86. 救命
一面の雪景色が広がる中庭を眺めながら、僕は車椅子に乗せられていた。
後ろで誰かが車椅子を押している。
視線の高さが違うが、ここはあの、色あせた病院であることに間違いなさそうだ。
またあの夢だろうか?
「お兄ちゃん」
声に振り返ると、そこには、真冬が立っていた。
僕は、元の僕の身体のままで、車椅子に乗っている。
これでは立場があべこべではないか。
「えへへ、たまには変えてみたんだ。いつも同じだと、お兄ちゃん飽きるでしょ?」
……飽きる飽きないの問題じゃないと思うのだが。
妹の考えていることがよくわからなくなる。
「なんとか言ってよ。ノリ悪いんだから……」
「えっ、まあ……その。何? 真冬」
「何? じゃないよ。心配したんだから、お兄ちゃん」
心配した?
そういえば、昨日の夜、突然息苦しくなって……
それからどうしたんだっけ。
記憶があやふやだ。
「覚えてないの? ……そっか。まあ、それはいいけど。でも……」
「でも?」
「あの約束、忘れないでね」
「約束……って、なんだっけ」
僕の問いかけに、あからさまに妹はむくれた。
「もう! お兄ちゃんたら……! 知らないっ!」
真冬がすねたように甲高い声を上げると、あたりは光りに包まれて、病院の長い長い廊下もまばゆい輝きの中に溶けていった。
次に目を覚ましたときには、外の景色がはっきりと見えなかった。
頭の後ろからぼんやりと光が差し込んでいる。
ブンブンと、何か機械が動作している音が、耳の近くでずっと響いていた。
「あれ……?」
僕はぼんやりとした頭を振りつつ、考える。
ここは、さっき僕が眠りについた個室とは、違う部屋のようだ。
「気が付かれましたか、よかった……」
ほっとため息をつく看護師らしき人影。はっきりとは見えないが、すごく心配そうだ。
「あの、すいません。眼鏡……」
「えっ、ああ、お部屋のままかな? すぐに持ってきますね。先生!」
眼鏡が到着しないまま、改めて自分の身体を見直す。
ぼんやりとした視界でも、なんとなくわかる。
……太ももから管が生えていて、その中は真っ赤な血で満たされていた。
「えっ……」
真紅の液体を目にして、急速に血の気が引くのがわかった。
「やあ、心配したよ……まったく、本国の連中は現場を全くわかっていない」
若干、眠そうなレッドフォード医師が僕に解説したところによると、恐ろしいことに、『連邦』シンパのスタッフが、僕の点滴の管から塩化カリウムを注射したのだという。
ミネラル・バランスの崩れた僕の身体は、心臓発作を起こし、危うく死ぬところであったそうだ。
今はこうして、血液浄化、要するに透析をやっていて、徐々にバランスは平衡を取り戻しつつあるとのことだった。
犯行は周到であり、ナースコールの回線も事前に切断されていたとのことだ。
「じゃあ、どうしてわかったんですか?」
「ああ、別に悪気はなかったのだがね……」
と、レッドフォード医師は手のひらに、ボタン大のデバイスを載せていた。
発信機、兼、盗聴器というわけだった。
「言い訳じみて聞こえるだろうが、君を信用していないわけじゃない。ただ、命令でね」
もがき苦しむ僕の声を聞いて、急遽駆けつけたのだという。
結果として盗聴器に命を救われる形になったのだが。
僕は裏切られた気持ちだった。
『首輪』を外された時には、受け入れられたと思ったものだが。
まだ、僕は、信用されていないのだろうか。
僕は自分の考えが甘かったことを思い知らされた。
『同盟』の意図。
この地にいまだ蔓延る『連邦』の影。
……どちらの超大国も、決して僕の味方ではないのだ。
そして、さっきの真冬の問いかけに、僕は「死にかけた」というヒントを得て、ようやく気がついた。
カムチャツカで、僕は確かに、妹と約束した。
離れない、ずっと一緒にいる、と。
あやうく、約束を違えるところであったことに気づいた僕は、自らの迂闊さを呪った。
いや、今、現に大学病院にいる以上、真冬とは距離的には多少離れてしまっているが。
それは彼女の線引きではセーフなのだろうか?
