第2話
――チュピチュピチュピルルルル、チュピチュピチュピルルルル!
「小桃! ツバメよ!」
「そうね……」
抜けるような青空にツバメが黒い背をひるがえし円を描いていく。
「求愛してるのよ。巣作りが済んだんだわ」
「…………」
そして卵を産み育てる。
自分にはできなかったことを、ツバメたちはいとも簡単に成し遂げていく。
自由に空まで飛べて、なんとうらやましいことだろう。
「小桃、元気だして? ね?」
「美咲……どうもありがとう」
「小桃様……」
乳姉妹の美咲は同い年の幼馴染でもある。
目が大きく小柄で、容姿がわたしと似ている。
陽気で快活、この年まで独身を貫き通す気の強さを持っている。
美咲の家に滞在しているわたしがあまりにいつも落ち込んでいるので、今日は夕顔と一緒に外へ連れ出してくれた。
久々に訪れた故郷の水田は青々として美しく、吉野の山並みは昔と変わらず生き生きとした生命力にあふれていた。
吹く風も心地良く、足下を流れる小川の脇に咲く草花を揺らしていく。
だが、わたしの心は変わってしまった。
どんなにきれいな花を見ても、どんなに心地良いせせらぎに耳を傾けても、一向に気分は晴れなかった。
何を見てもつまらない。
楽しい出来事もすべて、長正との悲しい思い出に転化していってしまうのだ。
「小桃! 木の陰に赤い炎が見えなかった? ほら! あそこ!」
「えっ?」
美咲の指差す道の先には桜並木があり、その若葉の生い茂った木の陰で、何やら赤い物がチラチラと見え隠れしている。
「美咲様、あれは火ではなく、髪の毛ではございませんか?」
「髪の毛ですって? あんな色の髪の人間がいて?」
「むかし遣唐使だった老人に、海の向こうにはそのような人間がたくさんいると聞いたことがございます」
「ほんとうに? だとしたら……南蛮人がいるんだわ! ちょっと見てくる!」
「美咲、危ないわ! やめたほうが……」
だが、美咲は躊躇なく木に近づいていく。
「紅鬼! 頭に巻いた手拭いから、髪がはみ出してるぞ!」
桜並木のうしろにある鎮守の森からとつぜん貴人が現れ大声を上げた。
「真夏様……」
木の陰から真っ赤な髪をした小柄な男が出てきた!
「きゃあっ!」
「美咲、しーっ!」
「あれは……」
貴人と赤髪の男が美咲の声に驚きこちらを振り返った。
わたしも美咲も夕顔も驚きのあまり動けないでいた。
「これはこれは……姫様方、脅かしてしまったようで申し訳ない。わたくしどもは、決して怪しい者ではございませぬ。わたくしは秦真夏と申す者。この度、宮中で蔵人の職に就くため中国の宗から帰って参ったところです。この赤毛の男は紅鬼と申しまして、南蛮から連れてきたわたしの式神のような存在です。歳は17です。姫様方と変わらないのではないですか?」
「残念でしたー! わたしと小桃はもう二十歳を過ぎているれっきとした大人よ! 式神ということは……あなた陰陽師ね!」
「おやおや、姫様ではござりませぬでしたかな? 残念ながらわたくしも陰陽師ではございません。朝廷の命で宗へ勉学に参っていた者です。式神は例えで、紅鬼はわたしの忍びで助手です。主に諜報活動をしてくれています」
「その赤鬼が忍者だというの? 信じられなーい!」
「おい! 赤鬼ではない! 紅鬼だ! このクソ女!」
「なんですってー!」
「まあまあ! 紅鬼も女性相手にやめなさい。ところで……小桃というのは、藤原小桃殿かな? 大きな桃の木の屋敷に住んでいた……」
「まあ! 小桃の知り合い? これはたいへん失礼いたしました!」
美咲が平身低頭して貴人の前に額ずいた。
貴人は慌てて美咲に立ってくれとお願いしている。
彼の人の歳の頃は三十前後か。
黒い烏帽子に光沢のある黄緑色の上衣を身に纏っていた。
足元は草履だが、かなり高貴な人物だろう。
背は長正ぐらいで体躯がしっかりとしている。
鼻筋が通り骨ばった男らしい輪郭に、切れ長の目が涼やかにやさしく知性の光を宿していた。
横に大きく引き締まった口元が、親しみやすい好人物だと示していた。
「恐れいったか?」
紅鬼と呼ばれた小男が美咲の上で偉そうに腕を組みふんぞり返って笑っている。
わたしと同じぐらいの背丈しかないその男は、貴人の衣装の共布で仕立てた子供の着る童水干を身につけていた。
頭に巻いていた手拭いを取り去り、真っ赤な短髪を日に晒している。
初めて見る異人の髪は太陽の光を受けキラキラと光り輝き、まるで紅葉した楓の葉のように美しかった。
紅鬼は和人にはありえない、真っ白な肌をしていた。
南蛮人にしては凹凸のない顔で鼻も口も小さく、その両頬にはうっすらとソバカスが浮かんでいた。
どんぐりまなこは角度によって、翠色の光を帯びていた。
「あんたに恐れ入ってるんじゃないわよ!」
「紅鬼だって、なんど言ったらわかるんだ! 頭の悪い女だな!」
「なんですってー!」
「まあまあ……」
「あのう……わたくしのことをご存知なのですか?」
「おう? やはり面影がある! 小桃殿ですね? わたしのことを憶えていませんか? 中国の逸話が書かれた御本を差し上げたのですが……宗の楓の葉と一緒に」
「まあ! あの御本をくださったのがあなた様なのですか? これはたいへん、失礼いたしました!」
わたしはいそいで夕顔と一緒に貴人の元へ駆け寄り非礼を詫びた。
貴人から嗅いだことのない良い香りがしてきた。
