11. 水底
『そいつ』は、きっと、猛烈に怒っていたのだろう。
全ての『瞳』を潰し、さらに奴に痛撃を加えたことで、奴に勝ったつもりでいたのだ。
しかし、奴の生命力は、その程度で負けを認めなかった。
同時に、奴は、その姿に似た地球の生物――つまり、蛇だ――と同様に、狡猾で執念深い生き物であった。
虎視眈々と、愚かな人類に懲罰を下すタイミングを計っていた。
奴が賢かった点は、奴の肉体を容易に切り裂く刃を持ったスミェールチ、この機体を狙わなかったこと。
人類が不幸だった点は、――これは後にわかったことだが――青の巨人の操縦者、アイリス・コールリッジは盲人であるがゆえに、空間の広がりとか、海の昏さといったものを本質的に理解していなかったことだった。
果たして、複数の不幸の重なりから、巨大な海蛇に丸呑みにされ、群青の巨人は怪物の体腔の旅に向かった。
恐らくは、死出の旅になるであろう。
実の所、僕は、そこまでしてやる義理があったわけではない。
が、多くの命を奪い、今も命を飲み込まんとするこの海蛇を、僕は単純に、憎悪していた。
真冬の望みは違った。
死神に魂を囚われながら、彼女は、操縦者の命を救いたいと言った。
――私たちなら出来る。やろう? お兄ちゃん。
やらないと、きっと、後悔する。妹はそう付け加えた。
『後悔する』の主語を省略出来るのは、日本語の曖昧さの良さだろう、と僕は思った。
かくして、僕たち兄妹は、奴に再び斬り込んだ。死神の鎌を振りかざして。
黒い巨人は、銀河の彼方の暗黒物質のようにうねる大海に、ひと思いに飛び込んだ。
この機体の感知能力は素晴らしく、水中においても寸分の狂いなく、怪異の輪郭をとらえ続けていた。
水中で僅かに速度が鈍りつつも、その圧倒的な高速性で蛇に追いつき、脇腹に食らいついた。
――まだ先。まだ、生きてる。
真冬が囁く。
海蛇のうねりが作り出す猛烈な海流は、死神の表面装甲を軋ませ、はるか大海の彼方へ振り落とそうとする。
しかし、死神の鎌の強度と、皮肉なことに蛇の組織の頑強さが合わさり、振り落とされることはなかった。
僕は正確に蛇の泳ぐ先、その頭を狙い、蛇の胴体を慎重に切り開いていく。
苦痛を感じているのか、蛇は体節を斬り終える毎に激しくのたうち、暴れた。この死神は取り憑いて離さなかった。
斬りつけた脇腹から頭まで1/3ほど進めた地点で、奴は猛烈に、狂ったように暴れ回った。
刃を止め、奴にしがみつく姿勢となる。
全周囲を走査するモニターは、細かい泡で埋め尽くされ、機能を半ば果たさなくなっている。
――お兄ちゃん、大丈夫?
真冬は、この機体の慣性制御を完璧にこなしていた。今の僕の、脆弱な体の、首がもげてしまわないのは、全て、真冬のおかげだった。
僕が礼を告げる前に、巨大な蛇の腹部から、何か飛び出してきた。
泡にまみれてよく見えなかったが、それが例の目玉の怪物であることに気づくまでに、そう時間はいらなかった。
奴が仕掛けてくる攻撃は、地上とはまるで異なっていた。
死神に体当たりを仕掛けてきたかと思うと、そのまま自爆したのだ。
ヌミノーゼの防御が剥がれ、水圧が機体に襲いかかる。
2匹目が突撃してきた。
鎌を突き刺した姿勢では、四肢が自由にならない。激しいうねりの中、銃を放ったが、蛇のはがれた表皮が、銃の威力を殺いでしまい、致命傷にならない。
僕は焦っていた。
次の自爆を食らえば、さらにヌミノーゼは剥がれるだろう。
何度も食らえば、いつか水圧に負けて自壊してしまう。
当たりを見回すと、今まで以上に真っ暗だ。
奴はいつの間にか深度をかなり深くしているらしい。
こちらはもちろんのこと、あの群青の巨人はどこまで耐えられるのか?
