3. 積荷
かろうじて恐ろしい獣の群れを退けた小隊であったが、実のところ、作戦目的には全く到達していなかった。
カムチャツカ半島の北上。
擱坐した輸送部隊の捜索、合流、現地で救助要請を出し、到着まで輸送部隊を護衛せよ。
それが不可能ならば、せめて『物資』の回収を行え。
加えて、もう一つ、命令があったらしい。
僕はその中身を知らなかったが。
……要するに、作戦の第一段階すら、まだ終わっていないのだ。
にもかかわらず、先刻の戦いで、僕はどっと疲労が出ていた。
交感神経が過度に優位になった後の、虚脱状態とでもいうべきか。
全身の汗腺から噴き出した汗は、今や気密性の高いパイロットスーツの中に、不快な液体としてその存在感を高めつつある。
口の酸味はどこかに行っていたが、むしろ、猛烈に空腹であった。
「全機、損害を報告」
「2番機、損傷なし。マガジンを1つ使った」
「3番機、マガジンを2つ使いました」
「4番機。装甲板に多少傷がつきました。マガジンは1つ交換」
「言いたいことはたくさんある。生きて帰ったらたくさん説教をしてやる、死ぬなよ」
「隊長、それじゃ逆効果では」
「確かにそうか。まあ、いい肩ならしにはなったろう。重ね重ね、足元には気をつけてな。関伍長」
上官二人は笑っている。何故この状況で笑えるのか。
僕は復唱も忘れ、ただただ計器を見つめていた。
それからというもの、僕たちは機体を自動追尾モードに切り替え、2人ずつ、代わりばんこに休んだ。
交代の際、僕の機体の肩に手を付けて、佐野が短距離通信を入れてきた。
これならば、傍受の心配はほとんどない……敵からも、隊長からも。
「あんた、本当に何考えてんの」
「お説教は、帰ってからだってさ」
「このバカ。いい? 不注意は即、死に繋がるのよ」
分かりきったことを自慢げに言う。
僕は例によって、とりあえずの応答と、これまでの警戒への感謝の意を伝えた。
彼女はムスッとして、返事をしなかったが。
「はぁ、あんたが警戒役なのは不安だわ……でも、隊長も一緒だから、まあいいか」
大げさにため息を吐いてみせたり、自分で勝手に納得していたり、色々忙しい人だ。
「気は抜かないよ」
「本当よ。何か気がついたら報告。不自然な煙、光……鳥とか、野生動物も見逃さないように」
「はいはい」
「……バカ」
とりあえず罵倒をしないと気が済まないのは、彼女の癖だ。
特に、緊張しているときには、その傾向が強くなる。
バカ以外に語彙が無いのか、と突っ込みを入れたくなるくらいに。
一方で、その声には少し安堵の色があった。
「さっきの話だけど」
「うん」
「……いいよ」
彼女の「さっき」は実にわかりにくい。
疲労で回らぬ頭に鞭打って、僕は思考を巡らした。
恐らくは、朝方の話か。
そう言えば、さっきもコーヒーを飲んでいたっけ。
彼女を怒らせないよう、慎重に地雷原を進む。
「お互い、援護しようって話だったっけ」
「……っ! このバカ!」
それっきり、通信を切られてしまった。
言い方が良くないのか?
