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くるおしい

作者: akko



春には静かに、死が漂って居る。


「春になると生きたいという気持ちが出てくるが思うが同時に死にたくもなる」「なあ、みちる」


 男は私の腰のあたりを踏み付けたまま、そんなことをいった。「はあ」と、私は気の抜けた返事をした。足を退ける気はなさそうだ。 はて。何故こんな状態になったのだろうか。私は自室で寝転がって暇を持て余していただけなのに。突然障子が勢いよく開いて、男が入って来たと思ったら、足で身体を転がされ、瞬く間に私は男の足の下に敷かれてしまった。体重はかけられていない(彼にも良心というものはある)が、障子は開けられたままであり、何時誰かが部屋の前を通るかもわからない。私は今のこの状態を客観的に見てみたい。人に何事だと聞かれた時の言い訳を考えようとしたけれど、喉が渇いて、何も思い浮かんで来なかった。

 「ねえ。草介。私、君に何かしたかなあ」

 掠れた声でそういった。草介の長い足の間からは、桜の木が見える。花は風にゆらゆらと小さく揺られている。満開を迎えた桜は、あとは散って行くだけ。短い命。だからこそ人は桜に憧憬するのだろう。限りがあるものは、何だって美しく見えてしまう。

 畳みはひんやりとしている。このまま頬を付けていたら、跡が付いてしまう。だから早く足をどけて欲しい。「ねえ。草介ってば」なかなか返事をしてくれない彼に、私はまた声をかけた。

 「お前は俺に恨まれるようなことはしていない。安心しろ。今日俺が此処へ来たのは、お前に伝えねばならないことがあったからだ」

 彼がそう言い終わると同時に、私の腰のあたりにあった重みが、すっとなくなった。そこにあった熱が去って行く。私は自由の身になれたようだ。私は身体を仰向けにして、彼を見上げた。そこには、色白で嫉妬するほど整った顔があった。

 彼は、涼しい視線で私を見下ろした。

 「何よ。伝えることって」私は身体を起こすことなくそう言った。

 「誘いだ。花見の」彼は歯切れ良くそう言って、口許に弧を描いた。

 はあ。私はまた間の抜けた返事を一つして、桜の木に目をやった。そして、小さく、花見か、と呟いた。

 「明後日の昼。場所は中庭を予定している。場所が限られているから、今回は上級生のみに声を掛けている。お前が個人的に誘いたい奴がいたら読んでもいいぞ。ただし煩い奴は呼ぶな。常識がある奴を選んで呼べよ」

 旧友、しかも女の私を足の下敷きにする君には言われたくないよ。と思ったけれど、じっとりとした視線を送るのみで、口には出さなかった。

 「じゃあナナは呼んでいいね」

 「ああ。尾﨑ならカンゲイだ」

 そう言って、彼は何事もなかったように、背筋を綺麗に伸ばして、部屋を出て行った。

 彼がいなくなった後の部屋には、まるで蝉の抜け殻のようになった私だけが残された。

頬を伝う、ひんやりとした畳の冷たさが気持ちよかった。今日は授業がないから、このまま夕食まで眠ってしまおうか。ナナが部屋に戻って来たら、布団を掛けてくれるだろう。  私は起き上がることをせず、まるで鰐のように畳を這って、障子を閉めに行った。一本の腕で、ゆっくりと片方ずつ、障子を閉めていく。段々と細くなっていく視界に、最後まで優しげな水色の空と聴色をした桜の花弁が映っていた。

 

 花見当日は快晴で、空は雲一つない青い空だった。まだ少し風が冷たいが、お昼の空気は、もうすっかり春の匂いがした。

 私たちが花見をすることを知っていたのか、先生は、授業を五分程早く切り上げてくれた。

 そのおかげで私とナナは、速歩で中庭に向かう必要はなくなった。同じ教室で授業を受けていた同級生の何人かは、無邪気な子供みたいに、号令が終るのと同時に、速歩で教室を出て行った。廊下を走り、先生に注意を受けている生徒もいた。

 「私達の場所、残っているかな」と、ナナが言った。

 「大丈夫だと思うよ。授業も早く終わったし。草介達がきっと、場所を取っておいてくれていると思うから」

 私がそう答えると、ナナは「そっか」と言って、柔らかく笑った。

 

