表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
末裔のゼノグラフト  作者: 十八 弥七
第2章 海路
9/112

7. 変容

 清潔なベッドの上の、穏やかな時間。

 ベッドサイドではひそひそと話す声が聞こえる。

 僕はうとうとと微睡んでいた。

 浅い、浅い眠り。

 覚醒と睡眠の差は小さく、注入される睡眠薬が作り出す昼と夜のリズムに、身をゆだねている。

 室内のアルコール消毒液のにおいが鼻をつく。

 僕は突然、息苦しくなった。

 喉の奥に、痰が詰まっているようだ。

 いくら咳をして外に出そうとしても、うまく出来ない。

 苦しい。誰か、助けて。

 声は弱々しく、舌は回らず、ちゃんと発声することはついに出来なかった。

 病院ならば、ナースコールがあるはずだ。

 僕はそれを探そうとした。

 しかし、僕の手は奇妙に変形しており、力を入れれば入れるほど、あらぬ方向に曲がるだけである。

 この手の形。

 僕のものではない、誰かの、色白の弱々しい手。

 でも、どこかで、見たことがあったような。

 苦しみにもがきつづけるが、無駄な抵抗なのである。

 しばらくして、枕元の機械から警報が鳴り響き、ようやく、数名の白衣の人々が駆けつけてくる。

 喉に細い管が差し込まれる。

 苦しい。早く、楽にして……

 目の前が暗くなっていく。



 ……痰に溺れる夢を見て、僕は目を覚ました。

 最悪の目覚めだ。そして、妙に生々しい夢だった。

 どのくらい、眠っていたのだろう。

 ようやく目を覚ましたとき、まだ、現実感が全くなかった。

 全身に力が入らない。

 薄汚れた、元は白かったらしい天井には、裸電球がともり、光を投げかけていた。

 ベッドから起き上がろうとして、体を傾ける。

 全力を振り絞って――そうしなければ、体が動かないのだ――僕は寝返りを打とうとした。

 僕の三半規管は回転運動を感知し、同時に、体が落下していく感覚は全身で感じ取れた。


 どっ、と鈍い音を立てて、僕は、思い切りベッドから落ちていた。

 動けない。足腰が立たないのだ。

 体は、全身に鉛の対放射線スーツを着けたときのように重く、手は、唖鈴(ダンベル)を持ち上げ続けた後のように、言うことを聞かなかった。


 物音を聞きつけてか、中を監視していたのか。

 とにかく、数分後に護衛らしき男を2人連れた、軍服の白人男性が入ってきた。

 神経質そうな細淵の眼鏡、肌は日焼けして赤みがかり、深い皺が顔面の至る所に刻まれている。

 地面に無様に這いつくばる僕の姿を、まるで汚物を見るかのような瞳で一瞥すると、部下に命じて僕をベッドに持ち上げさせた。

 後から白人女性も入ってくる。

 こちらは軽装で、柔らかな雰囲気を持った女性だった。

 軍帽のつばの中心を、正確に額の正中に合わせたまま、男は隣の女性に何か告げた。

 隣の女性は『連邦(ソユーズ)』の言葉で話しかけてきた。


「始めまして、私はアナスタシア。通訳をします。私の言葉は分かりますか?」

「はい」


 僕は、単純に肯定した。

 自分でも驚くほど、弱々しく、か細い声だった。


「結構。こちらは『自由主義同盟フリーダム・アライアンス』のダン・ベンジャミン少佐です。あなたに、よろしくと言っています」


 少佐は軽く会釈した。

 僕も、動かない体で何とか会釈を返す。

 そう見えたかどうかは怪しかったが。


「あなたの名前、年齢、所属を教えてもらえますか」

「名乗らなければならない理由を教えてください」


 自分の声に、わずかな違和感を覚えつつ、僕は直ぐに答えなかった。

 そう、教えられていたからだ。


 腐った資本主義の豚どもに、心を許すな。

 資本主義は悪魔だ。心を腐らせる、悪魔の誘惑に、気をつけろ。

 そんな標語は、子供の頃から繰り返し唱えさせられていた。

 本当の意味でそれを信じていたわけではないが、僕はそういう性格を演じていた。

 まだ、いつもの癖があったのかもしれない。


 アナスタシアと名乗った女性は、隣の大尉になにやら告げる。

 少佐は不機嫌そうに一言、二言返しただけだった。

 僕はそれが「早く聞き出せ」という意味に聞こえたのだが、通訳の言葉はまるで違っていた。


「まずは、あなたのことを知りたいからです。良ければ、お友達とは言いませんが、せめて敵対的ではない関係になれればと思います。そのためには、お互いを知ることが必要だと思いませんか?」


