第5話
「鬼火だ! 鬼火が出たぞー!」
庭から大きな叫び声が聞こえてきた!
――ガタンッ!
「なんだって! くそうっ!」
長正がいそいで従者と共に寝所から飛び出していった。
「鬼火が……!」
「なんと、恐ろしや……」
鬼火の報告に侍女たちが恐れおののき騒ぎはじめた。
カサカサと逃げ惑う衣擦れの音があちらこちらからしてくる。
いそぎ1人で庭へいそいだ。
寝所を出るときチラリと見た葵の上は、暗闇のなか扇の陰で、ひとりギラギラと瞳を輝かせていた。
長正との逢瀬がうまくいかなかったことをくやしがっているのか、それとも何か他に思うところでもあるのだろうか。
「いけない、いけない……わたしの本当の仕事はこっちよ」
いそいで声のした東門方向へむかった。
男たちが総出で、庭のあちこちを見てまわっている。
そのなかに長正もいた。
「小桃! こっちだ!」
「あっ!」
横の草むらから黒い頭巾を被った紅鬼に呼ばれた。
庭に下りてそちらに向かった。
「鬼火は?」
「こっちに来てみろよ」
――ガサガサガサガサッ……。
紅鬼と一緒に草を踏み分け人気のない南東の角へ出た。
「これだ……」
「まあ……」
釣竿の先に松明を括りつけた物が打ち捨てられていた。
松明からはまだ煙が出ていた。
「屋敷の連中を脅かしたあと、塀の外から投げ入れたみたいだな。おれは西門の近くにいたから間に合わなかったよ。塀の外を覗いてみたが、真っ暗闇で誰もいなかった」
「いったい、なんのためにこんなことを……」
「たいへんだー! 雷神像が盗まれたぞ!」
「雷神? なんだ?」
「なんですって!」
――ガサガサガサガサッ!
わたしは声のした方向へ全速力で走った。
庭を横切り西対へと近づいていくと、西中門廊に立つ長正が白い桐の箱を持ち唖然としていた。
その周りを男たちが取り囲み、箱の中身を確認している。
どうやら例の葵の上から預かった雷神像が、箱の中から無くなっていたらしい。
犯人は東側で鬼火を使い人々の気を引き、その隙に西対に置いてあった雷神像を盗み出したのだろうか。
あの雷神像はそんなに貴重な品物だったのか。
葵の上はどうしてそれをいまさら、長正に自分の屋敷へと持ってこさせたりしたのだろう。
言い知れぬ矛盾を感じずにはいられなかった。
「おかしいな……おれたちはしっかり屋敷の四方を警備していた。ねずみ一匹だって入ることは出来なかったはずだ」
うしろから追いついてきた紅鬼が話しかけてきた。
「でも、鬼火の犯人は逃がしたのでしょう?」
「そもそも、それがおかしい。掘りの外も検非違使たちがいて、厳重体制だったんだぜ」
「だとしたら……」
「おや? さっきの東夷様のところの侍女殿ではないか? ここは物騒だ。いったん宮中に戻ろう」
「…………」
「おい! あんたの元夫だろ? どうすんだ?」
「どうもこうも……紅鬼がわたしの口を利けなくしたんでしょ?」
「やれやれ……おれ、知らねー」
「無責任ね……」
暗闇にいた紅鬼はさりげなく離れていった。
「桐の箱は空っぽだ。これ以上はどうしようもあるまい。わたしもまだ宮中で用事があるのだ。混乱に乗じておいとましてしまおう」
「…………」
長正が西中門廊から降りて前を歩きはじめた。
そのうしろ姿から、早く帰りたがっているように見えた。
仕方なくあとについて一緒に庭を横切り、車宿から直接、牛車に乗って御所に帰った。
宮中に着くころには世が夜が白々と明けはじめ、道端の露草が頭をもたげはじめていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「では、侍女殿は無事に送り届け申した。明日からまた葵の上のお屋敷に送り届けてあげてください」
「はい……」
