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アマノたちと遊ぶのは楽しかった。
アマノが中心になって色々な遊びをした。今までいじめられて陰鬱な日々だったのに、アマノが来てから色々と変わったようだった。本当にアマノのおかげだ。僕は彼とずっと友達でいられるだろうか。そんな心配はあったが、アマノたちと遊ぶ日々は僕が心配する時間をかき消すほど楽しい日々だった。
アマノは時々、夜遅くに僕の家を訪れた。彼の両親が喧嘩をしているらしかった。喧嘩というよりは、あの不気味な父親が弱々しそうな母親を一方的に怒鳴りつけている姿を想像した。
「自業自得ってやつだろ」とアマノは言っていた。
アマノはそれ以上を語らなかった。いつも朝まで帰らないアマノだったが、ある日のこと珍しく母親が迎えに来た。アマノも少し驚いた顔をしていた。
「あの人…お父さんはいないから平気。一緒に帰りましょう」とアマノの母親は言った。
口元は弱々しく微笑んでいたが、目元にはいくつものシワが刻まれ、疲れきっているのが見て取れた。もしかしたらアマノの父親はこの村を出ていったのかもしれないと僕は思った。
次の日の夕方、僕はアマノの父親を見かけた。僕は少しほっとする。アマノがお母さんと二人でどこかに行ってしまう気がしたからだ。だが、アマノの気持ちを考えると少し残念な気持ちにもなった。アマノはまたあのお父さんに殴られてしまうのだろう。
僕はそんなことを考えながら、アマノの父親を目で追っていると、アマノの父親はどうやら森の方向へ向かっていた。僕はすぐさまアマノに知らせた。
しかしアマノは「良いじゃないか、噂が本当かどうか、あいつに確かめてもらえば」と言って笑っているだけだった。
アマノの父親はそれから三日経っても帰ってくることはなかった。村の人々は捜索すべきか迷っているようだったが、他所者である人間にそこまでする義理はないと判断したらしく、森まで探しに行くことはなかった。村長が溜息をついて、村人たちに言った。
「皆はわかっているとは思うが、これが森に入るということだ。皆は絶対に森に入らないように。必ず死んでしまうんだからね、あそこに入ったものは」
悪態をつき、笑っていたアマノだったが、それなりにショックを受けたのか、口数が少なくなり、あまり外に出てこなくなってしまった。僕とカネタは二人で遊ぶようになったが、どこか虚しく、アマノが教えてくれた数々の遊びもアマノがいたから面白いものだったのだと思い知らされた。きっとカネタも同じことを考えていたことだろう。徐々にカネタと一緒に遊ぶ時間も減り、僕らは家で過ごす時間が増えていった。
それからしばらくして、僕が家で時間を持て余していたある日の夜に、アマノが僕の部屋の窓を叩いた。眠っているおじさんやおばさんに気づかれない程度の小さい音で、小さく二回、コツコツと。
「おい、トキノ」
アマノが頭を下げて真剣な様子で言った。
「頼む、助けてくれ」
アマノの表情はその時見えなかったが、少し声が震えているように感じた。
「オレは親父が怖い。今は何か理由があって居なくなっただけで、いつか何食わぬ顔で家に帰ってくるかもしれない。それで、また母ちゃんやオレはあいつに殴られるんだって思うと夜も眠れない。母ちゃんはなぜか安心しきっているけど、たぶん母ちゃんは、頭がおかしくなっている。急に笑い出しり泣き出したりして、目もおかしい。どこを見ているかも分からないんだ。多分ずっと前から正気じゃなかったんだ。オレは母ちゃんと違って、親父が死んだって証拠がない限り安心できない。このままだとオレはあいつの影に怯えながら一生を過ごさなくてはならない。そんなの嫌だ。もし森の中であいつが死んでいるとしたら、この目で死体を見ておきたい。だけど、正直怖いんだ。あのおっかない親父を魔女ってやつが本当に殺したとしたら、そいつは親父よりも恐ろしい化物だ。そんなやつが居る所に一人で行くのは怖いんだ。オレが頼れるのはトキノとカネタだけだ。お願いだ…」
