってるよ、でも一人で行かせるのはもっと危ない」
僕はカネタの意見に隠れるようにして自分の意思を実行しようとしていた。
化物が出てきた時のために、バットを持っていった。カネタに追いつく。カネタはなぜか少し不満そうだった。
二人で森に入る。今回は昼間だけど、前よりも暗い場所であるように感じた。カネタは魔女が住んでいる家の位置を覚えているかのように、迷いなく進んでいく。僕はそれに従った。
暫く進むと、あの化物の唸り声がどこから聞こえた。カネタも聞こえたらしく立ち止まって辺りを見回す。
「大丈夫、あの魔女に敵意を持っていなければ襲われないはずだから」
カネタはそう言いはしたものの、また獣の唸り声が聞こえると、恐ろしかったのか、僕が手にしていたバットを奪い取って構えた。カネタの突然の行動に僕は驚いて唖然としてしまった。
獣の唸り声。近くにいる。もうダメだ、と思った。
足音が近づいてくる。僕らはもう食べられてしまうのだ。きっと、あの人に敵意を持っているかどうか、そんなことは関係がないのだ。森に入るものはあの獣に食べられてしまう。僕の気持ちは恐怖でいっぱいだった。足音がさらに近づいてくる。もう駄目だ。食べられてしまうんだ。
「なにしてんだよ」
獣がのどを鳴らして僕に噛みつくかと思ったが、聞こえたのはアマノの声だった。
足音の正体はアマノだったらしい。
腰を抜かしているカネタにアマノは手を出した。
「どうして…」と言うカネタをアマノが引っ張り上げて立ち上がらせる。
「魔女のこと気になったんだよ、俺も」
アマノはそういうが、僕は分かっている。アマノは魔女の存在よりも僕らの身を案じてくれたに違いない。アマノはそういう人だ。
安堵の表情を見せていたカネタだったが、アマノの一言を聞いて顔色を変えていた。アマノが言った「気になった」という言葉が引っかかったのか、アマノの背中を睨みつけていた。
あとになって僕は理解したが、カネタは魔女にただ会いたい、と思っているだけではなかった。カネタは僕らよりも部分的に発育が早く、大人が持つ感情が既に心にあったのだ。
魔女の家につくまでにあの化物に遭遇せずに済んだ。
魔女が言った「敵意をもっていなければ、あの獣たちは襲い掛かってこない」というのは本当らしい。
訪ねてきた僕らを見て魔女は驚いた顔をした。だが、すぐに僕らを家の中に迎え入れ、飲み物を出してくれた。
カネタは最初のうちは色々質問をしていたが、魔女は以前のように曖昧な返答しかしなかった。カネタは質問することに飽きると自分の話をした。森の謎がどうとか言っていたが、どう見てもお喋りに来ただけにしか見えない。
アマノは退屈そうにぼんやりとしていたので、僕も退屈だった。隣の部屋のドアが開いていたので、覗いてみると本棚がたくさん並んでいた。
「あっちの部屋にある本、見てもいい?」
僕が魔女に聞くと、魔女は「どうぞ」と言って微笑む。カネタは一瞬でも魔女の興味を引いた僕を恨めしそうに睨んだ。
僕は学校の図書館でたくさん本を読んできたが、魔女の持っている本は僕の知らないものばかりだった。どれも古そうな本が多い。百年とか二百年とか、それよりもっと古いものもあるようだ。中には外国の言葉で書かれたものもあった。
「そろそろ暗くなるから帰りなさい」と魔女が言うまで僕は本に没頭し続けていた。
「いやだよー、もう少しくらいなら大丈夫だよ」
カネタが甘えた声を出す。
「困らせるなよ、帰ろうぜ」
アマノが立ち上がる。
「良い子なのね」
魔女が言うとカネタは不満げに顔をしかめたあと「分かったよ、帰ろう」と言った。
「あの…」
僕は魔女に一冊の本を見せた。
「これ、借りても良いかな」
魔女は微笑む。
「良いわよ。でもちゃんと返してね。私のお気に入りなの」
僕は頷いた。カネタの視線を感じたが気づかないフリをした。
「ねぇ、お姉さんの名前、なんて言うの?」
帰り際にカネタが聞いた。きっと答えはしないだろうと僕は思っていたが、魔女は何事もなく答えた。
「リナ」
それから僕らは頻繁にリナさんの家に出掛けていた。
カネタはひたすらリナさんに最近の出来事を話し、アマノはぼんやりとして、僕は本ばかり読んでいた。見たこともない本がたくさんあるから、僕はそれに夢中だった。カネタと僕はこの家にくることに利点を見出していたが、アマノは違った。いつも、興味なさそうにぼんやりしてる。