僕だって、一人の男だ。
彼女に対して全く好意が無いと言えば嘘になる。
だからこそ、男としての甲斐性を見せたいのだが。
少なくとも現段階では、それは失敗しているらしかった。
考えていても仕方なく、僕はとにかく、休みを取ることにした。
虚脱感はいよいよ強くなる。
今、敵の襲撃を受けたら、まともに動けなかっただろう。
その虚脱感に、隣を機動兵器で歩く幼なじみの影響を否定することも難しかった。
それからの行軍は、不思議と安穏としたものだった。
誰かが僕らを導いているかのような。
それが天なる主であるか、そうでない何かであるかはわからない。
2度目の休息が終わる頃、目的地が近づいてきた。
既に、太陽の光は殆ど届かなくなっている。
極地の冬の恐ろしさは、この程度ではないのだが。
遠くに見える火山のまき散らした炎が、昼間より一層煌々と山の輪郭を照らしだす。
クリチェフスカヤの輝きは、もはや神々しくもあった。
まるで、ここが人界ではないように、錯覚してしまった。
あるいは、それは錯覚でも何でもなく、僕たちは既に神々の世界に足を踏み入れていたのかもしれない。
「反応あり。距離12000」
「もう少し接近する。気を抜くな」
神話の古来より、禁足地に入った愚か者たちには、罰が与えられるのが習わしである。それは洋の東西を問わない。
「前方に煙、複数」
佐野が張り詰めた声で報告する。
怪しげにたなびく煙の黒い影。
踊り狂う死神が、僕らを手招きしているのか。
「無線封鎖、以後連絡は超短距離通信のみとする。まだ発砲はするな。ギリギリまで接近だ」
鋼鉄の巨人は、一様に歩みを遅くした。
ゆっくりと、しかし確実に、雪を踏みしめていく。
遂に、煙の元、目当ての車列に遭遇した。
機動兵器を搭載できそうな、大型のトレーラーが2台。
1台は横転し、もう1台は荷台がひしゃげている。
それ以外には護送車のような車両が1台。
護衛のBTRは完全に破壊されており、オホートニクの四肢が無残に転がっている。
それだけではない。オホートニク以外のデザインの機体の残骸も、転がっていた。
ここで戦闘があったのは間違いないだろう。
だが、意外にもそれだけで、敵の影はなかった。
少なくとも、そう見えた。その瞬間は。
「内部には敵がいるものと思ってかかれ。俺と大村、関で中を調べる。佐野、お前はここで待機。敵が来れば迷いなく撃て」
有無を言わさぬ隊長の命令により、僕も雪原に降りることになった。
隊長たちに気取られぬよう、佐野に通信を入れる。
「一人で不安?」
「バカ! そんなわけないでしょ!?」
通信機の向こう側の幼なじみは、やや涙声になっていた。
「何かあったらすぐ戻るから、大丈夫」
「あんたに言われたからって……」
佐野は一瞬、言葉に詰まったようだった。
「……いや、ごめん…………ありがと」
「心配しないで。必ず来るから。じゃあ、行ってくる」
この時は、佐野を励ましたいのと、自分を奮い立たせたいのが半々だった。
共に吊り橋を渡る仲間だ、というだけではなかったと思う。
だが、この約束に、後々ずっと、縛られることとなるとは。
この場では、まだ、僕は予想だにしていなかった。
操縦席に備え付けのカービン銃を手に取る。
名銃、AKS-74uの後継とも言われるSK-36カービンは極地での信頼性も高く、コッキングレバーが右側にあることを除けば西側のライフルと似たようなものだ。
西側のものをコピーしたと言われる6.8mm弾は貫通力、人体への損傷性を両立させており、かつ低反動であった。
ポリマー素材により軽く、何より雪原で構えても冷たくない。
僕たちパイロット課程の兵士は、射撃訓練に関してはそれなりであったが、この銃はとにかく扱いやすかった。
頼れる相棒――勿論、人間を相手にすることに限れば、という注釈が付くが――を手に、僕は白い闇のなかへと突入することとなった。
死神は遠くでまだほほえんでいた。機をうかがっているのだ。
奴に気を許してはいけない。その一瞬で、命を刈り取りに来るのだ。
僕たちは吹雪を凌げる岩陰にオホートニクを隠し、雪原に降り立った。
佐野のほうは振り返らなかった。
車列にたどりつくと、遠景から見るよりずっと大きい車であることに気がつく。
トレーラーなどは、雪原タイヤの直径だけで、僕の身長の2倍はあろうかという大きさである。
そんなタイヤが複数ついており、障害耐性を高めているのだ。
無論、運転席を叩きつぶされることは、想定されていなかったみたいだが。
運転席から垂れ、時間の経過でどす黒くなった血が、白い絨毯に歪な赤黒い染みを残している。
それも、車両のすぐ近くだけで、少し離れると雪に覆われてわからなくなっていた。
「ヌミノーゼ反応は僅かだ」
隊長が、検知器を掲げていた。
ディセンダントの仕業とすれば、まず奴らは彼らの神秘の力、我々の呼ぶところのヌミノーゼ素子をまとった爪での攻撃を好むはずだ。
そうでなくとも、奴らの体表面には素子が多く展開され、薄く輝く膜のようになっている。
それは、どこかにたたきつければ、ある程度長い間そこに残存し、毒性を保つ。
「やはり、『同盟』の攻撃ですかね」
「だとすれば厄介だ。警戒を怠るな。関伍長、積み荷は調べられそうか?」
僕は積み荷を開けようとしていた。
決死隊を幾つも組織して、死地に送り込むほどの価値のあるお宝ならば、一度、死に土産にお目にかかりたいものだ。
たとえ行く先が地獄でも、話の種くらいにはなるだろう。
しかし、後部の積み荷は厳重に保護され、びくともしなかった。
潰れた運転手席にスイッチがあるのかもしれない。
少なくともそれは、明らかに外からの取り出しを考慮していない設計に見えた。
予定外に取り出されては困るもの、ということだろうか?