 中庭には、数十人の生徒が適当に敷かれた御座と青いシートの上に座っていて、既に花見を始めていた。私達は、桜の花弁が舞い散る中、草介達の姿を探した。

 「ミチー!こっちこっちー!」

 奥の方から、聞き慣れた声が聞こえた。私達は声のした方を見ると、いずみが立ち上がって、こちらへ向かって手を振っていた。側には草介、千里、直が座っていた。

 「あら。もうみんな揃ってる」と、ナナが言った。私は、彼等に手を振り返して、座っている生徒の間をぬうように、彼等の居る方へと向かった。

 「みんな早いのね」と、私はいずみに言った。

 すると彼は、「そうなんだよ。事情を話したら、裕木先生が授業を早く切り上げてくれて」ほんと、良い先生だよね、と言って嬉しそうに笑った。草介はナナに施されて、千里の隣に座った。いずみが座るのと同時に、草介がシートから立ち上がった。

 「誰が最初に花見を?」私は草介に尋ねた。

 「いずみだよ」

 彼は素っ気なくそう言って、いずみと千里の方へ視線を向けた。

 「でも、計画を立てたり準備をしたのは草介でしょう」私が問うと、彼はゆっくりと頷いて、小さな溜息を吐いた。

 「御座とかシートの手配は千里がやってくれた。声掛けは主に俺がやった。中庭の許可を貰ったのも俺だよ」

 じゃあ、言い出しっぺのいずみは何をしたの、と問うと、草介は「あいつは食堂に今日の花見用の弁当を用意してくれるように頼みに行ったんだ」と言った。

 それだけ?と私が言うと、彼は、ああ、それだけだ。と言って、歩き始めた。

 「待ってよ。どこ行くの」私は咄嗟に草介にそう言った。彼は振り向かずに「冬次朗を呼んでくる」と素っ気なく言った。

 「ミチーなにしてるの。こっちおいでよ」

 後ろからいずみの声が聞こえ、すっかり遠くなった草介の姿を見つめながら、私は小さく返事をした。

 桜の花弁が舞うなか、私たちは、弁当を食べながら、お互いの成績のことや来月の試験のこと、眠れない夜にすること等、色々な話をして、一時間ほどのお花見を楽しんだ。

 冬次朗は、お花見がお開きになる数十分前に、彼を呼びに行った草介と共に現れた。冬次朗は、花見のために委員会の仕事をすっぽかした草介の分の仕事をしていたのだった。

 草介は彼を呼びに行く途中、廊下で委員会担当の先生に会い、冬次朗に自分の分の仕事を任せて、自分は一足先に花見に駆け付けたことがばれてしまい、委員会に連れ戻され、さらに反省文を書かされたというのだ。冬次朗は、草介が反省文を書き終えるまで、彼の事を待っていた。もうとっくに仕事は片付いて、私たちのところへ来ることもできたのに。

 「お前はほんとにいいやつだな。冬次朗。俺だったらこんなやつのことなんか考えないで真っ先にここに来るぜ」

 こんなやつ、という千里の言葉が気に入らなかったのか、草介は鋭い目つきで千里を見た。千里はそれに気付くと、冗談だよ、というように両手を頭の上に挙げた。

 「僕は冬次朗みたいに、草介のこと、待っていてあげるな」

 いずみがそう言うと、千里と草介は冷ややかな視線を彼に送った。それに気付いたいずみは、不思議そうな表情を浮かべたあと、何時ものように柔らかく笑った。

 「冬次朗はいいやつだな!それに比べて草介、お前はとんでもないやつだ。お前の分の弁当は罰として俺が食べてやる」人一倍大きな声を中庭に響かせて、直が言った。

 「それはいい考えだな。俺も手伝ってやるよ」

 「いや、千里、お前の手伝いはいらん。俺だけで全部食べられる」

 「そういうなって」

 「いや、ほんとうにいいんだ」

 「いや、でも直」

 「千里、正直にお弁当分けてくれって頼めばいいじゃない」

 「待てお前たち。勝手に話を進めるな。俺は一言もお前たちに弁当をやるとは言ってない」

 「あきらめろ草介。これは罰だ」

 「だまれ千里」


 まるで子供のような会話が、側で交わされる中、冬次朗とナナと私の三人は、穏やかにお弁当を頂いていた。

 「悪いな。遅れて。それに弁当までとっておいてもらって」

 「何言ってるの。当然のことだよ。気にしないで」

 その会話を聞いてたナナは、いたずらな笑みを浮かべたあと、「みちるね、冬次朗くんが来るまでずっと、冬次朗くんの分のお弁当、大事に抱えていたんだから」と言った。

 私はその発言を聞いた途端、急に身体中の体温が上がり、頬が火照っていくのを感じた。

 私は何も言えないまま、ナナの肩を叩いた。

 「ちょっと、痛いな。いいでしょう。本当の事なんだから」彼女はそう言って、またいたずらに笑った。

 ナナから視線を外し、冬次朗のほうに視線を送ると、彼と一瞬目が合い、私はすぐに目を反らした。冬次朗は、目を細めて、柔らかく笑っているように見えた。

 「私、お手洗い行ってくる。お茶、飲み過ぎちゃったみたい」

 ナナはそう言って立ち上がった。私も彼女に付いて行こうと、立ち上がろうとしたけれど、彼女にやんわりと肩を掴まれ、阻止されてしまった。彼女は、無邪気な子供のように笑うと、校舎へと小走りで向かって行った。

