7. 変容
清潔なベッドの上の、穏やかな時間。
ベッドサイドではひそひそと話す声が聞こえる。
僕はうとうとと微睡んでいた。
浅い、浅い眠り。
覚醒と睡眠の差は小さく、注入される睡眠薬が作り出す昼と夜のリズムに、身をゆだねている。
室内のアルコール消毒液のにおいが鼻をつく。
僕は突然、息苦しくなった。
喉の奥に、痰が詰まっているようだ。
いくら咳をして外に出そうとしても、うまく出来ない。
苦しい。誰か、助けて。
声は弱々しく、舌は回らず、ちゃんと発声することはついに出来なかった。
病院ならば、ナースコールがあるはずだ。
僕はそれを探そうとした。
しかし、僕の手は奇妙に変形しており、力を入れれば入れるほど、あらぬ方向に曲がるだけである。
この手の形。
僕のものではない、誰かの、色白の弱々しい手。
でも、どこかで、見たことがあったような。
苦しみにもがきつづけるが、無駄な抵抗なのである。
しばらくして、枕元の機械から警報が鳴り響き、ようやく、数名の白衣の人々が駆けつけてくる。
喉に細い管が差し込まれる。
苦しい。早く、楽にして……
目の前が暗くなっていく。
……痰に溺れる夢を見て、僕は目を覚ました。
最悪の目覚めだ。そして、妙に生々しい夢だった。
どのくらい、眠っていたのだろう。
ようやく目を覚ましたとき、まだ、現実感が全くなかった。
全身に力が入らない。
薄汚れた、元は白かったらしい天井には、裸電球がともり、光を投げかけていた。
ベッドから起き上がろうとして、体を傾ける。
全力を振り絞って――そうしなければ、体が動かないのだ――僕は寝返りを打とうとした。
僕の三半規管は回転運動を感知し、同時に、体が落下していく感覚は全身で感じ取れた。
どっ、と鈍い音を立てて、僕は、思い切りベッドから落ちていた。
動けない。足腰が立たないのだ。
体は、全身に鉛の対放射線スーツを着けたときのように重く、手は、唖鈴を持ち上げ続けた後のように、言うことを聞かなかった。
物音を聞きつけてか、中を監視していたのか。
とにかく、数分後に護衛らしき男を2人連れた、軍服の白人男性が入ってきた。
神経質そうな細淵の眼鏡、肌は日焼けして赤みがかり、深い皺が顔面の至る所に刻まれている。
地面に無様に這いつくばる僕の姿を、まるで汚物を見るかのような瞳で一瞥すると、部下に命じて僕をベッドに持ち上げさせた。
後から白人女性も入ってくる。
こちらは軽装で、柔らかな雰囲気を持った女性だった。
軍帽のつばの中心を、正確に額の正中に合わせたまま、男は隣の女性に何か告げた。
隣の女性は『連邦』の言葉で話しかけてきた。
「始めまして、私はアナスタシア。通訳をします。私の言葉は分かりますか?」
「はい」
僕は、単純に肯定した。
自分でも驚くほど、弱々しく、か細い声だった。
「結構。こちらは『自由主義同盟』のダン・ベンジャミン少佐です。あなたに、よろしくと言っています」
少佐は軽く会釈した。
僕も、動かない体で何とか会釈を返す。
そう見えたかどうかは怪しかったが。
「あなたの名前、年齢、所属を教えてもらえますか」
「名乗らなければならない理由を教えてください」
自分の声に、わずかな違和感を覚えつつ、僕は直ぐに答えなかった。
そう、教えられていたからだ。
腐った資本主義の豚どもに、心を許すな。
資本主義は悪魔だ。心を腐らせる、悪魔の誘惑に、気をつけろ。
そんな標語は、子供の頃から繰り返し唱えさせられていた。
本当の意味でそれを信じていたわけではないが、僕はそういう性格を演じていた。
まだ、いつもの癖があったのかもしれない。
アナスタシアと名乗った女性は、隣の大尉になにやら告げる。
少佐は不機嫌そうに一言、二言返しただけだった。
僕はそれが「早く聞き出せ」という意味に聞こえたのだが、通訳の言葉はまるで違っていた。
「まずは、あなたのことを知りたいからです。良ければ、お友達とは言いませんが、せめて敵対的ではない関係になれればと思います。そのためには、お互いを知ることが必要だと思いませんか?」
明らかに、試されている。
ここでの返答が、僕の処遇を決めるのだろう。
「名前は関雅也。17歳。西暦2034年8月9日生まれ。地球連邦軍所属です」
それだけ言って、僕は、息が整わなくなっているのを感じた。
何故だろう。
漠然とした違和感があったが、体の疲労がその上に覆い被さり、詳しい探求を妨げていた。
アナスタシアと名乗った女性は、再び、隣の軍服に小声で何かを囁く。
この女性の囁きは、聞き取れなかった。
軍服の男性は、早口で何かまくし立てる。
名前について、何か言っているようだった。
「ありがとうございます。雅也さん。ちなみに、一つお伺いします。あなたの性別を教えて頂けますか?」
わかりきったことを聞くものだ、と僕は思った。
僕は逡巡無く、即答した。
目の前の女性は、曖昧な表情で、隣の男に囁く。
返答は無く、ただかぶりを振るだけだった。
女性は続けた。
「ありがとうございます。あなたは現在の状況がお分かりですか。なぜ、自分がここにいるのか。少しでもいいので、わかる範囲で説明できますか」
「……状況、ですか?」
雪山で巨大な獣を斬り捨てた。そこまでは覚えていた。
そこから先、僕の記憶はぷっつりと、糸が切れたように途切れている。
真冬は――あの機体は、どうなったのだろう?
