第1話
「胡蝶、ほんに……今日の葵の上の歌の素晴らしさといったらなかったぞ……」
「御前様……そうでござりまするか……」
――サラッ……。
衣擦れの音をさせながら、夫の長正がわたしの小柄なカラダを抱えなおした。
2人に掛けられた夜具からは高貴な香りが漂ってくる。
わたしは力を抜いたまま、くったりと長正に汗に濡れたカラダをあずける。
長正のカラダも汗に濡れていた。
――ふわりっ……。ジーッ……。
涼しい風が御帳を揺らす。
初夏の夜の草いきれが、虫の声と共に閨の奥まで這い上ってきた。
「ふふふふ……」
長正が満足そうに冠の下で思い出し笑いをしている。
葵上様を想ってか、はたまた先ほどのわたしとの情事を思い出してか。
どちらにしても耐え難いことだ。
だが、そんなことはおくびにも出さず、さらけ出された長正の汗ばんだ柔らかな胸に耳をつける。
トクトクと心臓の音が聴こえてくる。
「胡蝶、足りなければもっとやろうぞ……」
「……はい」
女に拒む権利はない。
ましてや賤しい身分の自分には。
暗闇のなか引き寄せられ、長正の隣りに横たわる。
御帳の隙間から月の光が流れ込み長正の美しい顔が漆黒の闇へと白く浮かび上がる。
在原業平かくありきという長正の面は、よろこびに光り輝いていた。
今日の歌合でよほどたのしいことがあったのだろう。
葵の上様の読まれる和歌の題材を事前に調べあげ知らせておいたのが役に立ったらしい。
それに呼応するような歌を詠んだ長政が帝にでも褒められたのだろう。
長正はとにかくおだてに弱い。
まだ若いのだから仕方のないことだが。
「胡蝶、どうした? 疲れたのか?」
「いいえ……御前様、そんなことはございませぬ。月映えする御前様の美しい容貌に、一瞬ことばを失っていたのでございます」
「今宵の胡蝶はよくおしゃべりするものだ。どれ、もそっとこちらへ……存分にかわいがってやろう」
「御前様……」
「胡蝶……」
「あっ……」
今年23歳になる胡蝶にとって長正は初めての男だ。
婚姻してもうすぐ半年が経つというのに、いまだに恥ずかしさが抜けない。
だがそれも、闇のしじまに打ち消されていく。
長正との閨に夢中になっているうちに夜が白々と明けていった。
◇ ◇ ◇ ◇
――カサカサ、カサッ……。
「御前様……?」
「胡蝶。寝てまいれ。今日は早朝から葵の上が睡蓮の花を見に行かれるとの噂があるのだ」
「……そうでございまするか」
「そのまま宮中へ出仕する。体調はどうじゃ?」
「大丈夫でございまする。お気をつけていってらっしゃいませ」
「いってまいる。ゆうべは無理をした。今日は1日寝てまいれ」
「……はい」
うつらうつらしたまま夫に抱きしめられ、そのまま横たえられた。
――カサッ。
御帳が揺れ衣擦れの音と共に長正が去っていく。
この瞬間がいちばん悲しい。
庭を踏みしめる長正の沓音が、香の匂いと連れ立ちどんどんと遠ざかっていっていく。
露草たちが濡れた頭をもたげながら、見送っていることだろう。
それを最後に再び夢のなかへと旅立っていった。
◇ ◇ ◇ ◇
――チチッ! ピピピピ、ピピッ!