 ナナの姿を呆けたように見た後、目線を泳がせていると、冬次朗と目が合った。私はまた、すぐに目線をそらして、口元だけで小さく笑った。

 「お前は、この弁当のおかずの中で、何が一番好きだ」

 突然、冬次朗がそう言った。

 私は顔を上げ、目を見開いて彼を見た。彼は割り箸を交差させていた。

 「卵焼き、かな」消え入りそうな声で、私はそう言った。すると冬次朗は笑って「俺もだ」と言った。私はその瞬間、心臓が大きく高鳴ったのが分かった。

上を見上げると、桜の花弁の隙間を縁取るようにして、日射しが射し込んできていた。

 桜の紅は、日射しによって、みるみる褪色していってしまいそうだった。

 「冬次朗」

 「何だ」

 「今夜、部屋を抜けられる?」

 それを聞いた冬次朗は驚いたような顔をして、目を見開いた。そして、私から目線をはずし、少し考えたあと、そのまま、黙ってしまった。

 後ろから、草介達の声が聞こえる。けれど、何を言っているのかはわからない。私は何も言わなかった。沈黙は嫌いじゃない。冬次朗との間に流れる沈黙は、夏の終りのような空気を含んでいて、心地が良い。

 「冬次朗」と、沈黙を破ったのは私だった。

 「夜の桜をね、見に行きたい」

 その言葉を聞いた冬次朗は、小さく笑って、言った。

 「付き合うよ」


 花見の片付けは、私たち最上級生のみで行った。上級生は手伝おうとしてくれたけれど、次の授業に遅れるから、と言って断った。

 「今度は全員でできるといいね。先生も入れてさ」

 一緒にシートを片付けていたいずみが言った。

 「そうだね。でも来年になったら私達、もう卒業して、学園ここにはいないよ」

 私がそう言うと、彼は「ああーそっかあ…」

と、残念そうに言った。

 「最上級生になった実感、ないんだよね。制服の色が変わっても、何にも感じない。今までは、嬉しかったのに」そう言って彼は上を見上げた。桜を見ているのだろうか。

 「慣れ過ぎたのかもね。学園ここに」

 私がそう言うと、彼は上を見るのを止め、私のほうを見た。きょとんとした顔をした後、柔らかく笑った。それを見た私は、少し切なさを感じた。

 ここは私たちにとって学び舎であり、ホームでもある。私の帰る場所は、ここしかない。

 だけれど、私たちは来年の春、桜が咲く前に、ここを卒業する。そうしたらもう、ナナや草介、千里、直、いずみ、そして冬次朗と一緒にはいられない。皆、はなればなれになる。

 「来年もみんなで、見ようね」と、いずみが言った。

 私は、少し遅れて「うん」と返事をした。

 夕食前の休み時間、ナナに、今夜、冬次朗と夜桜を見に行くことを話すと、彼女はめずらしく興奮した様子を見せた。それからは、夕飯の時も、お風呂に入っている時も、まるでお酒でも飲んだのかと思うくらい、彼女は饒舌だった。部屋を出る時、私は、もう一度だけ、先生が巡回して来た時はよろしくね、と彼女に言った。彼女は、屈託なく笑って、いってらっしゃい、と小さく手を振った。

 

 風のない夜だと思った。人目を避けるようにして、私は、宿舎を出て、速歩で中庭へと向かった。昼間に、大勢に囲まれていた一本の桜の木は、夜の闇の中、ただ、凛と立っていた。太陽の柔らかな日射しの中で見る時よりも、その存在は、不思議なくらいに大きく見えた。その倒れることなど想像ができないくらいに荘重な根の近くに、冬次朗は立っていた。私に気付くと、彼はゆっくりと、私のほうに向かって歩いてきた。