「……機動兵器でこじ開けるしかなさそうか。こいつは後回しにする」
車両の積み荷を叩きながら、隊長が指差して命令を行う。
「先にあの護送車を調べよう。佐野伍長、そちらは」
『周囲に反……し』
「警戒を続けろ」
『了……』
無線の音質は良くなかった。……短距離なのに、何故だろう?
誰もこの段階では疑問を抱かなかった。
護送車は、トレーラーと比べるといくらかまともな状態であった。
運転席はつぶれているが、それは岩に突っ込んでいるからであって、誰かにつぶされたわけではなさそうだ。
何故こんなところに大岩があるのかは、よくわからなかったが。
護送車も気密性の高いコンテナを輸送していた。
隊長たちの援護を受け、僕が突入する。
中は予想された迎撃もなく、白衣を着た男が一人、拳銃を手に倒れているだけだった。
壁には赤黒い部分と、ほのかに黄味がかった灰白色の粘調な物質が付着している。
狂人が不愉快な色のペンキを半端に混合し、壁にぶちまけたとしたらこんな感じの色合いになるかもしれない。
その中、ただ一つ、残されたコンテナがあった。
白い、ただ白い、純白の筺。
それは、装飾も何も施されていない、ただの無機質な金属の箱であったが、
僕にはなぜか、柩のような雰囲気を持っているように感じられた。
命令を待たず、僕は独断でそれを開こうと決めた。
確かにその時、そうすることを決めたのを覚えている。
この時点で、『それ』に魅入られていたのかも知れない。
認証板に手をかざすと、しかし、それは開いた。
正面の板が、低い音を立てつつ、横に滑るように動く。
それは、ちょうど小動物を飼う檻のようであった。
内部には複数のモニターのLEDが灯っている。
詳しい見方はわからなかったが、単位を見る限りでは、脈拍、血圧、そして酸素飽和度といった、人体の維持のために最低限必要な機能を見ているものと思われた。
だが、いずれも値を拾っていない。
つまり、この檻の主は、死んでいるということになるのだろう。
この檻の哀れな収容者の異常な姿を見て、一瞬、僕はそれが人間の成れの果てであるとは理解できなかった。
目の前の塊は、死体というにはあまりにいびつで、あるべきものがなく、また余計な部品が付いていたからだ。
頭部にはオホートニク用のHMDによく似た装置が被せられ、表情は確認しにくかった。
その下に見える口の端は釣り上がり、
異様な微笑みの形のまま、永遠に時を止めていた。
艶やかな黒髪が、装具の隙間から覗いている。
赤黒い血と脳脊髄液が混ざり合ったものが、髪と顎を伝い、生乾きになっている。
体もまた異様であった。
肩関節と股関節の先、本来は四肢がある部分には何もない。
ただ、何らかの接続装置とおぼしきケーブルが、檻の壁へ、コンテナの中へと伸びている。
ぽっこりと膨れた腹部は……というと、そう。
連邦の公用語で『実験体』と書かれた、囚人服のような白い衣の下に、見慣れた、侵略者たちのパワーマトリクスと同じものが露出していた。
巨大な宝石のように見える多面体は、僅かに、弱々しい光を宿している。
日本語には、『風前の灯火』という言葉がある、と父から聞いていたが、まさにその形容はここで使うべきものだろう。
吹雪の中、弱々しく輝く灯火。
いまにも消えそうな光。
いま、手を伸ばさなければ、逝ってしまう。
僕は、そのとき何を考えていたのか、よく覚えていないが……
その神秘の宝石に、触れてしまった。
――何故、そんなことをしたのだろう?