「はいとは言ったけど、1日中寝ているわけにもいかないのよね……」
御殿のあちこちで人々が立ち働く音が耳に届きはじめる。
けだるいカラダを持ち上げて、なんとか起き上がった。
むあっとした空気が御帳の隙間から上がってくる。
今日も暑くなりそうだ。
「御方様……お食事の用意ができました……」
「夕顔、どうもありがとう。御前様が早朝に出かけてたいへんだったことでしょう。皆も少し休んでくださいね」
「そんな……もったいのうございます」
今年16になる夕顔は地方豪族の出身で、わたし付きの侍女として従事してくれている。
教養高く品の良い控えめな娘だ。
自分も16のときから宮中に仕えていたので、夕顔の気持ちがよくわかる。
初めてきた都と慣れない土地や水に寂しくて仕方がないはずだ。
ことあるごとに労いの言葉をかけるようにしている。
夕顔に手伝ってもらいながらカラダ中に咲いた赤い花を陽光から隠していく。
葵の上を想いながら散らしたのであろうか。
赤い花弁から長正の香が立ち昇ってくるような気がした。
長正は従五位の殿上人だ。
先帝の子で去年18歳になったばかりだ。
在原業平のように美しく聡いと小さい頃から神童ともてはやされきた。
だが、長正を産みすぐに亡くなった彼の母君は位がとても低かった。
たぶん、わたしと同じく地方出身の豪族の娘だったのだろう。
帝のお住まいから1番遠い淑景舎を与えられていたため、桐壺更衣と呼ばれていた。
長正は母君の顔を知らない。
亡き桐壺更衣の代わりに入内した女御の連れ子で10歳年上の義理の姉である葵の上を、本当の母のように慕いながら育ったそうだ。
長正の初恋の君、そして現在も恋焦がれて止まない存在それが葵の上だ。
容姿端麗、学問や楽器演奏に優れ、気のきいた会話もできる頭の良い女性ともっぱらの評判だ。
葵の上の母君は若くして亡くなった。
彼女はそのまま29歳になる今日まで淑景舎に住み続け桐壺姫と呼ばれている。
葵の上の元を訪れる男性は数知れず。
長正の義理の兄、現帝の情人だとの説もある。
恋多き絶世の美女和泉式部の再来と呼び声高いその噂の一端を担っているのが、和歌の腕前だ。
これには裏がある。
文や色紙への代筆者はひとりだが、各々の男によって和歌の代作者がいるのだ。
かくいうわたしもそのひとりだった。
吉野の豪族のひとり娘だったわたしは、16歳のとき両親を病で相次いで亡くした。
そのとき勧められた縁談を断り、女官を志し京の都で試験を受けた。
無事合格したわたしは、和歌の腕前を買われ女としては異例の和歌所の召人に抜擢された。
その後、葵の上様の和歌を代作する役目を仰せつかったのだ。
その相手が長正だった。
当時まだ12歳。
さりげなく指導を交えながら返歌を送った。
長正は覚えがよく、メキメキと和歌の腕前を上げていった。
寂しい宮中勤めのなか、長正との和歌のやりとりだけがわたしの心の支えとなった。
そしてそれはいつの日か、4歳も年下の長正に対する恋心へと変わっていたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
昨年、長正が18歳になろうとしていた。
長正は葵上を想うあまり決して妻帯しようとはしなかった。
だが、18ともなるともう申し開きできない年齢だ。
長正の親戚が相手を探しはじめた。
わたしは遂に長正との決別のときがきたと観念していた。
せめて文だけでも続けてもらえることを切に願いながら。
だが、その願いが思ってもない形となって叶えられた。
在原業平の再来とも言われる麗しの若人長正の正室に、このわたしが選ばれたのだ。
ひどく屈辱的な事情からだった。
長正は親戚達にこう宣言した。
自分は葵の上があきらめきれないので絶対に妻帯はしたくない。
だが、葵上は血が繋がっていないとはいえ義理の姉上だ。
現時点では婚姻はおろか情人になるのも無理がある。
自分の18歳という年齢上どうしても正室を迎えなくてはいけないというのであれば、葵の上と同じように自分より年上の行き遅れの位の低い女を選んでくれ。
