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第3話

「長正様……」

「胡蝶……」

 

 しばらく2人は暗がりで見つめ合っていた。

 

――カタッ……。


 一陣の風が吹き御簾を揺らした。

 鼻先へ長正の香の匂いが漂ってくる。

 懐かしき芳しい香り。

 身体の奥底に沁みつき離れないこの匂い。


 すべての音が消えたかのように静寂が訪れた。

 まるでこの世には長正と自分しかいないような錯覚にとらわれる。

 これは現か幻か。

 長正を目の前にしてその匂いを嗅いでも、まだ現実とは捉えられなかった。


――サアッー……。


 強い風が吹きはじめた。

 夏草を揺らし雲を掻き分け三日月が姿を現した。

 胡蝶の手元を月光が照らし出し3通の文が暗がりに白く浮かび上がった。


「胡蝶……この文はなんだ? もう、男ができたのか?」


――カサカサ、カサカサッ!


 香の匂いと共に長正が詰め寄ってきた。

 その香細カグワしさに頭がクラクラとしてくる。


「ちがいます、それは、桃の刀剣の……」

「桃の刀剣? 露草殿のためか? これだな……」


 長正が布の紐を解き桃の木でこしらえた剣と短刀を取り出し月光にかざした。


「立派な物だな……。これならば雷神の怒りも封じ込められよう」

「長正様……葵の上、いえ、正室様はどうされたのですか。こちらに来ることは了承済みでしょうか?」

「正室? 正室はここにおるではないか!」

「長正様……何をおっしゃいまするか。わたくしとは離縁なさり、葵の上と婚姻なされたのではないのですか」

「なに? 葵の上と婚姻? してないぞ! 誰が申した?」

「……ですが……葵の上のところの女官が来て、そう告げられました……」

「女官が? それは女官の戯言だろう。そんなものは間に受けるな!」

「ですが……その後、こちらに葵の上の同意とされる離縁状が届きました。わたくしたちはもはや夫婦ではございませぬ。このようなところに一緒に居るのは……」

「実は胡蝶、わたしも驚いているのだ。先週、侍従の1人が急に病気になり、代わりに手伝いに入り徹夜になった。翌日からはそのまま少納言と兼務となり宮中に泊まりながら出仕していた。胡蝶に文を遣ったのだが、届いてないようだった……。一昨日、久方ぶりに露草殿に帰ってみれば、胡蝶は故郷クニに還りわたしたちは朝廷の命で離縁したという。取るものも取りあえず、その足でここまでやってきた。侍従の仕事は冬嗣に任せてある」

「そんなことが……。ですが、朝廷の命とあらば逆らえませぬ」

「だが、胡蝶とは絶対に別れたくない! もう会えないなど耐えられない!」

「長正様……。それはなりませぬ。朝廷に逆らうことは帝に逆らうこと。これ以上の強情は……」

「胡蝶……では、もうわたしたちは……」

「いずれにしても、いつかは離縁する約束でした。長正様、葵の上とはどうなりましたか?」

「葵の上か……さあ……? そういえば、夫候補の者たちと直接に逢いはじめたと冬嗣が話していたが……」

「では、長正様にもお誘いがきましょう。それを心待ちになされはいかがでございましょうか……」


 ここまで話してきたところで、自分があまりにも惨めに思え涙が零れそうになった。

 いそいで扇で顔を隠し、袖の先で涙を拭った。

 嗚咽が漏れないよう口元を強く押さえながら。


「胡蝶……では! 婚姻せずともわたしがこちらに通えば済む話ぞ。折りをみて露草殿にも迎え入れよう!」

「長正様……それはなりませぬ。わたくしのことはどうぞお忘れください。なにとぞ……」

「いやだ、胡蝶! それはならん! ならばわたしがおまえを連れ去る! どこか……そうだ、京よりも吉野よりも、ずっと遠く! 大伴家持公が同じ従五位だったときに流された大宰府に参ろう! 梅を追って!」

「いいえ、長正様。わたくしたちはもはや他人。どうかお気を鎮めくだされ!」

「いやじゃ! 胡蝶と一緒になる!」


――バサッ!


 闇の中で、長正が上衣を脱ぎ捨てる音が響いた。


「あっ……!」


 気が付くとわたしは、長正に横抱きにされ御帳のなかへ連れていかれるところだった。

 抗おうともがくも、強い力でがっちりと抱きしめられ身動きできない。

 月光に照らされた長正の顔は蒼白で、この世のものとは思えないほど焦燥していた。

 

――パサッ!

 

 強い意志を持ってメクられた御帳のなかの褥に横たえられた。

 抵抗するのはあきらめ、真暗闇で全身の力を抜いた。


――ふわりっ……。


 長正の気配が、彼の匂いと共に覆い被さってきた。


「胡蝶……」

「長正様……」


――カサッカサッ……。


 暗闇が支配するトバリの中で、わたしと長正はただの男と女になり睦み合った。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇


 夜が白々と明けるころ、長正に帰り支度をさせていた。


「胡蝶……帰りたくない! 一緒に逃げよう!」

「長正様……それはなりませぬ。都に戻られたら夢でも見たと思い、わたくしのことはどうかお忘れください……!」


 長正はその長い腕をわたしの背にまわし抱き寄せると、唇に唇を重ね強く抱きしめた。

 しばらくそのままでいたが、屋敷の外から牛車の車輪の音が響いてくると我に返り離れていった。


――カサカサッ!


「また来る!」

「あっ……! 長正さま……」


――バサリッ!


 御帳を捲り長正が朝露に濡れた屋敷の庭に下りた。

 一度も振り向かずに帰っていくそのうしろ姿を見送りながら、とめどなく涙が零れる。


――ギシッ、ギシッ……!