彼らから、どれだけ状況を引き出せるか。
嘘は付かないように、しかし、重要な事実は伏せ、僕は言葉を選んだ。
「正直なところ、見当がつきません。ここは、僕の知っている場所では無いと思います。ここはどこですか」
アナスタシアはまた何事か囁く。
軍服の男性は少し苛立っているようだった。
「ここは『自由主義同盟』所属の軍艦の中です。何か、思い出しませんか?」
「……いいえ。何故、ここにいるのかは、わかりません」
囁き。
向こうも、こちらの腹を探っている。
思いのほか、その先の展開はなかった。
「いいでしょう。雅也さん。一旦、これでお話はおしまいです。また、機会を改めて、お話しましょう。今日は酷くお疲れのようですから。少し、お休みになるのが良いでしょう」
軍服の男は大股に去っていった。
護衛らしき男たちは、それに続く。
去り際、アナスタシアと名乗った女性は、振り返りながら、外部との接触は制限されるが、室内のものは自由に使って良いこと、また、話したいことがあれば、内線で彼女を呼び出せることを言い残していった。
厳重に扉が施錠されると、独房には僕一人になった。
僕は先ほどの轍を踏まぬよう、慎重にベッドの脇の文机に掴まりながら、点滴棒を支えにして歩き始めた。
それにしても、あまりにも体が重い。
これまで最も酷かったインフルエンザよりも、何倍か酷い脱力感だ。
僕はふらつきながら、粗末な洗面台を目指した。
前を向きながら歩くのに必死で、周りを見る余裕はなかった。
まして、自分の体などを見る余裕は、全くなかった。
僅か数歩の距離を支えきれず、僕は前のめりに倒れ込んだ。
痛い。転ぶのってこんなに痛かっただろうか。
地面を這いながら、冷たく、薄汚れた独房内の床を進んだ。
錆と黴の臭いが鼻を突く。
絶望的に思えた、成人男性の歩幅にして数歩の距離を、数分間かけて漸く進んだ。
洗面台の下のパイプを掴み、渾身の力を込めて這い上がる。
ベージュ色の洗面台と、すすけた壁にもたれ掛かり、ようやく、立位と呼べる姿勢となった。
洗面台の小さな鏡に映る体は、明らかな不自然さがあった。
首筋は少しの衝撃で折れそうなくらいに細く、肌は不健康なほど白く、
肩は撫で肩で、何より、とても痩せていた。
違和感の正体を確かめるため、体をよじり、鏡を覗き込む。
その中の姿を見て、僕は、あっ、と驚きの声を上げた。
17年間、加齢による変化があっても、当たり前だが、僕の顔はずっと、基本的には、僕の顔のままだ。
だが、鏡の向こう側から僕を見据える顔は、どう見ても、僕のものではなかった。
明らかに女性的な、その顔。
僕は、その顔には見覚えがあった。
そこには、母の面影もあり、どこか懐かしくて……
左の瞳が真っ赤に染まり、髪の毛も一部、白髪になっていることを除けば、僕の顔は、僕の妹――真冬のものと、正確に瓜二つになっていた。