葵の上と自分の立場が代わり結婚できるときがきたら簡単に離縁できるからだ。
その条件に合う女とだけ婚姻する。
そこでまず初めにわたしが選ばれた。
年齢が長正より4つも上で身分が低い。
しかも和歌所で葵の上の和歌の代作をしていた。
それだけでも長正が気に入るだろうと踏んだのだ。
和歌所の召人たちは仰天した。
なぜなら、一も二もなく断ると思っていたわたしが、その場で長正の正室の話を受けたからだ。
◇ ◇ ◇ ◇
長正が誕生日を迎えた長月の夕刻、帝より賜った新しい御殿に霜を踏みしめながら輿入れした。
その御殿には露草がたくさん咲くので、その後、長正は露草の君と呼ばれるようになった。
長正は婚姻を機に帝より従五位を賜り少納言へと昇進した。
輿入れといっても、地方の貧乏豪族のわたしに満足な道具など揃えられるわけがない。
長正の母君の妹、叔母にあたる親切な夫婦が準備してくれた。
その夫婦は子供がいないため、長正の親代わりとして今まで彼と一緒に暮らしていた。
わたしのことも本当の娘のように可愛がってくれている。
婚礼の夜に初めて会った長正は想像以上にきらびやかな人だった。
髪はツヤツヤと豊かに黒光りし玉のように白くすべすべとした肌は女よりよほど美しかった。
手足が伸び伸びとして首も長く背がとても高い。
声は大きく快活で、どこかへ木霊するかのようにうち響いていた。
やさしそうな大きい瞳に高い鼻、赤く引き締まった唇の下には形のよい丸い顎。
額の生え際や後れ毛も絵巻物のようで、美男と言われる条件をいくつも持ち合わせた人物だった。
冠の被り方や紐の結び目ひとつにも個性と趣味の良さが滲み出ていた。
明るい性格で少々子供っぽい印象を受けたが、どこをとっても素晴らしい貴人でまことに葵上ほどの人物でないとつりあわないと思われた。
自分のような者が彼の正室に納まっていいのものかと、今更ながら大いに戸惑った。
わたしは勉学は得意だが容姿にはまったく自信がない。
小柄な割にはぽっちゃりとしたカラダをしているし、大きな黒目は眉もまつげも濃く垂れている。
唇もぼってりとして赤く厚めだ。
極めつけは頭髪で、少し茶色がかってうねっている。
両親が亡くなるまでは明るく活発な性格で無邪気によく笑っていたが、宮仕えになってからは何事にも慎重になり、ひとりで物思いに耽ることが多くなった。
親戚達がすぐにわたしという正室候補を見つけてきたので、長正は最初ひどく戸惑ったようだ。
まさか本当にすぐ離縁できる女が見つかるとは思っていなかったらしい。
葵の上以外とは添い遂げる気がなかったので、周りに無理難題を押し付けることで、結婚を回避できた気でいたのだろう。
だが長正は、婚姻前にわたしと文を交わし始めて気が変わった。
わたしの文章や歌をひどく気に入り、ひんぱんに文を寄こしてきた。
6年前から見慣れた長正の筆書には、天気の話からはじまりたわいのない日々の出来事とそして葵の上への想いが綴られていた。
だがそれは、初めてわたしに向けて語りかけてくれる内容となっていた。
長正は次第に結婚に乗り気になり、婚礼間近になると早くわたしに逢いたいとまで書いてくるようになった。
ある日、長正が牛車の隙間から見えた道端に咲く露草に関する感想を綴ってきた。
わたしはその道端の露草を自分に見立て歌を返した。
いくら可憐であろうとも、路傍の花が宮中へ入れば雑草だ。
すぐに引き抜かれ打ち捨てられることだろう。
牛車の下で誰にも気づかれずその日のうちにしぼむ露のように儚い花が、自分のようで哀れに思えた。
その歌を長正はことのほか気に入り、ことあるごとに話題にした。
「とても慎み深く心情あふれる良い歌です。和歌の手本のようですね。わたしたちのお子にも自慢できますよ」
「御前様……お恥ずかしゅうございます……」
2人の間にはいまだに子ができない。
予兆すらない。
婚姻からすでに半年以上が経過しているというのに。
そのことで、毎日のように葵の上の侍女が嫌味を言いにやって来る。