 彼の後ろに、桜が淡い白い光のように、浮かび上がっていた。冬次朗。私は小さく呟いた。彼が夜の闇に紛れこんで、どこかへ行ってしまいそうで、怖かった。

 「待った」

 「いや」

 私が問い掛けると、彼は短く返事をした。近くで見ると、着ている着物の模様が麻の葉模様だということが分かった。

 「こんな模様の着物、持っていたんだね」

 「ああ」

 寝巻きにしているの?と問うと、彼はまた短く「いや」と返事をした。

 「お前、寒くないのか」

 そう言われて、私は、自分の今の服装を確認しようと、視線を下に向けた。寝巻きの上に羽織を着ているから、寒くはなかった。菫色の羽織は、夜の闇と同化してしまっていた。

 「寒くないよ。平気」

 私はそう言って、桜の木の根元に向かって歩き始めた。冬次朗は何も言わず、少し遅れて、私の後ろを、歩き始めた。

 「冬次朗、卒業したら、どうするの」

 途中、私は立ち止まって、そう言った。

 冬次朗は今どんな表情をしているのか、分からなかった。沈黙が流れた。私は何故か、昼間のもののように、それを心地良いとは思えなかった。

 「俺は」「学校に通うよ」

 低く、落ち着いた声音で、冬次朗は言った。

 私は短く「そう」と返した。

 「お前はどうすんだ」今度は、冬次朗が問い掛けてきた。先程までより、少しだけ大きな声だった。

 「私は」「私は、学校に行く。それで、あきさんの働いている孤児院――ほら、クリスマスイヴに私たち行ったでしょ――そこで住み込みで働きながら、学費を払うの」

 私はそう言って冬次朗のほうを振り向いた。

 彼は黙って、少ししてから口を開いた。

 「もう決まっているのか」

 「うん。裕木先生や学園長先生が、向こうの理事長さんたちと、春休み中に何度か話し合いをしてくれたの。私も、夏休みに入ったら、挨拶に行くの。あきさんとも、会えるといいな」

 短い沈黙のあと、冬次朗は「そうだな」と呟いた。

 「みんなが、急に遠くに行っちゃうのは、寂しいね」

 そう言って私はまた歩き出した。冬次朗もゆっくりと歩き始めた。二つのビー玉が擦れた時の、あの独特の音が頭の中によみがえった。

 「ねえ、冬次朗。私が死んだら、死体を学園ここの桜の下に埋めてね」

 桜の木の根元まで来て、上を見上げながら、私は言った。冬次朗は、眉間に皺を寄せて言った。

 「阿呆。今からそんな遺言みたいな事言うな。女のお前は俺より長生きしないと駄目だろうが」「俺は死んだら、海に投げ棄てられることを祈るよ。魚なんかの餌になって、海に返るんだ」

 私は、死んで、船から海に投げ棄てられる冬次朗の姿を想像した。彼は白い毛布にくるまれて、安らかな顔をして、まるで眠っているようだった。

 「私はひとりぼっちにならない」

 「死ぬときは、みんな独りだ」

 

 春になれば、皆が桜の下に集まってくれる。

 皆の笑い声を聞いていれば、淋しくない。


 「私が死ぬときは、冬次朗、笑っていてね。絶対に」

 そうしたら、私はもう、怖くない。

 死ぬのなんて怖くない。こわくないんだ。

 冬次朗は、私のほうを見て、悲しそうに笑った。


 「紅、引いてくればよかったかな」ぽつりと、私はひとりごとのように呟いて、冬次朗を見た。冬次朗の目は、濡れているような気がした。

 私たちは少しの間、お互いの目を見つめ合った後、どちらからともなく笑った。

 「私、死ぬなら今がいい」私は言った。それを聞いた冬次朗は笑うのを止めて私のほうに、ゆっくりと腕を伸ばした。冬次朗の大きな手が、柔らかく頬に触れた。手は少しだけ震えていて、擽ったいその感覚に、私は肩を震わせ、目を瞑り、また笑った。冬次朗の手から逃れようと、身体を後ろに引こうとした時、彼のもう片方の腕が伸びてきて、両手で頬を包み込んだ。私はゆっくりと目を開けて、私より二十センチ身長の高い彼を見つめた。

 「擽ったいよ」 放して、冬次朗。と言う前に、彼に抱き締められた。それは今までで一番、強い力だった。私は苦しくて、彼の背中をとんとん、と軽く叩いた。けれど、彼は私を抱き締める力を弱めようとしなかった。

 むしろ、私を抱き締める力は強まった気がした。酸素を求めて、彼の胸板から逃れるように、顔を上へと向けた。私はもう一度、冬次朗の背中を叩いたが、ほとんど力は入らなかった。私は苦しくて、身体に力が入らず、全体重を冬次朗に預けた。彼は一瞬よろめいて後退ったが、すぐに体勢を直した。そして、私を抱き締めたまま、ゆっくりと、地面に座り込んだ。

