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第6話

「どうしよう……夕顔も顔を憶えられているわよね?」

「はい……」

「だったらわたしが行く! はーい!」

「美咲ったら……」


 美咲が襲芳舎の入り口で冬嗣を出迎えた。


「おや、これは可愛らしい侍女殿だな……もしやあなたは、胡蝶という名前ではありませぬか?」

「こ、こ、こ、胡蝶! いいえ! ちがいます!」

「その慌てよう……。やはり、胡蝶殿か? 声が多少ちがうようですが、容姿は想像していた通りだ! やはりこちらにいらしたのですね? 今は侍女を? またどうして?」

「あ、あの……」

「美咲の奴! おれと話すときとまるでちがう対応じゃねえかよ!」

「困っているようだな。わたしが行く!」

「あっ! 東夷!」


 東夷がツカツカと冬嗣のそばへ寄っていった。

 冬嗣は東夷に気づくと深く一礼した。

 東夷は蔵人の長、頭の中将だ。

 冬嗣よりもずっと位が高い。


「侍従殿、どうされましたか?」

「頭の中将、実はこの侍女ですが……少納言の元妻なのです。わたしも知り合いでして……」

「この者は侍女で名前は美咲。あなたがお探しの胡蝶はわたくし付きの女房で奥におります。会うことは叶いませんよ」

「なんですと! では、やはり……。吉野から頭の中将が胡蝶殿を宮中へ連れて来たという話は本当だったのですね……」


 わたしは夕顔と紅鬼と共に柱の陰から冬嗣の様子を伺っていた。

 冬嗣は真っ青な顔をして、心底おどろいたという表情をしていた。

 呆気にとられ、しばらく口が聞けない有様だった。


「胡蝶に懸想ですか?」

「頭の中将に逆らう気持ちは少しもありませぬ。ですが、信じられなくて……胡蝶殿の名前も、初めて知ることができたばかりなのに……。すでに他の男と……。あの……胡蝶殿は幸せですか? 少納言と離縁したあと、落ち込んでいたのでは……」

「少なくとも、吉野の里でひとり寂しく暮らしていたときよりは幸せではないかと思います。京の都はにぎやかですからね。それだけで気が紛れましょう」

「そうですか……。では、そのように少納言には伝えましょう。我々は遅かったと……」

「少納言は最近お元気がないと噂になっておりますね。どうしました? 葵の上にふられ申したか?」


 ドキリとした。

 それはあまりに、わたしにとって残酷な問いかけだ。


「少納言は……仕事を休んで吉野の胡蝶殿の元へ参りました。ですが……胡蝶殿は貴人と共に宮中へ旅立ったと……。御所に戻った少納言に泣きつかれ、内々で調査して胡蝶殿が同行した貴人が頭の中将と判明した次第です。矢も盾も堪らず、確かめに参りました。いきなりの訪問をお許しください」

「矢も盾も……? すると侍従、あなたも胡蝶殿を?」

「……否定はしません。ですが……胡蝶殿は今や独り身。少納言に抜け駆けするつもりはございませんが、わたくしの胡蝶殿への想いは長正よりも前からありました……。胡蝶殿が和歌所の上と呼ばれていた7年前より、秘かに恋い慕っておりました初恋の女性なのです。何度も文を出しましたが無視され続けました。彼女に歌を送った者全員が同じ想いに打ちひしがれていたので、それはそれであきらめがつきました。ですが……幼馴染の妻として現れた胡蝶殿は現実の蝶としてわたしの目の前を舞いはじめたのです。そして今、蝶は野原に放たれた! 目の前に飛んでいた美しい蝶々の姿を忘れろとは、今のわたしには到底無理というものです」

「胡蝶の夢ですか? では、あなたもあの本を読まれましたか? 中国の楓が挟まったあの本を」

「では、胡蝶の夢の逸話が載ったあの本は、頭の中将が胡蝶殿に与えた物ですか?」

「はい。それも、彼女が幼い頃に……。ですから侍従、わたしの想いのほうがあなたの胡蝶を思った年月よりも長く深いのです」

「頭の中将……。ほんとうにわたくしはあなたに逆らう気は毛頭ございません。ただ、わたくしの長年の想いをどなたかに知っておいてもらいたかっただけなのです……。その想いの深さも年月も、あなたには負けたようだ……。少納言にもきっぱりあきらめるように申し伝えます。あいつめ、最初は興味などまったく無かったくせに! いやはや、このようなからくりがあったとは……。今夜は我が友とヤケ酒ですな! 夜が明けるまで飲み明かすということにしよう……」


 冬嗣は寂しげな背中を見せながら、夕焼け空に暮れる初夏の襲芳舎を去っていった。

 わたしはそのうしろ姿を見つめながら衝撃を受けていた。

 まさか冬嗣がそのようなことをわたしに対して想っていたとは。


 独身時代にもらった文は残らず捨てていた。

 学問一筋に生きようと決めていたので、見るだけでも失礼にあたると思っていたからだ。

 だが冬嗣の告白を聞いた今、あのとき無碍ムゲにした人たちの心が罰となって自分に降りかかってきているような気がしてきた。

 自分が失恋の当事者になって初めて、彼らの気持ちが理解できた。

 人は皆、一度は失恋というものを経験しなくてはならない運命なのか。

 初恋ならばなおさらのこと、それは決定事項のようだ。


「恋に破れた男同士の酒盛りがあるらしい……。我も参加してこようかな……」

「東夷! そんなこと言ってると闇討ちにあうぜ! 小桃、少納言の落ち込みの理由がわかってよかったじゃねえか。おれさあ、この前あんたと少納言の様子を見て思ったんだけど……案外お似合いじゃんか。年の差なんてぜんぜん気にならないぜ? あの恐いおばちゃんの目を盗んで会いに行ったらどうだ?」

「これ、紅鬼! おまえはわたしの味方じゃなかったのか?」

「東夷の失恋は今にはじまったばかりじゃないだろ? それに……あの侍従は恋多き男として有名じゃねえか。いくら初恋の小桃がつれなかったからって、そんな男に成長するかよ? 小桃、気まぐれな男たちのことなんか気にすんな! 男なんて、そうやってすぐに代わりの女を探すんだから! なっ? 東夷!」

「あんな色男とわたしを一緒にするな! 小桃、実は……新しい仕事がある。桐壺宮に出仕して欲しいんだ。そこの淑景北舎で女官たちの妊娠騒ぎを探ってきておくれ」

「妊娠……ですか?」


 初めて耳にした新たな事件に、わたしは言葉も忘れて衝撃を受けていた。

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