侍女の言葉は葵の上の心情そのものだ。
長正への文では思わせぶりな和歌だけで真心のカケラも無かったくせに、いざ他の女のモノとなってしまったら惜しくなったらしい。
ましてわたしは身分も低く長正よりも4つも年上だ。
長正は結婚してから葵の上への文をパタリとやめてしまった。
それも含め、葵の上はわたしという存在が邪魔なようだった。
葵の上だけではない。
宮中じゅうの女たちが、突然あらわれて長正を掻っ攫っていったわたしという正室を嫌っていた。
道端の雑草など気にしなければよいものを。
わたしと長正の間には結婚前から、葵の上という大きな御簾が掛かっていた。
◇ ◇ ◇ ◇
少女の頃は野山を駆けまわるお転婆で、十代に入ってからは勉学ばかりしていた。
結婚は元々する気がなく学問だけに興味があった。
そういえば野山を駆けずりまわっていたころ、女も勉強して努力すれば道が開けると誰かに教わった。
あれはいったい誰だったのだろう。
それまでは元気に外で遊びまわっていた娘が一転して本や書物を紐解きはじめたため、両親はひどく驚いていた。
あの出逢いがなければ、わたしはいまごろ地方豪族の老人に嫁ぎ子供を産み育てていたことだろう。
その結果このような華やかな生活が送れていることは、いまだに夢を見ているような気分だ。
婚礼前、長正の文の内容は葵の上のことから次第に新婚生活の興味へと移り替わっていった。
女を知らない長正は、年ばかりくっているわたしをかなりの経験者だと思っていたようだ。
実際は宮中の奥で和歌ばかり詠んで年月を重ねていただけなのに。
実際、ひどく戸惑っていた。
婚姻の意味を知識としてはわかっていた。
事前に世話役の女から口頭で説明を受けた。
だが、最後の1点だけは濁されてよくわからなかった。
想像どおりだとしても、そんなことが本当にできるのだろうか。
世の中の人々がそれをしているとは、どうしても信じられなかった。
長正からの文には初めての体験を心待ちにしている、とてもたのしみだと綴られていた。
男にとっては喜ばしいことが起きるらしい。
それは女には苦痛だが、同時にうれしいことのようだ。
その辺の兼ね合いがよくわからなかった。
とにかく抵抗せずに歯をくいしばれと指導された。
なすがままがいちばんよいそうだ。
相手のすべてを受け入れることだと言われた。
考えれば考えるほど恐ろしくなった。
わたしの年齢を考え経験済みだと思ったようだ。
それ以上の詳しい説明をしてくれなかった。
これでは準備のしようがない。
あまりに不安になり、婚礼の前の日にとうとう長正の叔母の元へ参上して恥を偲んで聞くことにした。
「まあ……! 胡蝶殿、それならそうと、もっと早くに言ってくだされば……」
「この年で、お恥ずかしゅうございます……。どこかで経験してきたほうが……」
「いいえ! それはなりませぬ! わたくしが説明して差し上げますから、大丈夫ですよ!」
「ありがとうございます……」
女は書物を使って詳しく教えてくれた。
わたしはやっと理解し、同時に怯えた。
「安心なさい。長正にも話しておきますから。無理強いするなと言っておきましょう。やさしくするように言い聞かせます!」
「はい……」
叔母の言うとおり、その日の長正からの文には誤解していた旨の侘びと絶対にやさしくするという誓いの言葉が書かれていた。
わたしは安心して婚礼の日を迎えることができた。
◇ ◇ ◇ ◇
長月の吉日に露草御殿に輿入れして長正と初対面した。
月光に照らされ婚礼の儀式を行う長正は、この世のモノとは思えないほど美しかった。
このように素晴らしい貴人と婚姻できるなんて、この場で死んでもいいとさえ思えた。
これから未知の世界に踏み出すのだ。
心のなかは不安でいっぱいだった。
ドキドキしながらそのときを迎えた。
暗闇に長正の香の匂いが近づいてくる。
「胡蝶殿……」
ガタガタと震えながら長正の差し出す手に手を重ねた。
「寒いのですか? ほら、ご覧なさい。月がきれいですよ」