……今度、真冬の夢を見たら、直接聞いてみようか。
西暦2052年7月10日、午前9時50分。
体調がある程度もとに戻った僕は、集中治療室を出て、以前とは別の個室に移された。
さすがに殺されかけた部屋に戻すというのはためらわれたのだろう。
ぼんやりとベッドの上に座っていると、本当に病人になったような気がするから不思議だ。
今朝の採血では、電解質の値については、問題がなかったとのことであった。
モニター用の心電図だけはまだ外れない。
僕は、この電極が張り付いている感じがあまり好きではないのだが。
今回は同盟軍の兵士が2人、護衛についてくれることになった。
いかつい男が一人、細身の男が一人。
どんな連中かは知らないが、誰もいないよりはマシだろう。
……最初からそうしておいてくれれば、と思わないでもないが。
レッドフォード医師は、僕の身体が回復したのを見て、検査の結果について説明を始めた。
そもそも、ヌミノーゼを制御するために、僕たち機動兵器パイロットには異星人の核が移植されている。
これは通常、異物であり、拒絶反応を抑えるために、免疫抑制作用のある薬を併用するのが、常道とされているのだが……
僕の場合、高度に融合したマトリクスは、体組織と一体化しており、そのため、免疫抑制剤を内服する必要はなかった。
それは、この身体にとってはいいことなのだが、しかし、その一体化が進みすぎているという問題が、ここに来て現れ始めている可能性がある、とのことだった。
つまり、僕の身体と一体になっている、後頚部のマトリクスは、僕の身体を侵食しつつあるとのことだ。
実は、この傾向は、エリア51での検査の際にも、すでに見られていたとのことだが。
その際には大きな問題となっていなかったため、僕には特に知らされなかったという。
しかし、その後複数回の戦闘をくぐり抜けた僕は、おそらくはこの身体に存在するパワー・マトリクスと、他の個体のマトリクスの相互作用の影響を受けており、それがある閾値を超えたことにより、急激に体調の不良といった問題を起こした可能性がある、という。
発熱の原因は、炎症性サイトカインという化学物質が体内に放出されたことで、全身に炎症反応が起こった可能性が高いとのことだった。
これは、おそらく、本来異物であるはずの異星人の体組織との一体化により、僕の身体の免疫反応が異常化している一つの徴候に過ぎない。というのが、レッドフォード医師の見解である。
「僕は免疫学が専門ではないが」と、彼は前置きした上で、繰り返しの戦闘による同様の負荷が続く場合、この病態は悪化し、また別の症状が出現する可能性がある、と述べた。
結論として、僕の繰り返しの出撃は、医学的見地からは推奨されない、というのが、先生の見解だった。
ヴォーゲル博士の知り合いという割にはまともに僕のことを考えていてくれたこの博士の見解は、しかし、僕に重くのしかかるものだった。
「より、侵食が進んだ場合には、どうなりますか」
「それは私にはなんとも言えないね。このような症例は、我が軍の研究が始まって以来、私の知る限りでは初めてだ」
「予想で構いません。先生なら、それくらいはお分かりになっているのでは」
「そうだな……」
医師は言いよどみ、手元の端末で僕に人体の解剖図を見せる。
「このまま中枢神経系への侵食が進む場合には、例えばだが、頸髄における損傷を受けた場合と同じような四肢の麻痺が出現することは予想される」
四肢の麻痺。
脳性麻痺とはまた違うのだろうか?
僕にはその段階でははっきりとわからず、しかし、なんとなくわかったふりをして、話を先に進めてもらった。
あまり詳しく知りたくなかったというのが本心だ。
この男性医師は話を続けた。
「更に上行性に進行するとすれば……」
指が上に動いていく。
僕が見てもわかる。そこは脳だ。
「……ここ、脳幹部に侵食が進めば、生命維持機能に影響を及ぼすだろう。例えば、延髄網様体の呼吸中枢が機能障害を起こせば、呼吸は止まる。そうすればどうなるかは、言うまでもないだろうね」
先生が僕にしたのは至極わかりやすい説明で、それは単純なことだった。
このまま機体に乗り続ければ、死ぬ。
少なくともそうなるリスクがある、ということだ。
だが、そう言われても、僕は諦めきれなかった。
僕は懇願した。
この件は伏せてもらえないか、と。
レッドフォード医師は、あくまで僕からとった所見を報告するのが、仕事である、とした上で、僕に理由を問うた。
そこまでして戦闘に出たい理由は何か、と。
「助けたい人がいます」
「それと戦場に出ることと、どうつながりがあるのかね?」
「彼女は、連邦軍に囚われて……おそらくは戦いを強要されています」
僕は、真冬の件は伏せ、佐野のことを話した。
おそらくはそちらのほうが話の筋の通りとしては良いだろうし、隊長たちにもこの理由については話していたから、辻褄も合いやすいだろう。
僕は言葉を選びながら、開示してよい情報を慎重に選んだ。
「なるほど、戦場で、敵軍のパイロットを助けるか。それは並大抵のことではないだろうね」
「それでも、僕はやらないといけません。彼女が乗っているのは、スミェールチ……いえ、デスブリンガーの同型機ですから」
僕の返答に、レッドフォード医師は熟考しているようだった。
空調の音と、僕の心電図の音だけが、室内に響く。
長い沈黙のあと、彼は口を開いた。
「戦闘のことは私の関わることではないし、報告はせねばならない。判断は上に委ねることになる」
「そんな……!」
僕の落胆の表情が明らかであったのか、レッドフォード先生は僕をなだめた。
「まあ、待ちなさい。君の決意についても、上には伝えるつもりだよ。ただ、いち医療者としては、この身体で戦場に出るというのは、推奨は出来ないが」
僕はしばらく黙った。
僕の心情など、この国が考慮に入れてくれるものだろうか。
あるいは、単純に戦力として使い潰すつもりでいてくれるのなら、それは逆に好都合でもあるが。
「何か、質問することはあるかな?」
「……いいえ、今は特に」
「では、私は失礼するよ。報告をまとめねばならないからね」
ゆっくりと立ち去ろうとするこの医師に、僕は背中から声をかけた。
一番の懸念事項を尋ねるためだ。
「あの、先生」
「なんだね?」
「仮に出撃を続けられたとして、どのくらいで、その……身体の機能に影響が出るのでしょうか」
彼はまた、渋い顔をして、答えた。
「予測ははっきりとは出来ないね。折に触れて、検査をしていくしかないだろう」
僕はまだ食い下がろうと思ったが、それはおそらく状況を悪くするだけだと思い直した。
先生は軽く会釈して、病室を出た。
広い病室に、ただ一人残された僕は、改めて頭を殴りつけられたような気分だった。
とにかく、時間が限られていることは確からしい。
僕は一人、思案していた。
果たして同盟軍は僕の出撃を許可してくれるだろうか。
レッドフォード医師は決して悪人というわけではなさそうだったが、変な人道主義はいまさら御免こうむりたいところだった。
考えても仕方ないことを悶々と考えながら、同盟軍上層部の決定を待っていたが、結局その日のうちに結論は出なかった。