 私は冬次朗の胸板から、すぐに顔を放して、彼の肩に顔を預けた。そして、口で精一杯、息をした。冬次朗の息遣いは、何時もより乱れていたけれど、私よりも随分と穏やかなものだった。冬次朗は、私の背中を、まるで赤ん坊を寝かし付けるように、軽く叩いていた。 

 それが心地良くて、私は眠ってしまいそうだった。時折吹く風は、昼間とは違って、冷たかった。

 「帰ろう。風を引く」少し掠れた声で、冬次朗が言った。私は、重たくなった目蓋をゆっくりと開けた。同時に、生温かいものが、ゆっくりと片方の頬に伝った。私はそれが涙だと、すぐに気付けなかった。

 「立てるか」冬次朗がそう言った後、私は首を縦に動かした。彼は私を支えながら、ゆっくりと立ち上がった後、私の着物をやさしくはたいてくれた。私も冬次朗の着物をはたこうとしたけれど、彼に制止されてしまった。

 「部屋まで送る」

 「だめだめ。先生が巡回してたら見つかっちゃう」

 「もう見つかってたりしてな」冬次朗がそう言って、私たちは笑った。

 「じゃあ、門の前まで送る」

 「平気。一人で帰れる。もう子供じゃないんどよ」私がそう言うと、彼は顔を歪めて、舌打ちまでした。

 「じゃあ分かったよ。門の前まで、お願いします」その言葉を聞いた彼は、満足そうに

口元にゆるやかな弧を描いた。

 約束通り、私は冬次朗に、宿舎の門の前まで送ってもらった。

 「ありがとう」

 「いや」

 「おやすみ、冬次」

 「ああ。おやすみ」

 短い会話を交わして、私と冬次朗は別れた。私は足音を立てないように、部屋に向かっ

た。途中で、誰とも出会うことはなかった。

 

 部屋に入ると、微かに息遣いが聞こえた。ナナは既に眠っていた。戻って来るまで絶対に起きているから、と言っていたけれど、疲労と睡魔には勝てなかったらしい。私はなるべく足音を立てないように、部屋の隅にある鏡台へ向かい、静かに座った。真ん中の引き出しから、真新しい紅を取り出し、左手で強く握り締めた。容器の角が指の腹に食い込み、微かな痛みを感じた。冬次朗に抱き締められたまま、死んでしまいたかった。最後まで冬次朗の体温を感じながら、窒息してしまえばよかった。


 「春というのはどうしてこうも死にたくなるのだろう」

 先日、草介が言った言葉が、頭の中によみがえった。

 「うつくしいからだよ」

 私はひとりごとのように、そう呟いた。うつくしいからだよ。

 花も、草も、空も、空気も。うつくしくて、人間がどうしようもなく、ちっぽけで、虚しい存在に思えてしまうからだよ。

 

 私は左手に握っていた紅を、鏡も見ずに、ゆっくりと唇に引いた。今私の唇は、熟れた林檎のような、鮮血のような、赤に染まっているのだろうか。想像して、私は何故か可笑しくなって、笑った。目頭が熱くなって、忽ち涙が頬を伝う。生温かいそれは、夏の訪れを知らせる風のようだと思った。

 眠っているナナを起こさないように、声を押し殺して泣いた。涙はとめどなく眼から溢れ、流れ落る。 夜がこのまま明けなければいい。夜なん て、もう二度と訪れなければいいのに。そうしたら私はもう、不安になどならないのに。早く朝が来てほしい。鳥たちの声を聞きたい。陽射しを浴びたい。その温かな陽射しに溶けて、ひとつになってしまいたい。陽射しに紛れて、この世から消えてしまいたい。

 生まれ変われるのならば、花になりたい。できるなら、向日葵か桜がいい。蒲公英や彼岸花でもいい。暑い日も寒い日も、しっかりとした茎で立って、簡単には倒れぬように。

 そして雪の下で眠り、冬を越す。


 左手の甲で、乱暴に唇を擦った。そこには紅がしっかりと付いていた。薄暗い部屋の中で見るそれは、時間が経ち、黒く変色した血のようで、あまりきれいな色ではなかった。

 私は目の前の鏡に映った、自分の顔を見た。 まるで人を喰らった後の妖怪のようだと思って、怖くなった。私は忽ち寒気に襲われ、鏡から眼を反らした。喉がからからに渇いて私は水を欲して、足音を立てぬように、慎重に、部屋を出た。


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