――カタンッ。
夫が御帳を少しだけずらした。
ひんやりとした冷気が褥の中まで上がってくる。
隙間から御簾を通し冴えた三日月が見えた。
「きれい……」
「胡蝶殿もすごくきれいだ。あのような美しい筆と文章を起こす女性がどのような方かとずっと懸想しておりました。想像以上に素晴らしい御方で驚いております。叔母から期待しておけと言われていたのですが……」
「そんな……お目汚しです……。お恥ずかしゅうございます……」
下を向き袖で顔を隠した。
「そのように隠さずに……。今宵の月が沈まぬうちに早うひとつになりましょうぞ」
「……はい」
わたしたちは美しい三日月になぞらえお互いの想いを和歌に詠み、その後、床を共にした。
「御前様……」
「胡蝶殿……隠さずに……きれいだ……」
「あっ……」
「気持ちいい……こんなにすばらしいものとは知りませんでした……」
魅力的な長正を目にして彼の香の匂いや息遣いを前にすると、なんの躊躇もなく身を任せられた。
頭にぼやんとモヤが掛かったようになり、長正の手や熱い肌に夢中になった。
カラダの奥底から欲望が湧き起こってきて、あんなに心配していたことが嘘のようにふたりはすんなりと儀式を終えることができた。
苦しみと共によろこびがくるという書物の言葉に充分に納得をした。
いちばんうれしかったことは、長正がとても喜んで満足してくれたことだった。
彼がうれしいとわたしもうれしい。
喜びをふたりで分かち合えることが夫婦のいちばんの幸せと学んだ夜だった。
翌日の朝、お互いの気持ちを和歌に詠んだ。
一輪の花を手折り我が物にした喜びと同時に、花を散らした罪悪感を詠んだ素晴らしい歌を長正はわたしに寄こした。
「実は事前に用意してあったのです。でも、ちゃんと自分で考えたんですよ。ずるはいけませんからね? 幼い頃より、どんなにひどい作品であったとしても、必ず自分の手で作り上げたものを差し出すようにと教育されてきました。今朝はそれに一筆書き加えました」
「まあ……どのような……」
「あなたと契れたわたしの喜びの心です。読み取れましたか?」
「御前様……」
22歳にもなってわたしは、朝からうれし涙を流していた。
誰かが見たらハシタナイと忌み嫌われそうだが、長正はやさしくそれを指先でぬぐい抱きしめてくれた。
「胡蝶殿……カラダが辛くはないか? 寒いだろう……こっちにお寄り……」
「はい……」
――カサッ……。
長正の香の匂いに抱きすくめられながら、朝の陽光のなかで女の喜びを知った。
それは幸せと呼ぶにふさわしい瞬間だった。
◇ ◇ ◇ ◇
それから半年以上が過ぎ、長正の心は再び葵の上に戻ってしまった。
なぜならば23歳になったわたしには子が出来ぬ上に最近、葵の上が宮中の近くに大きな屋敷を建て住みはじめてしまったからだ。
ときどき宮中に戻り泊まってはいくが、帝とは完全に縁が切れたともっぱらの評判だ。
その証拠に、淑景舎に葵の上の代わりに新しい更衣が入内した。
また、葵の上は帝と義兄妹の縁を切り源の姓を捨てた。
葵の上には大金持ちの後ろ盾が出来たのだとの噂されていた。
そして葵の上は、なぜか熱心に夫選びをはじめた。
当然、長正もその相手に立候補した。
葵の上の夫選びに奥地に住む豪族たちまでもが参戦してきた。
若く負けず嫌いの長正はそれだけで闘争心をむき出しにしていた。
熱心に文を書いては、毎晩わたしに相談を持ちかけてくるようになった。
◇ ◇ ◇ ◇
「ハハハハ! まったく、長正にはあきれるよ! このように才のある美しい正室がいるというのに!」
「冬嗣! なぜ我が妻が美しいと知っているのだ! そなたまさか……! 覗き見したな!」
「滅多なことを言うな! 少納言の正室は和歌所に出仕したころより話題になっていたではないか。おまえが葵の上ばかり見て他のおなごを知ろうとしないからだ。女官の試験で歴代最高点を取り先帝のお側仕えにしようとしたところ前皇后様より横槍が入り和歌所に追いやられたのだ。歌の天才との呼び声があったのは確かだがな。御方様は当時すでに16歳でございましたな? 適齢期を過ぎていたのに矢のような求婚の文が届いたそうじゃないですか? ときの太政大臣からもあったとか。それなのに誰にも返歌を出さなかった。どうしてですか?」