森もそれほど怖くなくなった。例の獣にあまり会わなくなったのだ。獣たちは僕らが森やリナさんに対して悪意がないことを覚えたのかもしれない。僕らは森を歩くことに慣れてしまった。
しかし、森に入った人間が死んでしまうのは、あの獣たちに襲われることだけが原因というわけではない、と僕は考えていた。村の人間以外の人間が森に入って死ぬことがある。彼らは偶然、森に入ってしまっただけで、森やリナさんに対して悪意を抱くということはないはずだ。ということは、獣たちには襲われることはないはずなのだが…。やはり、魔女と言われるリナさんが原因なのだろう。カネタは何も考えていないようだが、アマノはどう思っているのだろうか。
「二人はどう思っているんだ、あの女のこと」
ある日のこと、アマノが僕の疑問を先に口に出した。質問にはカネタが最初に答えた。
「いい人だと思うよ、僕は。なんで魔女だなんて呼ばれているか不思議だよ」
「良い人かもしれない、俺たちの前では。じゃあ、なんで村では森が危険だって言われてるんだ」
「僕もそう思う」と僕はアマノの意見に同意した。
「確かに化物が出てくるけど、あの人に対して悪い気持ちをもってたりしなければ襲われることはないはず。現に僕らは化物に襲われないしね。だとしたら、やっぱり魔女と呼ばれるあの人が大人を殺していると考えられる。もちろん、魔女への恐怖心から、悪意に変化して獣たちを呼び寄せてしまう、ということはあるかもしれないけど、あの森の噂を知らない旅人なんかも森で死ぬのはおかしい。森に対して悪意や恐怖心がないにも関わらず、獣たちに襲われている、ということになるんじゃないかな。僕たちの経験からそれは考えにくいし、そうなるとやっぱり他の存在が人を殺している、ということになる」
「お前が言うなら、そうなんだろうな」
僕の言葉にアマノは何度も頷いて同意した。
だが、カネタは僕の意見をまるで下らない妄想を聞いたかのようにため息をついた。
「そんなわけないだろ。あんな綺麗で優しい人が。人を殺す理由だってないじゃないか。それに彼女はたぶんあの森で不便な生活をしていると思うよ。寂しいに違いない。むしろ、あの人を助けてあげるべきじゃないか。そうだよ、僕たちが助けてあげるべきなんじゃないか」
僕とアマノは黙った。カネタが本当に怒っているようだったし、何を言っても聞いてくれそうになかったからだ。きっと、魔女のことを悪く言われるのが許せないのだろう。
「もういいよ、僕は帰る」
カネタが去ったあとで僕はアマノに言った。
「リナさんは森から出れないはずなんだよね」
僕が何かを言おうとしていると理解したのかアマノは頷くだけで続きを待った。
「でも、僕らが尋ねる度に飲み物やお菓子を出してくれるよね。あれはどこから来てると思う?」
「そうか…。どうなってるんだ?」
「あの人が森を出れないということが嘘なのか、誰かが食料を森に運び入れてるか。このどちらかじゃないかな。あの人が村に訪れたりなんてしたら、絶対にすぐに噂は広まるけど、それはない。だとしたら、誰かがあの森に入って食料を運んでいる」
僕の言葉にアマノは納得したように頷き、決心したかのように言った。
「もし、そんなやつがいるとしたら、殆どの事情を知っているはずだ」
僕とアマノは話し合った結果、誰かが森に食料を運び入れている方が可能性として高いだろうという結論に至った。きっとそれは魔女と親しい人間であるに違いない。そうなると、森に入った人間がなぜ死んでしまうのかという謎についても何か知っている可能性も高いはずだ。
僕とアマノは早速、カネタに謝りに行き、事情を話した。リナさんと親しい誰かがいるはずだ、と話すとカネタは目の色を変えて、誰なのかを知るべきだと主張した。
僕たちは村から森に入る道をすべて見渡すことができるよう手分けして見張った。何日も見張ったが、誰も現れなかった。もしかしたら、僕たちの推測が外れているのではないかと諦めかけた、ある日のことだった。夜中に僅かな光が森に向かって動くのを僕が見つけた。少し離れた場所で違う方向を見張っている二人に分かるように、懐中電灯をつけたり消したりして合図を送る。二人と合流して、その光を追った。やはり、その光は誰かが森に行くために道を照らすためのものだった。