 牛車が走りはじめる音が朝靄の中からしてきた。

 それはやがて遠ざかり、はるか彼方へと消えていった。

 長正の香りと共に。

 ふと気が付くと枕元に色紙が置いてある。

 裏返して見てみれば、長正がわたしを想って詠んだ歌が書かれていた。

 涙が溢れてとまらなかった。


 ◇ ◇ ◇ ◇


「小桃! ゆうべ、御前様がいらしたそうじゃないの? 大丈夫だった?」

「美咲……」


 夕方になり涼しい風が吹きはじめたころ、美咲がやってきた。

 今日はあの桜並木の裏にある神社へ手伝いに行っていたはずだ。

 すっかり日焼けして帰ってきた。


「泣いたの? 元気だして……」

「うん……。美咲……わたし、東夷様のお話をお受けしたほうがよいのかしらね……。ここにいたらまた御前様が来られるかもしれないのよ。それはよくないことだわ。朝廷に逆らうことになってしまう……」

「ほんと? じゃあ、わたしも一緒に行く! 実はね……今日の午後、東夷さまとぐうぜん神社でお会いしちゃったのよ! お邪魔虫の紅鬼も一緒にね!」

「まあ……! それで?」

「どうしてこんな山奥の神社に滞在しているのかお聞きしたの。そうしたら、今回、宮中に出仕する理由がその神社にあったのよ!」

「あの神社は小さいけれどとても旧くて、吉野離宮由来の由緒正しい仏像や宝物がたくさん奉納されているはずよ」

「まさにそれなの! それらの宝物が盗まれていたのよ!」

「まあ……ほんとうに?」

「それらの盗品が中国の宗で発見されたんですって! 宗にいた東夷さまが見つけられたのよ! 朝廷と連絡を取り合って、宗から急遽この吉野へやってきたそうなの。神社の調査のために!」

「では、誰かが神社の宝物を中国へ売り払ったのね? 誰なの?」

「最近、神社に滞在していた中国からきた陰陽師が怪しいんですって! 東夷様が到着する前に失踪していなくなってしまったそうよ」

「まあ! 陰陽師ですって……? 恐ろしいわ……」

「犯人はタイラノ小角オヅノ29歳。わたし、何度か見たことあるのよ! 痩せて特徴のない顔をしていたわ。男のくせに白拍子のように白かったわ……といことで、犯人の人相を知っているわたしに一緒に御所に来て欲しいって東夷様に誘われてるの!」

「その男が犯人で間違いないの?」

「だって、あそこはわたしたちが子供の頃から知ってるおじいさんの神主がいるだけなのよ! それに、宝物殿は都の検非違使が守っていたのよ。並の盗賊の手に負える仕業じゃないわ」

「検非違使が来ていたの? よっぽど貴重な物が納められていたのね……。小角の姓が平ということは、平家の手の者かしら? 朝廷が動くとなると大事だわ。そんな大役が果たしてわたしに出来るかしら……」

「大丈夫よ! 東夷さまだって、小桃には単に侍女や女官になって欲しいだけだと言ってたじゃないの! 小桃は宮中に6年も住んでいたのよ。打ってつけじゃない! 自信をもちなさいよ!」

「それはそうだけど……」


 ◇ ◇ ◇ ◇


 翌日になっても東夷と共に京へ行く決心はつかなかった。

 美咲はすっかりその気で、両親や親戚にすでに話をつけ、宴席を設けて皆と別れを惜しんでいた。

 わたしが行かなくとも明日の朝、東夷たちと出立するそうだ。


 ひとり考え込んでいると、夜更け過ぎに長正からの文が届いた。

 大伴家持が妻に送った三日月の歌が書かれていた。

 三日月を見るとあなたを思い出すという有名な歌だ。


 わたしはその場で長正に宛て、大伴家持の妻が夫に送った露草を詠んだ有名な和歌をもじり返歌として送った。

 露草の花は染色に用いられる。

 色が付きやすいが落ちやすいので下絵などに使われている。

 転じて月草とも呼ばれ、移ろい易いモノの代名詞でもある。

 月草を長正になぞらえ、移り気な性質が嫌なのでこれ以上なにもお話しすることはございませんという意味に替えて歌を詠んだ。

 本来なら復縁を望むはずの歌を、決別の内容に書き換えた。

 賢い長正ならば、わたしの心をわかってくれるだろう。

 これ以上お互いに苦しみたくないということを。


 ◇ ◇ ◇ ◇


――チュピチュピチュピルルルル、チュピチュピチュピルルルル!


 抜けるような青空は京を出立した日と同じだ。

 ツバメが今日もクルクルと高いところで輪を描いている。

 こんなに早く都に戻ることになるとは思ってもみなかった。


「小桃! 夕顔も、はやく、はやくー!」

「美咲様! お待ちくだされ!」

「もう……美咲ったら!」


 早朝3人で東夷のいる神社へといそいだ。

 途中、実家の屋敷の前を通り過ぎた。

 倒れた桃の大木に芽が吹きはじめていた。

 死んだと思った木に、まだ生命が宿っていたのだ。

 良い兆のように思えた。


 わたしも胡蝶から小桃へ、新たな女として生まれ変わろう。

 この桃の木で出来た剣のように。

 あらためて布に包まれた桃剣を見つめた。

 短刀は長正により持ち去られていた。

 きっとこの剣が、わたしを悪しきモノたちから守ってくれることだろう。

 決意も新たに美咲の背を追い、東夷たちの待つ神社へと朝靄を掻き分けいそいだ。

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