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僕の住む村の奥には大きな森がある。
森には一人の魔女が住んでいる。
その魔女がどれくらい昔から森に住んでいるのかは誰も知らないそうだ。
いつだったか村長が「百年よりも昔だ」と言っていたので驚いたこともがあった。僕には百年より昔というのが、どれだけ昔なのか想像できなかったし、村長が子供の頃からその魔女がいたということだけでも驚いた。
村の子供たちは大人たちから森に近づいてはいけないと、教えられて成長する。特に男は村には近づくな、と強く言われていた。森に入ってしまうと命はない、と。
この村の村長を務める人間は代々、森の恐ろしさを伝える使命があるらしく、この村で生まれた子供達は年に一度、村長の家で呪われた森がどれだけ恐ろしいものかを聞かされる。
今の村長は六十歳くらいのお婆ちゃんだが、凄く力持ちで背も高い。その村長が森について語るときは、本当に恐ろしそうに話すから、子供たちは毎年震え上がり、森の恐ろしさをしっかりと理解する。
「森には恐ろしい魔女と魔物が住んでいるんだ。魔物は恐ろしい牙をも持っていて、森の中に入ったものを食べてしまう。何匹もいるから、森に迷ったりするともうおしまいさ。運良く魔物に会わずに森の奥に入っても、そこには魔女がいる。やつと目が合うと死んでしまう。どんなに力強い男でもね。だから森には近づいてはいけない。本当に恐ろしいところだからね」
毎年のようにこの話はされるため、村の人たちは誰もが「森は恐ろしい場所である」と認識しているのだ。
だが、話を聞かされているから、森の中に入らないというわけではない。実際に森に入った人間が、年に何人か死ぬのだ。それは村の人間だったり、村の外からたまたま訪れていた人間だったりする。ダメだと言われると、やってみたくなるのが人間だから…というわけではない。まるで、森が呼ばれたかのように、人は森の中へ入ってしい、それきり行方不明になってしまうのだ。
まれに帰ってくる男もいるが、それから数日後に原因不明の病で死んでしまう。森に住む魔女はとても恐れられる存在だった。僕も森が恐かった。
僕は昔、森の中に入ってしまったことがあった。そして、魔女に会った。その時は、その女の人が魔女だなんて思いもしなかったけど。
誰だったか忘れてしまったが、村の意地悪な男の子にイタズラをされて、僕が大事にしていたおもちゃを森の中に捨てられてしまったのだ。そのおもちゃは紙でできていたから、風に飛ばされて森の奥へと飛ばされてしまった。
僕はおもちゃを探して、やはり森の奥へと進んでいってしまったのだ。そして、少し地面が高くなっている場所から足を踏み外して、転んでしまった。気を失ったのだろう、気づけば夕暮れの時間だった。
目が覚めた時の感覚を今でも忘れられない。最初は僕のお母さんが迎えに来てくれたのかと思った。でも、もっと眩しい何かで、神様が僕を見下ろしているのだと思った。僕を本当のお父さんとお母さんのところに連れて行ってくれる神様ではないか、と。
「大丈夫?」
そう声をかけてきた女の人は、本当に神様みたいに綺麗だった。あの眩しさは神様の力ではなくて、夕日の光が森の中に差し込んでいたからだったのだろう。 でも、その時の僕は人間では再現できない力が働いているように感じた。
僕は心配そうに見つめている女の人に頷いてみせた。彼女は微笑んで「よかった」と言った。僕はその人の存在に圧倒されて何も考えられなかった。
本当に綺麗な人だった。白金色の長い髪の毛。緑色の瞳。こんな色の髪の毛や瞳を持つ人間がいるなんて知らなかった。
村にはこんなに綺麗な人はいない。いや、どこを探してもきっといないだろう。
だから、そのときは、この人がどんな人間でも殺してしまう魔女だと思いもしなかった。魔女と言えば黒いローブを着ていて、得体の知れない液体をかき混ぜている鷲鼻のお婆ちゃんのことだ。だから、こんな綺麗な人が魔女という存在と結びつくこともなかったのだ。
「家に帰れる?」
彼女に聞かれ辺りを見回したが、ここが森の中だということしか分からなかった。
「あっちが村よ。村まで戻れれば帰れるわよね?」
彼女が指差した方向を見て僕は頷く。僕は立ち上がってそちらへ向かおうとした。だが、森は危険なのではないかと思い当たる。彼女は一人で平気だろうか。
「お姉さんは、おうちに帰らないの?」
そう聞くと彼女は優しく微笑んで答えた。
「私は大丈夫」
「森は危ないって聞いたよ。一緒に村に帰ろうよ」
「村には行くことができないの。心配してくれるの?」
大人にからかわれているということは分かっていたが、僕は得意げに頷いた。
「僕と一緒に森から出よう。ここは危ないよ」
「ありがとう。でもいいの。私はここにいるから」
「どうして?」
「私は森から出れないの」
「どうして?」
重ねて質問され、彼女は困ったように、くすぐったそうに微笑む。
「ここを出たら私は怒られてしまうから」
「誰に?」
彼女は無言で首を横に振った。僕は子供ながら彼女の力になりたいと思った。
「僕が助けてあげるよ。お姉さんが怒られないように、その人に一緒に謝ってあげる」
「ありがとう。嬉しいけど…」
「行かないの?」
「君が大人になって強くなったら、お願いしようかな。それまで待ってるわ」
そう言う彼女の顔がやはり寂しそうだったため、僕は納得できなかったが、彼女が「暗くなってしまうから早く帰りなさい」と言うので、仕方なく村の方へ進んだ。ちょっと歩いてすぐに振り向いたが、彼女は既にいなくなっていた。もしかしたら、幻覚だったかもしれない。本当に神様とか天使だとか、そういう特別な存在だったのかもしれない。
それから、森に入ることはなかった。僕は少しずつ大きくなり、この時の記憶は薄れて行った。
だから、僕は彼女と再会することになるなんて、この時は思いもしなかった。