5. 大いなる獣
その怪物の睥睨に、鋼鉄の狩人はただただ立ちすくんだ。
機体が不調で動かない、と言うだけではなかった。
パワーマトリクスから漏れ出る橙の光は、まるで獣の目のように――もっとも、地球の獣で、目が6つあるやつは僕は知らないが――とにかく、一様に、僕を見据えていた。
緑の光は、既に爆炎の中に消えていた。
橙の閃光が放たれて、すぐのことだ。
圧倒的な獣の力の前に、人類はあまりにも無力だ。
この神々の領域において、目の前の獣は、聖書にある黙示録の獣のように、恐ろしく、しかし神々しくもあり、橙に輝いていた。
獣が咆哮する。
人間の文字には表せない、金切り声のような、しかし地響きのような、名状し難き咆哮であった。
遠くで火山が激しく噴火するのが見えた。
こいつが……地震を、溶岩を操っているのか?
途方もない力か、或いはただの偶然か。僕にそれを判断するだけの材料はなかった。
ゆっくりと、獣が近づいてくる。
動けない。
猛吹雪。
生臭い血のにおいが、鼻腔に広がる。
ああ、今日、見た夢……
これは夢と同じだ。
だが、これは現実だった。の、だと思う。
獣がその前脚を伸ばしてくる。
奴の足は、数えるだけで7本あった。
奇数本の肢を持つというのも、地球の生き物とは違うようだ。
六角形の鱗のような構造体に覆われた前脚には、恐るべき死の橙色の輝きが浮かび上がる。
このまま、貫かれれば、僕は逝くだろう。
それも良かった。
この恐怖が終わるのならば、命くらい、安いものだ。
しかし……僕は、約束していた。
ついさっきの、軽い口約束。
もう、最後まで守り通せそうにはない。
だが、だからこそせめて、最後まで抗ったのだ。
努力はしたのだ、と言いたかった。
この獣の力の前に、時を置かず、佐野も、島田隊長も、冥府へと向かうであろう。
こいつの爪をもぎ取れば、黄泉比良坂の先で、佐野の小言を聞かされるときの、反論の材料くらいにはなるだろうか?
僕は左手のマトリクスブレイドで横一閃に薙いだ。
満身創痍の片輪の狩人は、驚くべき力で、その設計値を遥かに超える出力を以て、巨怪なる獣の腕の先端、その爪を薙ぎ払った。
獣は再び咆哮する。今度は、明確な怒りの意思を込めて。
矮小なるものが、大いなるものに反逆した、その反骨への罰を与えるつもりなのだ。
彼の怒りは、異種族の僕にも明らかに伝わってきた。
頭部の瞳から、ほのかに漏れ出る光が赤みを帯びる。
次の瞬間、僕は恐るべき力で、地面に叩きつけられていた。
マトリクスによる慣性コントロールはもはや作動していないようだった。
手足はまったく動かない。
足の痛みもどこかに消えている。
頚椎をやったのかもしれなかった。
そんなことはどうでも良く。
ただひたすら、寒かった。
――ねえ……
誰の声だろう?
警報が遠く聞こえる。
HMDの画面はひび割れていた。
視界が、右側だけ、赤く染まる。額部からの出血が眼に入り込んでいるのか。
左目は全く見えなかった。
赤い背景の中、白く、うすぼんやりとした姿が、僕の目の前に現れた。
――ねえ。このままで良いの?
いたずらっぽい調子を含んだ口調で、声は呼びかけてくる。
誰……
声は出なかった。息も出来なかった。
何か、大事な胴体の部分が潰れていたのかもしれない。
だが、『彼女』には聞こえているようだった。
――誰? ひどいなあ……何度も、会いに来てくれたじゃない。さっきも、そう……もう、忘れたの?
真冬……先ほどの、ケージの中の。
死体。実験体。
処分された、不都合な個体。
認めたくなかった。
彼女は言葉をしゃべることはなかったのだ。
だが、僕は直感した。
いま、語りかけてきているのは。
……僕の……妹だ。
――はい、よく出来ました、お兄ちゃん……もう時間もなさそうだから、本題だけど。
視界が暗くなってくる。
いつしか、警報も聞こえなくなっていた。
ただ、地響きだけは、まだ感じていた。
――今の私なら、お兄ちゃんのお手伝いが出来る。その代わり。代わりにね……
僅かな逡巡の後、妹は切り出した。
――お兄ちゃんも、私の『お願い』、聞いてくれる?
忌わの際になって、決断を迫るとは…
我が妹ながら、なんともあくどいやり口だ。
僕は、『お願い』の内容も聞かず、首を縦に振った。
正確には振ろうとしたが、首は動かなかった。
『彼女』には、それで十分伝わったようだ。
死の暗闇を背景に、はっきりと、『彼女』の姿が見える。
『彼女』も、あの夢の骸骨と、同じほほえみを浮かべていた。
『彼女』の手が伸びる。
細く、奇妙に変形しているが、確かに人間の手だった。
現実世界ではケーブルに置き換わっていた手。
不自由そうなその手を伸ばし、『彼女』は懸命に僕に触れようとした。
左頬に、手の触れた感触があった。
その手は、夢の中の冷たい接触と異なり、暖かかった。
――もう、離れないで。ずっと、私と、一緒に、いて。約束、だよ?
いつの間にか、死神の表情は、僕が知る妹の穏やかな微笑みに変わっていた。
長期休みで、病院に見舞いに行ったときと、同じ微笑み。
いや、少し、お姉さんになっただろうか。
次の瞬間、僕は視界がクリアになっているのを感じた。
ここはどこだろう?
手足は自由になっていた。痛みもない。
お腹にも不思議な温かみがあり、さっきまでの寒気は消え去っている。
ここはどこかの部屋の椅子の上…いや、コクピットか。
頭にはHMDが付いているらしい。
オホートニクのものとは、また表示が異なっている。
だが、キリル文字で書いてある以上、『連邦』のものらしいことは察することが出来た。
赤い文字で、不吉な表記が視界の前を駆け抜ける。
――スミェールチ、起動。