長正はわたしを送り届けると、校書殿方向へ戻っていった。
そのまま出仕するのだろう。
校書殿はわたしがかつて勤めていた殿舎だ。
終始あたまを下げ続け、姿が見えなくなるのを待ってから顔を上げた。
「小桃!」
「美咲……おはよう」
「今のが小桃の御前様だった方ね? 素敵じゃない! 東夷様とどっちがいい男かな……?」
「おまえには関係ないだろ?」
「あっ! 紅鬼! いつの間に帰ったのよ!」
「ここはおれと東夷の寝殿だ。おまえはただの侍女だろうが」
「当たってるだけにくやしいー!」
紅鬼は美咲の前を悠々と通り過ぎながら襲芳舎へ入っていった。
「夕顔……少納言様はおまえのことがわからなかったわね。わたしも暗闇とはいえ手が触れてもわからなかったわ。身元は当分、ばれそうにないわ」
「小桃、ゆうべはどうだった? 心配だったんだからね! 鬼なんて恐いじゃん。紅鬼一匹でたくさんだよ!」
「おい! 聞こえてるぞ! 早く入ってこいよ! 東夷が呼んでる!」
紅鬼が奥から美咲に怒鳴った。
わたしたちは慌てて寝殿内へと駆け込んだ。
◇ ◇ ◇ ◇
「小桃、ごくろうであった。さっそく騒ぎがあったそうだな。紅鬼から話は聞いた。鬼火が出た隙に雷神像が盗まれたそうだが……小桃はどう思う?」
「この事件をですか……? わたしが思うに……鬼火も雷神像も屋敷内の人間の仕業ではないかと」
「なぜに、そう思う?」
「紅鬼の話では葵の上の屋敷はねずみ一匹通さぬほどの厳重態勢でした。あの状態で外から中へは入れますまい。だとしたら……釣竿で吊った松明で屋敷内の人の気を引き、その隙に雷神像を盗み出したのでしょう。雷神像と犯人はまだ葵の上の屋敷にいるかもしれませぬ。その雷神像はそんなに高価な物だったのでしょうか?」
「さあな……そっちの調べはまだだ。だとすると……雷神像が葵の上の屋敷内に隠されている可能性もあるな……。紅鬼、しばらく葵の上の屋敷を見張っていてくれ。何かあったらすぐに知らせるように。疲れたろう。小桃は今日は一日ゆっくり寝ていなさい」
「「はい」」
◇ ◇ ◇ ◇
あれから二週間ちかくが経過していた。
葵の上の屋敷の鬼火や白鬼騒ぎは無くなり、人々は次第にそれらの事件を忘れていった。
結局、雷神像も盗んだ犯人もいくら探しても見つからなかった。
わたしたちの暮らす襲芳舎の木にむかし雷が落ちて以来、雷神は宮中では忌み嫌われている。
葵の上としても雷神像はできたら手放したかった品物だったそうだ。
結果、葵の上から雷神像の盗難届けは出されず、事件事態が無かった事となった。
その雷神像は葵の上の美貌を聞き付けた中国の高僧からの贈り物だった。
東夷が確認したので間違いなかった。
わたしは葵の上のお屋敷で住み込みで働いていた。
最近では物の怪さわぎが一段落して侍女たちが戻りつつある。
そろそろわたしもお役ごめんで、襲芳舎へ帰されようとしていた。
初めての侍女の仕事は辛いこともいろいろあったが新鮮な驚きに満ちていた。
暗いうちから井戸で水を汲んできて庭へ撒き、鯉に餌をやった。
慣れない手で火を起こし雑巾掛けをした。
鳥の声を聞きながら洗濯を干し、他の女たちとおしゃべりに興じながら野菜を刻んだ。
なにもかも初めての体験で、周りから教わりながら丁寧にいそしんだ。
机にかじりついて疎かにしてきた家事の勉強を、二十歳を過ぎて今頃している。
わたしを十代だと思い込んでいる周りの者たちはひどく親切だった。
「すっかり手がぼろぼろだわ……」
日にかざしてみると、我が手が見る影もないほどに荒れていた。
そういえば、屋敷の下働きの者たちはこのような手をしていた。
美咲だってそんな手をしていた。
これからは下働きの者たちを労わろう。