中国の稀少な香かもしれない。
「いやいや、憶えてないのも仕方あるまい。なにぶんにも、あなたが子供の頃の話だ。では、これも忘れてしまったか? 中国の宗から戻ったら迎えに行くと約束したのだが……」
「……申しわけございません、まったく憶えがございません。わたくしは両親を亡くし、7年前に宮中へ参内して女官をしておりました。この度は夫と離縁して故郷に戻ってきたばかりでございまする」
「なんと! あなたを離縁するなんてどこのどいつだ!」
「真夏! またふられたな! 小桃、気にすんな。真夏はもてるくせにふられてばかりなんだ」
「紅鬼! 余計なことを言うな! では、小桃は今どのように生活を?」
「わたくし美咲と申しますが……小桃はわたくしの家におります。わたくしたちは乳姉妹なんです」
「乳姉妹? 姉妹なのに、こんなに違うのかよ?」
「ちょっと! 紅鬼! どういう意味よ!」
「これこれ、紅鬼! 美咲に名前だけでも覚えてもらってよかったではないか? もうその辺でやめろ! 小桃、この先はどうやって暮らしていくのだ? もしよければ……わたしと共に京へ行かないか? ちょうど侍女を探していたところなのだ」
「……たいへんありがたいお話ですが、すぐにお返事できるかは……。あの……もしや幼い頃に女にも学問が大切だと説いてくださったのは、あなた様でいらっしゃいますか?」
「おお、そのようなことを言ったかもな。勉学は大切だ。紅鬼にもなるべくさせるようにしている。では、小桃はわたしの教え通りに勉強して女官になってくれたのだな? うれしいことだ。もういちど宮中に戻り、更に学問を極めてみないか? ついでにわたしの仕事の手助けをしてもらえたら大いに助かる」
「勉学への更なる追求は、たしかに興味がございます……。でも、真夏様のお手伝いとなると、わたくしなどに出来ますでしょうか?」
「なに、仕事といってもそんなに難しいことではない。紅鬼のような忍びの仕事だ。侍女や女官としてあちこちの宮を偵察してきて欲しいのだ」
「そ、そのような……」
「小桃は女官だったから、あなたの顔は宮中内では知られているのか?」
「小桃は和歌所仕えだったから、その点は大丈夫ではないでしょうか? 小桃のことだから、ずっと奥に居て、皆の前に姿を現さなかったんじゃないの?」
「美咲……それはそうだけど……。でも……」
「ならば、よいではないか! わたしたちは明後日の早朝に出立する。わたしの都での通名は東夷だ。和国の蔑称だよ。長いこと中国の宗で学んできたからね。これからは東夷とよんでくれたまえ! それでは! 良い返事を待っているよ!」
東夷は後ろ手を振りながら紅鬼を従え去っていった。
紅鬼の赤い髪が青空を背景にくっきりと浮かび上がり、わたしたちの脳裏にいつまでもこびりついていた。
「小桃! 宮中に返り咲く好機がやってきたじゃない! 東夷様と一緒に行ってらっしゃいよ!」
「美咲……少し考えさせて。宮中には元夫がいるわ。万が一見つかったら大変よ」
「だったら……変装したら? 髪を切って十代の娘になるのよ!」
「それは……それに、今の話だけでは信用できないわ。東夷様は果たして本当に信用できる方なのか。なんの保証もないのよ。危険だわ」
「でも、小桃の初恋の君に間違いはないのでしょう?」
「初恋ですって? 美咲ったら、いったい何を言い出すの」
「だって……わたし小桃に子供の頃に打ち明けられたことがあるわよ。初恋の君に書物を戴いたって」
「ほんとうに? では……わたしが忘れているだけなのかしら?」
「小桃はご両親を亡くしたり女官の試験なんかで大変だったじゃない。きっと、子供の頃のことはきれいさっぱり記憶から消しちゃったのよ。そのうち思い出すんじゃない? あの様子だと、魁夷様は小桃と結婚する気だったみたいじゃない?」
「そんなことは……」
「いずれにしても、これは小桃にとって大きな転機になるかもしれないわ。御前様のことは忘れて、小桃は小桃の幸せを見つけるべきだわ。だって、小桃を押し退けて他の女を正室に迎えたんでしょ? そんな男、わたしは絶対に許せないわ!」
「美咲……事情があるのよ。きっと……」
「小桃……」
「小桃様……」
◇ ◇ ◇ ◇
吉野に来て以来、写経をしたり書を紐解いたりと忙しく暮らしている。
考える時間を無くせば、長正のことも葵の上のことも京の都のこともすべて忘れられると思ったからだ。
だが、ふとしたときに長正の顔が目の前に浮かんでくる。
同時に長正のやさしいまなざしや息遣い、香りや美声、肌のぬくもりさえもまざまざと甦ってくる。
この苦しい想いはいったい、いつになったら晴れるのだろう。
「小桃様……御文が届きました」
「まあ? 桃の刀剣が仕上がったのかしら?」
吉野に来てすぐ、わたしは実家の屋敷跡を訪ねた。
住む人のいない建物の屋根はすっぽりと抜け落ち、剝き出しの床板からは夏草がニョキニョキと顔をのぞかせていた。
屋敷の門前にある桃の大木は、前の嵐で根元からボキリと折れていた。
近くの彫師に頼み、その木で剣と短刀を作ってもらうことにした。
彫師から完成品が届いたのかもしれない。
「……こちらです」
「これは……」
布に包まれた桃の刀剣らしき物と一緒に文が3通あり、その1つに露草が添えてあった。
まさか!
――バサリッ!
御簾を上げ、長正がとつぜん部屋の中へ押し入ってきた。