何かに取り憑かれたように、アマノは息継ぎをする間もなく喋った。きっと、ずっと自分の中に気持ちを留めて込んでいたのだろう。
アマノの家族にどんな秘密があるのか僕には見当もつかなかったが、僕はこの村で育った人間だから、アマノとは違う。森への恐怖心があった。出来ることなら森の入口にすら行きたくなかった。好奇心のような一時的な感情で、自分の人生を終わらせてしまうようなことはしたくない。もしかしたら噂通り、死んでしまうかもしれない。
しかし、僕はアマノがいなければいじめられて、あのとき死んでいたかもしれない。死ぬことよりも彼が僕のことを頼ってきた気持ちを絶対に裏切りたくはなかった。
僕は着替えておじさんやおばさんに気付かれないように家を出た。アマノと一緒にカネタの家に行き、同じようにカネタを誘って森へ向かうことになった。夜も空けた早朝に、僕らはアマノの父親の死体を探すために、森の入口に足を踏み入れた。
森には薄く霧がかかっていた。木々の葉の隙間から溢れる陽の光は少なく、まだ夜中なんじゃないかという錯覚に陥る。森は恐ろしい場所であると教えられて育ったからか、想像以上に不気味な場所であると感じられた。少しの物音にも僕らは反応してびくつきながら、振り返ったり立ち止まったりした。アマノは僕とカネタと比べると、恐怖心は少ないようで、真っ直ぐ前を見つめてどんどん森の奥に向かって進んでいった。
「親父は昔はあんな風じゃなかったんだ」と独り言のようにアマノが言った。
「母ちゃんが親父以外の男と会っているところを見てしまったらしい。どういう訳か二人は別れなかったらしいけど、それから親父は酒ばっか飲むようになって、その勢いで殴ったり蹴ったりしてくる最低な人間になった。親父にいつも、お前にどれだけ尽くしてきたのか分かっているのか、お前が俺にどんな仕打ちをしたのか、お前は俺に何を与えることが出来るんだって叫んで暴れるようになっちまった。まだ小さかったオレは親父が何が言いたくて何を伝えたいのかさっぱり理解出来なかったし、ただおっかなかった。母ちゃんはあいつが死んだって思い込んでいるけど、オレはやっぱりこの森より、本当にいるか分からない魔女より、親父の方が怖い。本当に死んだのか、この目で確かめないと…」
僕もカネタもアマノに何と言って声をかければ良いのかわからなかった。僕は少し自分とアマノが似ているのではないかと思った。彼は大人たちが言う「十分な愛情」というものを受けてはいないのかもしれない。
「僕はお父さんとお母さんがいないんだ」
僕はアマノに何と言うべきかは分からなかった。僕と彼の境遇が少しでも似ていれば、彼にとって慰めになるとか、そんな風に思ったわけでも、自分の境遇を理解してほしいとか、そういう風に思ったわけでもなかった。ただ思いついたことを、口にしたのだった。
「いま僕を育ててくれるおじさんは、僕の本当のお父さんと遠い親戚なんだ。僕のお父さんとお母さんが事故で死んでしまって僕を引き取ってくれた。何か不自由があるわけじゃないし、意地悪されることももちろんないんだけど、時々寂しくなることがあるんだ。本当のお父さんとお母さんが生きていたら、僕は暖かい家庭で家にいるのが楽しいって思えるんじゃないかなって」
「トキノも家が嫌いか」
「うん。嫌いって言わないように、思わないようにしているけど…やっぱり、嫌いなんだと思う。アマノがはっきりとお父さんのことが嫌いだって言うのを見て、少し自分の気持ちに素直になれた気がする」
「そっか」
僕たちの会話に取り残されたカネタは、悔しかったのか今度は自分の親の話を始めた。彼の親はとてもカネタのことを真面目に育てようとして、彼を叱るそうだった。勉強をしろ、将来に役にたたないことはするな、未来を考えろ、友人を選べ。きっと、カネタの親は僕たちのことを指して友人を選べと彼を叱ったのだろう。僕たちはそれに気付いていた。気付いていたけれど、カネタの話を聞いて笑っていた。そうるすことが一番だと思っていたからだ。
しばらく歩くと、ひっそりと佇む小さな家を見つけた。
「魔女の家だ」