今は夏だから暖かいが、冬の寒さのなかでも辛い井戸汲みや水洗いをしながら女達は過ごしている。
何事も勉強になるものだ、屋敷の奥で泣いてばかりいてはだめだなと、改めて自分のいままでの行いを反省するのだった。
葵の上は侍女たちの間でもよい噂は聞こえてこなかった。
男出入りが激しいだの、気性が荒くて大変だなど、従業員たちの不平不満は数え切れないぐらい募っていた。
わたしは最初の晩こそ人手不足で寝所へ入れてもらえたが、それきり葵の上を見たことはない。
驚くべきことに、和歌の代筆代歌を筆頭に、琴や琵琶の演奏、ときには声音まで影武者がいることを知った。
衣の色や香の匂いもすべて侍女たちに選ばせているそうだ。
とんだまがい物の姫君だったのだ。
このような女に長正が現を抜かしていたなんて。
いつぞやの冬嗣の話が思い出された。
恋なんて本当は幻のようなモノなのかもしれない。
幻想的な香の匂いや歌に酔いながら暗い寝所の雰囲気にまやかされ、美しい夢を見ていただけだ。
わたしは忙しいなかで次第にいろいろなことを落ち着いて考えられるようになった。
長正のことを思い出す回数も次第に減ってきていた。
彼はあれきり葵の上のお屋敷にはやってこなかった。
そんなある日、長正の噂が聞こえてきた。
長正がここ4日ほど出仕してこなかったらしい。
その後、参内してからひどく元気がないそうだ。
葵の上に振られただの物の怪にとりつかれただのさまざまな憶測が飛んでいた。
そのうちまた別の長正の噂が聞こえてきた。
露草殿は帝から結婚のお祝いに賜った大切な寝殿だ。
帝は長正にとって義理の兄だ。
つい先日、ひどい大嵐があり露草殿の一部が壊れた。
寝殿の維持費は朝廷が出す約束だったのに、いざ修理費を要求してみると、すべての援助は断ち切ると返答されたそうだ。
噂では葵の上からの進言があったらしい。
このことに対する巷の説は2つあり、情人だった葵の上を長正が寝取ったから帝が怒って制裁を加えたというもの。
もう1つは葵の上の誘いを長正が理由をつけて断り続けているから怒った彼女が帝に頼んで、露草殿の援助を打ち切ってもらったというものだ。
後者であって欲しいと願いつつも、前者である可能性も否定できない。
いずれにしても、帝は今でも葵の上を特別視されているようだ。
長正はいま露草殿の修繕費に困っているらしい。
彼の名前を聞くたびに、わたしの心は揺れた。
◇ ◇ ◇ ◇
結局、葵の上のお屋敷に従業員が戻りはじめ、わたしはお払い箱になった。
久々に襲芳舎で皆と会った。
東夷は清涼殿へ毎日出仕していて、美咲と夕顔は侍女の仕事にいそしんでいた。
「小桃……聞いたぞ。少納言が困窮しているそうではないか。小桃の給金を維持費にまわしてやろうか?」
「東夷様……お給金? わたくしにお給金が出ているのですか?」
「もちろんだ。忍びは危険な仕事ゆえ、朝廷から特別料金を戴いておる。わたしがきちんと払うぞ」
「では……できましたらそのように……。あたたかいお心遣いに感謝申し上げ奉ります」
「……小桃、お前が打ち沈む様子を見兼ねての提案だ。元気を出すのだぞ。いつかは元夫を見限り、新しい男を探すとよい。それはわたしでも……よいぞ……」
「新しい……いえ、わたくしは独身の頃のように仕事一筋で生きていく所存です」
「東夷! お前の気持ちは、まったく小桃に伝わってねえぞ!」
「紅鬼、よいのだよ。わたしの幸せは小桃の幸せなのだから……」
「相変わらず東夷は報われねえな!」
「小桃! たいへん! すっごい良い男がやってきた! ほら!」
「えっ……? あれは……」
なんと襲芳舎に冬嗣がやってきた!
どうして?
もしかしたら、わたしのことがばれたのだろうか?