 明らかに、試されている。

 ここでの返答が、僕の処遇を決めるのだろう。


「名前は関雅也。17歳。西暦2034年8月9日生まれ。地球連邦(ゼムリヤ・ソユーズ)軍所属です」


 それだけ言って、僕は、息が整わなくなっているのを感じた。

 何故だろう。

 漠然とした違和感があったが、体の疲労がその上に覆い被さり、詳しい探求を妨げていた。

 アナスタシアと名乗った女性は、再び、隣の軍服に小声で何かを囁く。

 この女性の囁きは、聞き取れなかった。

 軍服の男性は、早口で何かまくし立てる。

 名前について、何か言っているようだった。


「ありがとうございます。雅也さん。ちなみに、一つお伺いします。あなたの性別を教えて頂けますか?」


 わかりきったことを聞くものだ、と僕は思った。

 僕は逡巡無く、即答した。

 目の前の女性は、曖昧な表情で、隣の男に囁く。

 返答は無く、ただかぶりを振るだけだった。

 女性は続けた。


「ありがとうございます。あなたは現在の状況がお分かりですか。なぜ、自分がここにいるのか。少しでもいいので、わかる範囲で説明できますか」

「……状況、ですか?」


 雪山(カムチャツカ)で巨大な獣を斬り捨てた。そこまでは覚えていた。

 そこから先、僕の記憶はぷっつりと、糸が切れたように途切れている。

 真冬は――あの機体(スミェールチ)は、どうなったのだろう?

 彼らから、どれだけ状況を引き出せるか。

 嘘は付かないように、しかし、重要な事実は伏せ、僕は言葉を選んだ。


「正直なところ、見当がつきません。ここは、僕の知っている場所では無いと思います。ここはどこですか」


 アナスタシアはまた何事か囁く。

 軍服の男性は少し苛立っているようだった。


「ここは『自由主義同盟フリーダム・アライアンス』所属の軍艦の中です。何か、思い出しませんか?」

「……いいえ。何故、ここにいるのかは、わかりません」


 囁き。

 向こうも、こちらの腹を探っている。

 思いのほか、その先の展開はなかった。


「いいでしょう。雅也さん。一旦、これでお話はおしまいです。また、機会を改めて、お話しましょう。今日は酷くお疲れのようですから。少し、お休みになるのが良いでしょう」


 軍服の男は大股に去っていった。

 護衛らしき男たちは、それに続く。

 去り際、アナスタシアと名乗った女性は、振り返りながら、外部との接触は制限されるが、室内のものは自由に使って良いこと、また、話したいことがあれば、内線で彼女を呼び出せることを言い残していった。


 厳重に扉が施錠されると、独房には僕一人になった。


 僕は先ほどの轍を踏まぬよう、慎重にベッドの脇の文机に掴まりながら、点滴棒を支えにして歩き始めた。

 それにしても、あまりにも体が重い。

 これまで最も酷かったインフルエンザよりも、何倍か酷い脱力感だ。

 僕はふらつきながら、粗末な洗面台を目指した。

 前を向きながら歩くのに必死で、周りを見る余裕はなかった。

 まして、自分の体などを見る余裕は、全くなかった。

 僅か数歩の距離を支えきれず、僕は前のめりに倒れ込んだ。

 痛い。転ぶのってこんなに痛かっただろうか。

 地面を這いながら、冷たく、薄汚れた独房内の床を進んだ。

 錆と黴の臭いが鼻を突く。

 絶望的に思えた、成人男性の歩幅にして数歩の距離を、数分間かけて漸く進んだ。

 洗面台の下のパイプを掴み、渾身の力を込めて這い上がる。


 ベージュ色の洗面台と、すすけた壁にもたれ掛かり、ようやく、立位と呼べる姿勢となった。

 洗面台の小さな鏡に映る体は、明らかな不自然さがあった。

 首筋は少しの衝撃で折れそうなくらいに細く、肌は不健康なほど白く、

 肩は撫で肩で、何より、とても痩せていた。


 違和感の正体を確かめるため、体をよじり、鏡を覗き込む。

 その中の姿を見て、僕は、あっ、と驚きの声を上げた。

 17年間、加齢による変化があっても、当たり前だが、僕の顔はずっと、基本的には、僕の顔のままだ。

 だが、鏡の向こう側から僕を見据える顔は、どう見ても、僕のものではなかった。


 明らかに女性的な、その顔。

 僕は、その顔には見覚えがあった。

 そこには、母の面影もあり、どこか懐かしくて……


 左の瞳が真っ赤に染まり、髪の毛も一部、白髪になっていることを除けば、僕の顔は、僕の妹――真冬のものと、正確に瓜二つになっていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