誰かが最初に口に出したが、思っていることはみんな同じだった。本当に魔女が存在しているのかもしれないと、僕らは動揺しながらも興奮気味だった。たとえ魔女がこの家に居なかったとしても、村の人間が誰も近づかない森の中で暮らしている人間が居るのだとしたら、怪しい人物が存在している可能性は高い。僕らは水分を失ったカラカラの喉の奥から無理やり声を掻き出し、引き返すべきかと咄嗟に声を投げ合った。しかし僕らの乾いた言葉をかき消すように、「誰かいるの」と女の声が背後から聞こえてきた。
僕らは心臓が口から飛び出しそうになったが、ゆっくりと恐る恐る振り返った。振り返るとそこには一人の女の人が立っていた。固まって立ちすくんでいる僕らの方に向かって、その女の人が歩き出した。歩きながらその女の人は、「子供…三人も」と驚いた様子で呟いた。
そのときだった。何かたくさんの映像が僕の頭の中を駆け抜けた。今よりもっと小さいころの記憶。森の中でこの人に会った。森の中で迷って僕を助けてくれた人。いや、それだけじゃない。知らない映像も凄いスピードで頭の中を通り抜ける。
海が見える風景。
桟橋につながれた船。
高いところからたくさんの家を見下ろす風景。
並ぶ小さな石の家。
なんの映像だろうか。理解できないけど…僕はこの人のことをずっと昔から知っている。僕の幼いころの記憶が反応しただけだろうか。いや、これはもっと違う何かだ。僕には関係ない何かが、この女の人を見たことで勝手に流れ込んできたようだった。
汗が背中を伝い、ゆっくりと腰まで流れていく。僕らは無言で女の人を見つめた。女の人も僕らをじっと見ている。僕らの目の前まで歩いてきたその女の人は、白金の長い髪をした黒い服を着ている。他の二人を見てみると、二人もやはりこの女の人を見つめて固まっている。逃げ出そうと考えることもできていないだろう。
「迷子なの?」
女の人は僕たちを心配するように聞いてきた。
「お、親父を探しているんだ」
少し震えた声でアマノが言った。女の人は首を傾げて言う。
「お父さん?」
「そう、スキタって名字」
「ああ…」
女の人の返事は心当たりがあるらしかった。振り返って自分の来た道を確認した後に、こちらに向き直して僕らの顔を見る。
「あなたたち、この森は危険だって大人たちに聞かなかったの?」
「聞いてる。でも親父が生きているかどうか、どうしても知りたかったんだ」
声を震わせながらも勇敢に自分の意志を伝えようとするアマノに対して、女の人は困ったように眉を顰めた。
「とりあえずこの森は危険が潜んでいるから、私の家に入りましょう」
僕らは三人ぴったりとくっつき、女の人の後ろをついていった。招かれた家の中は、耳が聞こえなくなったかと錯覚するほど静かで、人の温もりが、誰かが生活している雰囲気すら感じられなかった。ひっそりと佇む小さな家は、何十年も誰も住んでいない家のようだった。
「森には悪い生き物が沢山いるけど、会わなかったの?」と女の人は言った。
温かいミルクを女の人が出してくれたが、僕らは落ち着けず、誰一人として口を付けようとしなかった。
「毒なんて入ってないわよ」と女の人は笑った。
「外に悪い生き物が居るっていうのは…?」
質問したのはカネタだった。
「犬とか狼に似ているけど、人間に危害を加えるの。普段はそこまで危険ではないのだけれど、時々とても凶暴になるわ」
「本当に?」
カネタが聞いた。女の人は微笑み、ゆっくりとうなずき、窓の外に目をやった。
「ほら、あそこに」
窓の外を見ると、確かに犬のような狼にも見える生き物が歩いていた。だがよく見るとそれは、一目で普通の生き物ではないと分かる造形をしていた。まるで影そのもののような、真っ黒な獣の形をした何かであり、生気は感じられず、紙か何かで誰かが創作した物体にも見えた。二つの双眸らしきモノだけが赤く光ってこちらに向いている。
「私を守ることが役目なの」
「なぜ?」
「私に危害を与える人間を近づけないため」
カネタの質問に女の人はどう返答すべきか悩んだ様子で、苦笑いを浮かべる。
「ここに閉じ込められているの?」