「冬嗣! おまえはわたしより歳が1つ上なだけなのに、なぜそんなに妻の昔の話に詳しいのだ? さては狙っておるな! わたしは葵の上を正室に迎えても、妻は手放さないぞ!」
「幼馴染のわたしをなんだと思ってるんだ! そこまで節操無しではないぞ!」
初夏の夕暮れどき、長正の幼馴染で従五位の侍従である橘冬嗣が露草殿を訪ねてきた。
長正と同じぐらい背が高く目鼻立ちがはっきりとした美丈夫だ。
歳が長正と1つしか違わないのに、大人で社交的、話もたいへん上手だ。
よって女性関係がたいへん派手で有名だ。
陽気でさっぱりとした性格はあまたの美女の心を虜にしている。
正室を持たないのは意中の女性がいるからではと昔から噂になっていた。
「わかるものか! おまえは女にだらしないではないか! 妾を何人つくった?」
「貴族のたしなみさ。それよりも……御方様を正室からはずされるのか? かわいそうではないか……」
「そういう取り決めなのだ。本来は離縁だったが、それは嫌なので叔母の屋敷に住んでもらう」
「だったら、葵の上の屋敷におまえが通えばよいではないか」
「だめだ。葵の上は正室を望んでおられる」
「やれやれ……あの女性は容易く手に入るような人間ではないぞ」
「それだけ、雲上人のように希少価値のある女性だということだ」
「そういう意味ではないのだがな……。希少価値なら御方様は負けてはいないぞ。おまえとの縁談が起こったとき、絶対に断ると皆そう思っていたのに、あっさりとこの露草殿にやってきた。宮中じゅうが驚いたぞ。あの鉄壁の女官殿がふたつ返事で輿入れするとは……」
「そうなのか? トントン拍子に婚姻できて、目出度いではないか」
「それでは、長正によい話しをしてやろう」
「おまえの話などろくなことがあるまい。また女の話か?」
「図星だが、まあ、ちょっと聞け。御方様もよろしいですか?」
「はい」
「ある男が、地方で見知らぬ女と共寝した」
「また浮気の話か? 一夜限りだったのだろう?」
「朝起きて気がついた。これはわたしが生まれて初めて抱いた女だと。当時はかなり入れ込んでいた。いまでも月の美しい晩などにはときどき思い出していた。かなり年上だったが……」
「はっ? 顔を見るまで気がつかなかったのか?」
「顔じゃない。屋敷を出るときにその女だと気がついたのだ。つまり女にまったく憶えがなかった。魅力的な女ではなかったので、それきり会うこともなかった」
「それは……つまり……」
「年月が経ち、あまりにも変わってしまったのだ。女だけじゃない。自分自身がだ」
「ふーん……それがどうしたというのだ? 記憶力の悪い男の話だろう?」
「長正は、まったく物事の風情がわかっていないな。人の印象は年月と共に変わるということだよ。嫌な事は忘れ去られ、思い出ばかりが美化される」
「それは安易に葵の上が年増女だといいたいのか? 妻だって年上だが、これだけ若々しくかわいらしいのだ! 葵の上だって生き生きしているにちがいない」
「やれやれ……けなしているのかのろ気ているのかわからんな。御方様、お気になさるな。この男は幼いころの洗脳をこじらせ妄想の塊になっているだけです。そのうち現実を突きつけられ尻尾を巻いて逃げ出しましょう。なんともおめでたい、いやかわいそうな男よな。御方様、行き場がなくなったらわたしの元へどうぞ。この男より出世頭ですし、正室の座はずっと空いたままです」
「冬嗣め! やはり妻を狙っておるではないか! 今日もいったい何しに来たのだ! まさか……妻に会うためにわざわざここまで遠回りして……!」
「長正経由で借りた御方様の御本をお返しにあがったまでだ」
「そんな物は宮中でわたしに手渡せばよいではないか!」
「いや、その書物のなかに不思議な物があったのでな」
「不思議な物?」