いずれにせよ、あまり時間はなさそうだった。
「真冬、何かない?」
――あるよ。お兄ちゃんなら、使えると思う。
真冬が提案したのは、両肘と両膝から出る闇の刃であった。
僕は左手の鎌を突き刺したまま、右手で肘鉄で鉄砲を繰り出す要領で、正確に目玉の怪物を突いた。
自爆は臨界に達せず、光が眼球から漏れ、水圧に耐えられず急速にしぼんでいった。
落伍する目玉の残骸に目もくれず、僕はさらに切り開いた。
――あと少し。あと、少しだよ。
怪物が僕を振り落とそうと、大きくうねった。
再び現れた目玉を、今度は膝蹴りで破壊する。
膝から伸びた漆黒の棘は、怪物を切り裂くに十分すぎる威力を持っていた。
破壊的な海流も、しかし、死神の闇の刃を振り払うには不足だった。
真冬が群青の巨人の位置を示す。
僕は、蛇の傷跡を覆う闇の中に、手を差し入れた。
「つかまれ!」
聞こえるはずは、無かったのだが。
暫くの時間があり、何者かが手をつかみ返してきた。
もう、大丈夫。
聞こえるわけがないささやきを海中に残し、僕は一気に浮上した。
機体は予想と異なり、殆ど軋んでいない。
眼下の奇形の巨人は、奇怪な頭部が、水圧によるものか、蛇の攻撃が、不自然な形にへこんでいた。
安心して水上に戻らんとする僕たちであったが、激しい海流の乱れが、安心をかき消して現実に引き戻す。
あの蛇は追撃をかけてきた。
ならば、迎え撃つのが、僕たちのやり方だ。
巨大な蛇は、水中に目玉を放ちつつ、巨大な顎門を再び広げていた。
単調なやつだ。
僕は、奇形の巨人を離し、蛇の前に仁王立ちとなった。
左手の鎌は、今や水中にあることを忘れたように、赤い稲光のような破壊の力をまとっている。
海の水そのものが破壊されているのか、鎌の周りでは細かい気泡が無数に出来ては消えていた。
僕は、鎌の刃――それは、今や機体の10倍はあろうかという大きさになっていた――で、横一文字に蛇の口を切り裂いた。
ただでさえ口裂けの蛇の顔は、漆黒の闇に両断され、上顎と下顎をきれいに分割された蛇は、力なく海中に没していった。
僕は、奇形の巨人をつかみ、一気に上昇した。
空は、対空砲火とヌミノーゼの嵐が収まり、ただ暗い雲が低く、どこまでもカーテンのように延びているだけであった。
星空は見えなかった。
『バラク・フセイン・オバマ』の甲板の消火は、まだ終わっていなかった。
そこに、2体の巨人が降り立った。
海蛇は、去ったらしかった。
奴が死んだかどうかは、誰も知らない。
生き残りの目玉の怪物もどこかに去っていた。
奴らが、文字通り海蛇の『眼』であったのは、後の解析でわかったことだった。
せっかくスミェールチに戻れたのだ。このまま飛び去ってしまおうか。
しかし、僕の体の疲労は限界に近かった。
1時間以上は、戦っていただろうか?
いくら、体が自由になるとはいえ、基礎的な体力は真冬のものと変わらない。
加えて、誤嚥性の肺炎がぶり返してきたのだろうか。
妙に、息が苦しくなっていた。
暫しの逡巡ののち、真冬は、僕を降ろした。
僕の意思とは無関係に。
漆黒の優しい死神は、僕を心配そうに見つめていた。
海水の乾く匂いの中、僕の意識は遠くなっていった。