カネタは普段の彼からすると考えられないほど積極的に女の人に質問をした。この人の生活に興味があるようだった。女の人はカネタの質問に対して、また苦笑いのような微笑みを浮かべ、質問に答えようとしなかった。
「あの生き物が、お姉さんを閉じ込めているの?」
「彼らは私に絶対に手を出さないわ」
「だったらこんな淋しい所に居ないで、村で暮らせばいいのに」
「私はね、森からは出られないの。閉じ込められていると言うのなら、この森全体に閉じ込められているのよ」
「あなたが魔女なの?」
今度は僕が質問した。女の人は意外そうに僕の方を見て、僕の顔をじっと見つめた。僕の中にある何かを感じ取ろうとしているかのようだったが、それを打ち消すかのように、すぐに微笑みを浮かべた。
「そう、村では魔女って呼ばれているみたいね。ずっと昔から」
やはり、この女の人が魔女だったのだ。状況的にそうとしか思えないが、本人の口から言われ、やはり存在していたのだと改めてびっくりした。
「どれくらい昔?」
僕が質問しようとしたことをカネタが横取りするように言った。少し前のめりになって魔女の視界の中に入ろうとしていた。
「さぁ、もうどれくらい昔か…とにかく、ずっと昔かな」
「嘘でしょう。なんでそんなに若いの?」
「魔女だからなんでしょうね」
カネタは魔女が言ってることが事実かどうかということは、どちらでも良いようだった。僕は信じなかったし、アマノは何を考えているのか黙ったままだった。
だが、アマノは決意したかのように息を吐き出すと「それより」と口を開いた。
「親父はどこにいるんだ。あんたは何かを知っているみたいだけど、教えてくれ。どこにいるんだ」
「スキタさんは…死んだわ」
僕とカネタが目を合わせる。僕もカネタも森の中に入った人間は魔女に殺されるという噂は本当だったのだと驚愕し、動揺を隠せない。しかし、アマノは違う。
「死体はどこにある? 本当なら死体がみたい」
アマノは魔女に事情を伝えた。魔女は何も言わずにアマノの言葉を聞いた。アマノの真剣さに答えるみたいに、話す彼の目をじっと見つめている。アマノが話し終えると魔女は立ち上がった。
「スキタさんは森にいる。死んだまま森をさ迷っているわ。とても危険だけども、貴方がどうしても見たいと言うなら、行きましょう。連れてってあげる」
魔女を先頭にして森の中を歩いた。女は決して離れないようにと何度も念を押した。既に日が昇っている時間であるにも関わらず、森は暗い。
低い唸り声が聞こえた。カネタが恐怖のあまり声を出す。僕も心臓が飛び出しそうなくらい怖かった。アマノは平気なのか、ずっと前を睨み付けるような顔をしている。
「さっき一緒に見たあの化物の声よ。私がいるから、襲いかかってこないかもしれないけど、十分に注意して」
どれくらい歩いただろうか。魔女が足を止めた。何かを見つけたらしい。魔女の視線がある方向に僕らは目を向けた。あの影の塊でできた狼のような化物がいる。低い唸り声はまるで憎しみを吐き出すようだ。
最初、やつは魔女を見たが、すぐに後ろにいる僕らに気付いた。僕らを見ると酷く興奮し、今にも飛びかかってきそうだった。
「下がって」
魔女は動けない僕らを後方に押しやった。獣の咆哮。僕は立っているのが精一杯だったし、カネタはとっくに腰が抜けていた。アマノは真剣に獣の様子を伺う。
「あれは…」
アマノは呟いたあと、確信したように言った。
「あれは親父だ。親父だ!」
獣が駆け出した。僕らの方に一直線に向かってくる。逃げなくては。しかし、僕は一歩も動けなかった。動こうとしたら、カネタのように腰が抜けてしまうだろう。アマノもそうなのか、顔中を汗まみれにして一歩も動かなかった。
魔女は落ち着いた様子で、向かってくる獣に向かって手の平を向けた。
魔女が何かをつぶやいた。外国語だろうか。聞いたことのない言葉だ。獣が飛びかかってきた。もうダメだ、と思った瞬間、魔女の手の平が光った。すると獣はその光に弾かれたように、後ろに吹き飛んだ。突然あらわれた壁にでも衝突したかのようだった。