「これだ……」
冬嗣が差し出した手の上には、枯れた楓の葉が1枚だけ載せられていた。
御簾を通して見たが、ただの真っ赤な枯葉だ。
特に不思議なところはないように思えた。
「これがどうした? 楓の押し葉をしおり代わりに本に挟んでおいただけだろう」
「いや、これは我が国の楓ではないぞ。中国の物だ」
「中国の? ほんとうか? 御方、この枯葉はどうしたのだ?」
「……憶えがございません」
そうは答えたがよく思い出してみると、遠い昔に誰かにもらった物のような気がしてきた。
葉の形が水かきのある蛙の手に似ているところから楓と呼ばれるこの植物は『大切な思い出』という花言葉を持っている。
この押し葉をくれた人がそう教えてくれた。
あれは誰だったのだろう。
「遣唐使が廃止される前に誰かがみやげ代わりに持ち帰ったものでしょう。では御方様、楓の葉と共にたしかにこの書物をお返し致します」
冬嗣がわたしの御簾の前に本を置いた。
彼の香が夕暮れどきに吹く涼しい風に乗りフワリと漂ってきた。
いかにも風流人のつける香りだ。
とても品がよい。
古びた書物の上にはやけに鮮やかな赤い楓の葉が乗っていた。
まるで、今そこで狩ってきたかのごとく鮮明だった。
「冬嗣、その本はそんなに面白いのか?」
「子供が読む書物だが、中国の逸話が載っている希少本だ。いちど読んでみたいと思っていたので助かった。御方様はよくこのような書物をお持ちでしたね?」
「なにぶん、子供の頃の物なので……」
子供のときに読んで依頼、この本を開いたことはなかった。
だから押し葉の存在に今まで気づかなかったのだ。
不思議な啓示のようなものを感じた。
「ところで長正、その箱はなんだ? まるで仏像でも入っていそうな大きさだが?」
「おおっ、あれか?」
冬嗣が扇で指し示した廊下の奥には、昼近くにどこかから届けられた人の上半身ほどの大きさの桐の箱が置かれていた。
「あれは葵の上から頼まれた木彫りの雷神像だ」
「雷神だって? 葵の上から? なんでまた?」
「この露草殿を造るにあたり、入り口に宮中から左近の梅を戴いて挿し木しただろ? 梅は菅原道真の怨霊からの雷除けだ。御方は藤原姓だから心配でな。それを聞きつけた葵の上から、手持ちの雷神像を預かって欲しいと頼まれた」
「雷神の祟りの火事を恐れ、自分の新築の屋敷には持ち込みたくなかったということか」
「相当大切な物らしく、絶対に衝撃は与えるなと注意を受けている。直射日光や火の気に気をつけ、湿気の少ない場所に保管してくれとのことだ」
「花火みたいな像だな。そのうち爆発するんじゃないのか? 雷神みたいに……ピカッ! ゴロゴロゴロゴロッ!」
「おい! 脅かすな、御方が震えてる」
長正が御簾の下からわたしの手を握ってくれた。
わたしはホッとしながら長正の手を握り返した。
箱に入って見えないはずの雷神が、こちらを睨みつけてくるような気がして恐かった。
「やれやれ! これはとんだ邪魔者だ! 退散するとするか。おい! 長正! 左近の梅だけじゃなく、我が一族の右近の橘も植えろよ! ハハハハ……!」
冬嗣が大きな高笑いをしながら露草殿から去っていった。
強い風が吹き日が暮れはじめた。
虫が一斉に鳴き出した。
冬嗣の沓の下で、露草たちはすでに萎んでいる。
あたりはすっかり夜の気配を匂わせはじめた。
「冬嗣の橘など植えるわけがなかろう! 植えるなら桃だ! 雷神に投げつければ退散するし、斬り殺す刀剣が作れるからな? 胡蝶?」
「はい……」
長正が再び手を強く握りしめてきた。
わたしもそれに応える。
長正は知らないだろうが、わたしの幼名は小桃だ。
生まれた家には桃の大木がある。
いつか長正にその木で刀剣を作って差しあげたい。
長正はとてもやさしい。
床も毎晩、一緒だ。
よそに女もつくらない。
それでも、長正の心をいちばんに占める女性は葵の上なのだ。
それは想像以上に悲しい現実だった。
廊下の片隅に置かれた雷神像が、そのことを強く象徴していた。
◇ ◇ ◇ ◇
――バサリッ!