僕らはその人物に見つからないように後を付けた。しかし、その追跡は長く続かなかった。森には木の枝や葉っぱが多く落ちていて、それを踏んでしまうと大きな音がしてしまうのだ。特に草木も眠るような静かな時間には、その音は酷く大きな音だった。誰だったか、木の枝を踏んでしまい、枝がへし折れる音が響いた。森中に響いたのではないかというくらい、大きな音に聞こえた。
僕らは隠れようと慌てふためいている間に、謎の人物はもう僕らの目の前にいたのだった。
「あんたたち…」
その人物が誰なのか。声を聞いただけですぐに分かった。
「村長…?」
僕の言葉にその人物…村長は有無を言わせないような威圧的な表情の中に戸惑う色を浮かべた。
「どうして村長が!」とカネタが騒ぎ出した。
「村長はリナさんと知り合いなの?リナさんのことを知っているの?あの人はなぜ森の中に住んでいるの?なぜ魔女だなんて言われているの?本当に人間じゃないの?」
カネタの質問攻めに村長は唖然としているようだった。
「会ったのか、あの女に…」
村長の大きな体が少し萎んだ気がした。
「やっぱり、知っているんだ!ねぇ、リナさんは何者なの?ねぇ!」
興奮気味のカネタの言葉を聞き、村長は何かに思い当たったように驚愕の表情を見せ、カネタの両肩を掴んで顔を近づけた。
「あの女と話したのか!何を話した?どんなことを?」
村長が鬼の表情でカネタの肩を揺するが、カネタも負けずに村長から魔女の情報を引き出そうと喚いた。
「落ち着けよ、二人共…」とアマノが呆れたように呟いた。
押し問答が続いたが、村長が先に折れて深くため息をついた。
「分かった。私の方から知っていることを話そう。だが、夜は危険だ。あんたたちもあの化物を知っているだろう。やつらはこの時間が一番凶暴になるんだ。だから、一度私の家に帰ろう」
村長の家はどこかくたびれているような感じがした。壁の色や家具、食器なんかも全てがくたびれている様子だ。古いものを使っているとか、そういうわけではないのだろう。
村長は僕らに温かいミルクを出してくれた。一口飲んで、リナさんが僕らに出すミルクと同じ味であると分かった。カネタもそれに気付いて同じ味だと騒いだ。
「私が作り方を教えたからね、そりゃ味も似るさ」
村長は僕らの向かい側に座った。僕ら三人は並んで村長が話し出すのを待った。
「私が知っていることを話す前に一つだけ教えてほしい。それを教えてくれたら知っていることを全部話す。それで良いだろう?」
僕らは頷いた。
「あの女とどんな話をしたんだ?」
村長の質問に対して、僕らはここ最近、リナさんと話したことを村長に伝える。森の化物のことや、アマノのお父さんのこと、僕が読ませてもらっている本のこと、カネタの取るに足らないような日々の話しのことをなんかを。
「他にはないのかい?例えば、あの女に自分の気持ちのことを話したりは?」
「自分の気持ちってのは?」と僕が質問した。
「うん…お前たちはあの女のことをどう思う?」
「僕は好きだよ」
すぐにカネタが返事をした。村長を眉を寄せる。
「それをあの女に直接言ったりしたのか?」
「それは…ないけど」
村長の顔に安堵の表情が浮かぶ。
「お前たちも好きだとかそんなことはあの女に言ってないよね?」
村長は僕とアマノを見る。僕たちは頷いた。
「そうか、良かった。本当に良かった…」
「どういうこと?どういうことなのさ?」
身を乗り出すカネタの襟首をアマノが掴んで引き戻す。
「お前はいちいち煩いなぁ。少し静かにしろってば」
カネタはアマノの腕を振り払う。
「なんだよ、偉そうに!気にならないのか?」
「気になるんだったら黙れってことだよ。静かにしろよ」
「村長!」
二人のやり取りを遮るように僕は声を大きくした。
「話してくれるんですよね?」
僕の言葉に村長はゆっくり、二回も頷いた。その仕草には大きな疲労感が含まれているようだった。この家にあるすべての物をくたびれさせてしまうほど、村長はその秘密を守ることに疲れていたのだろう。
それは僕らの生きてきた月日とは比べ物にもならないような長い時間、秘密にし続けたことなのだと想像ができた。そんな長い時間によって包み隠された秘密を、ゆっくりと取り出すように村長は話し始めた。