獣は動かない。魔女は獣に近づくと、動かなくなったそれに、手を添えた。影のようなもので形成された獣の体が膨れ上がった。ちょうど腹と思われる部分だ。その膨らみは大人の頭一つ分の大きさまで膨張して、何かを形成しようと蠢いた。大人の頭一つ分の大きさ…というよりも、それは一人の大人の頭に変化したのだった。目も鼻も口も、しっかりと顔が浮かび上がっている。
「やっぱり、親父だ…」とアマノが呟く。
アマノが言う通りだった。僕も見たことあるアマノのお父さんの顔が獣の腹から風船のように膨れ上がっている。
魔女が僕らを諭すような声色で言った。
「この森で死んだ人間はあれに変わってしまうの。そして、永遠にこの森をさ迷って、私に危害を与えようとするものに襲いかかるの」
「何のために?」
僕の震えながらの質問に魔女が苦笑の表情で答える。
「私を守るため」
「親父はなんで死んだんだ。なんであんな化物になったんだ?」
アマノの声が震えているのが分かった。今にも泣き出しそうなのかもしれない。行き場のない怒りや苦しさが僕にも伝わってきた。
「…それは」
魔女は言葉につまる。魔女は僕たちの質問に対して答えにくそうな表情を何度も見せていたが、アマノのこの質問は何よりも答えにくそうな表情を見せた。
「この森は呪われているのよ。だから入ってはならないと大人たちに言われているでしょう?」
「呪いってなんなんだ」
「呪いは呪いよ」
食い下がるアマノを魔女は冷たく突き放す。
魔女は何かを隠している。森にはどんな謎があるのか。アマノも納得した様子もない。カネタも魔女の顔色を伺っていた。魔女は取り繕うように微笑んで言った。
「さぁ、満足でしょう。村に帰りなさい」
魔女は僕らを森の出口まで案内した。あの獣をどうやって倒したのかと聞くと魔女はこう答えた。
「魔法よ。魔女なんだから魔法が使えてもおかしくないでしょう?」
からかうような微笑みを浮かべる彼女は僕の質問に真剣に答えるつもりはないようだった。
「俺たちでもあいつを倒せるのか?」とアマノが質問した。
「一時的に動けなくすることならできると思うわよ。でも、あれは形のないものだから、完全に壊すことはできない。呪いによってこの地に縛り付けられた魂なの。でも危ないから戦おうだなんて思わないでね」
「あの化け物は森に入る人間すべてを襲うの?」
僕の質問に魔女は首を横に振った。
「悪意を持った人間に対しては襲い掛かる。たぶん、さっきあの獣が襲い掛かってきたのは、彼の気持ちを感知したのでしょうね」
魔女はアマノの方を見た。そして付け加えるようにして言った。
「あとは私を殺そうと考える人間が森に入ったりしたら、かなり凶暴化するわ」
僕らが森に入るときに襲われなかったのは、彼女に対する悪意がなかったからなのだろうか。
アマノはずっと浮かない顔をしている。
「お父さんは蘇ったりしないわ」
アマノの心情を読み取ったように魔女が言った。なんの感情も込められていない平坦な声色だった。
「死んだまま、この森をさ迷い続けるだけ。もう貴方や貴方のお母さんを殴ったりはしない。この森に入らない限りね」
「俺は…できることなら、あいつにはもっと苦しんで死んで欲しかった」
アマノが呟く。魔女はアマノの頭に優しく手を置いた。
「私は死んだことがないから分からないけど、死ぬことも許されず、この森に縛られ続けるのはとても苦しいことよ。きっと、長い時間、後悔し続けるし、普通に死ぬよりも苦しむことになるでしょう」
アマノは僅かに頷いた。うまく自分の中で納得させることが難しいらしい。
魔女がそっとアマノの頭から離したその白い手をカネタが見つめていることに僕は気付いていた。子供ながら、カネタの中に何らかの感情があったのは確かだ。
そうして僕らは村に帰った。魔女は僕らが村の方に歩いていくのを見送っていたが、いつの間にか森の中に溶け込むかのように消えていた。
僕たちが思っていた以上に、森に入ってから時間は過ぎておらず、僕らは何事もなかったかのように家に帰ることができた。あとで聞いた話によると、アマノもカネタも家を抜け出したことは誰にもバレなかったそうだ。