「胡蝶! 胡蝶!」
「はい、御前様」
「見てみろ! 今宵も星がきれいだぞ!」
「ほんとうに……」
「この美しさを歌ってみよう! いますぐに!」
「はい。あっ! 今、流れ星が落ちました!」
「では、わたしが葵の上に選ばれるよう祈っておくれ。胡蝶! 良い歌がひらめいたぞ! どうかな? 葵の上のお気持ちに寄り添うことができるかな?」
「こちらへ……灯かりの下で確認しましょう」
閨のなかまで葵の上でいっぱいだ。
心が伴わない人と一緒にいるときほど辛いことはない。
割り切って受けたはずの婚姻だが、最近では長正と会うことがひどく苦痛になってきた。
「御前様……ここはもそっと柔らかい表現で……。蝶はわたくしを連想させてしまいますのであえて使わずに……」
「我は蝶の夢を見たのだ。それは嘘ではないぞ。おまえのように美しかった。おまえの夢だったのかもしれない……」
「御前様……」
「胡蝶……もう寝よう。こちらにおいで……」
「はい……」
――カサッ……。
褥の中は今夜も長正の香りでいっぱいだ。
抱かれれば抱かれるほど、長正に惹かれていく。
長正は最近ようやく子供っぽさが抜け、大人の男へと成長しつつある。
髪や肌は更にツヤツヤと艶めき、胸板も厚くなりはじめ筋骨たくましい若者へと変化を遂げていくことだろう。
美しい声はさらに張りが出た。
丸みを帯びた顔の輪郭も顎がツンと尖りはじめ大人の容貌を見せはじめた。
そのうちたくましいその背中を見せながら、わたしの元から去っていくのだろう。
永遠に。
それを想うと自然と涙があふれてくる。
「胡蝶、どうした……?」
「いえ……なんでもございません……」
「悲しげな目をしている……。案ずることはないぞ! 胡蝶の面倒は何があっても最後まで見るからな。安心いたせ」
「はい……」
「胡蝶……」
「あっ……」
そしてまた、めくるめく閨の世界へと引き込まれていく。
悩みも不安も何もかも有耶無耶のまま日が過ぎていった。
◇ ◇ ◇ ◇
「……そういうことだから、明日の朝いちばんに出ていけ!」
「…………」
「どうした? 何か不服か? 最初からそういう約束であっただろう? 吉野の里には使いを出した。お前の乳母の家が受け入れてくれよう。牛車はこちらで用意する」
「……わかり申した」
長正との別れは突然にやってきた。
葵の上の使者として宮中の女官がやってきた。
今宵、葵の上と長正が婚礼を行う。
明日から露草の君の正室は葵の上になる。
それまでにわたしは、故郷の吉野へ旅立たなければならない。
御簾の奥で涙を零しながら荷物をまとめ、扇の下で嗚咽を噛み殺した。
冬嗣に貸した例の書物を置いていった。
楓の花言葉の想いを込めて。
その日、長正は露草殿に帰らなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
――ピピピピピッ! チュンッ! チュンッ!
見上げるばかりの青空が広がり、出立にふさわしい爽やかな朝だった。
夜中過ぎまで降り続けた雨が露草の雫となり、今にも零れそうに滴っていた。
まるでわたしとの別れを惜しみ泣いているように見える。
「御方様、そろそろ……牛車の御者が……」
「夕顔……あなたまで一緒なんて、申し訳なくて……」
「よろしいのです! わたくしはどこまでも御方様と一緒です!」
「もう、御方ではないのよ。胡蝶と呼んでちょうだい」
「胡蝶様……おいたわしや……」
「参りましょう……なつかしい吉野へ」
牛車の下で露草の頭が下を向くころ、宮中から遠く離れた道の途中で長正のことを想いひとり涙にくれていた。
吉野の里に着いてなお、その涙がかれることはなかった。