目の前の屍を、ただ哀れに思ったのかもしれない。
あるいは、死と隣り合わせの自分と、その屍を重ねた、戦場のささやかなセンチメンタリズムであったのかもしれない。
誰かに呼ばれた、ような……そんな気がしなくもない。
触れた瞬間、死んだように濁っていたマトリクスは、果たして、光を取り戻した。
頸に鋭い痛みが奔る。
焼け付くような痛み。
高熱のものを押し付けられたような……
そうだ。占領軍が焼き印を入れるときの、あの痛みだ。
直後、体性痛と内臓痛がない交ぜになった痛みの波が、全身を襲う。
体を絞られ、引き裂かれるような苦痛のなか、僕は、光の奔流の中にいた。
橙色の、死の光の中。
激しい耳鳴りと、不快な光……
その中で、僕はいくつもの映像を見た……
……ような、気がする。
「おい、関。どうした」
異界の旅は、先輩の声に引き裂かれ、終わりを迎えた。
大村だ。
突然、現実に引き戻された僕は、あたりに広がる血の臭いと、あたりに漂う排泄物の臭気に刺激され、盛大に嘔吐した。
胃の中身すべてが、自由になりたくて体を飛び出そうとしているかのようだった。
先程、アイソトニック飲料とともに流し込んだ、粉の味しかしない固形糧食が、どろどろになった状態で、胃液とともに床に飛び散る。
鉄錆と体液の臭いに加え、あたりに酸の臭いが満ちはじめた。
胃の中身が空になったとき、先ほどの痛みはすっかり消え失せていることに気がついた。
まだ視界が涙でぼんやりとする。
……あれ。僕は泣いていたのか?
「大丈夫か」
しゃがみ込んでいる僕に、大村が手をさしのべてくれた。
大きな手だ。パイロットスーツの手袋の上からでも、温かみを感じ、僕は少しだけ安堵した。
「顔拭けよ。佐野がみたらビックリするぞ」
「……はい、大村さん」
「怖かったか。だが、生きているうちに慣れる。……生きていれば、な」
死体入りのケージを調べながら、島田が呟く。
その声にはどこか寂しげな響きがあった、と思う。
「機密保持装置作動、実験体処分、完了。装置焼却処分、エラー…再試行、再試行、再試行……なるほど、装置の不具合か。しかし、実験体とは何だ? 大村。どう思う」
「機密は機密なんでしょ。機密保持装置とやらが正しく作動したことにするのが一番じゃないですか。……ドカンとね」
大村は手榴弾を撫でていた。
よろよろと立ち上がり、僕はケージを再び見つめる。
腹のパワーマトリクスは既に輝きを失い、真冬は完全に死体となっていた。
あるべき姿に戻った、というべきか。
――真冬?
ああ、そうか、この子の名前か。
それが、何故、わかるのか。
僕はその時は、深く考えることはしなかった。
それが、僕の妹と同じ名前だった、と言うことにすら、僕は疑問を抱かなかった。
或いは、僕の脳が、その2つを結びつけることを避けていたのかも知れない。
妹は、確かに重い病気であったが、連邦本土の大きな病院で、治療を受けているはずだ。
それは、人民の権利のはずであったし、だから、僕は特に心配はしていない。
こんなところに、いるはずが、ないのだから。
そう、自分に何度も言い聞かせながら、ケージの中の遺体を、再び見る。
顔の形を見るのは嫌だった。
その口の端だけは、不気味な笑顔を形作るように、出会った時よりもさらに釣り上がっていたように見えた。
その凄絶な微笑みに、隊長たちが何も感じていないらしいのを、その時は不思議に思わなかった。
「ふむ。関、お前は……どう思う」
僕は隊長の質問に答えなかった。
答えられなかった、というのがより正確か。
答える前に、外で爆音が響いたからだ。