九話
襖が開いた先にはかすかに宴の香りが立ち込めていた。
十畳の大広間が三つ並んでいれば、その間仕切りの襖を取り払うと合わせて三十畳にもなる。横長の広い空間に一文字に大机が連なり、その上には山脈のように土鍋やおひつが並べれている。それらを囲んで所狭しと配された肴の数々の中には、私たちが持ち寄った土産の品もあった。
中央に座る栄兵衛さんが手招きで呼んでいる。その向かいには色違いの座布団が敷かれた空席がある。そこにあやめと並んで腰を降ろした。
手許の杯に給仕人がお酒を注いでゆく。他にちらほら見えていた空きも程なく埋まると、栄兵衛さんが声を発した。
「そろそろ揃ったか? んじゃ、始めるか」
「それでは不肖私めが。遠白山右栄兵衛様、そして識神府よりいらっしゃいました司式栞様のお誕生日を祝いまして、乾杯!」
「かんぱーい!」
皆が一斉に杯を掲げるのに合わせて私も両手で持ち上げた。そして杯に口をつけ、傾ける。透き通ったお酒の舌触りには険がなく、香りもすっきりしていて柔らかい飲み口だ。
すぐに土鍋の蓋も開かれ、ぼおっと溢れ出した山菜と出汁の香りが鼻腔をくすぐった。渦巻く湯気が晴れて現れたのは寄せ鍋だった。よく煮えた葱がぐつぐつと湧き立つ泡に揺らされ、色づいた白滝はいかにも味が染みていそうだ。
「栞様見てください、このしいたけの重量感!」
早速お椀に具をよそったあやめが、大きなしいたけの傘を摘まんで差し出してきた。
「おぉ、本当だ。いただきます」
肉厚のそれを食んで噛み千切る。なかなか噛み応えがあり、旨味も強い。残った一片を口に入れたあやめの顔も綻ぶ。
栄兵衛さんが呆れた調子で言う。
「相変わらずなんだな。ところでどうだ、誕生会は?」
「ん。そうですね。随分あっさりとしているというか、式典って感じがしないのは意外ですね」
周りを見ても各々がわいわい宴を楽しんでいて、祝辞を述べたりというのはない。もう少し特別な場を想像していたのだけれど、むしろ豪勢な食卓といった雰囲気だ。
「そりゃそうだ。誕生会ってのはわいわい騒ぐための口実みてぇなもんだ」
「なるほど。ますます識神府にないのは惜しいですね、皆生真面目で固いものですから」
「だろだろ? 是非ともそっちでもやるべきだ。ちなみにその折にはうちの酒を飲んでくれると財政が潤う」
「それはないと思いますけどね」
そう言って一口お酒を飲む。
「意外といえばこのお酒もですね。もっと辛いのを想像してましたが」
「宴の場じゃ甘口が多いな。居酒屋だのに行くと辛味が人気なんだが、肴の違いかね」
肴の照り焼きを食べてみると、塩気は控えめでむしろ甘めのたれを塗られていた。たしかに辛味よりは甘味が合うだろう。
「実のところ辛いのは苦手でして、これは助かります」
「そりゃ良かった。ところで、生尾人の嬢ちゃんは飲まねぇのかい?」
「私は飲酒法に引っ掛かるんですよ」
栄兵衛さんが話を振ると、あやめはそう言って胸の前でお吸い物を揺らした。先程の乾杯もあやめがかざしていたのはお吸い物のお椀だった。
「未成年ってのは意外だな。――あぁ。そうか」
あやめ自身にも自分がいつ生まれたかは分からないらしい。私とあやめが出会ったのは五年前で、あやめを育てていたしょうろう様の話ではもう二年遡った時に出会ったという。お役所はその七年を年齢として戸籍に載せているわけだ。お役所仕事としては他にも例があることで、記憶喪失なんかは〇歳から数え直しだ。あやめも記憶喪失なのかもしれないけれど、そこは生尾人の謎に包まれている。
その後も寄せ鍋と肴に舌鼓を打ち、杯を干すのも何度目かという頃、給仕が新しい徳利を持ってきた。
「司式のお二方が下さいました、どぶろくでございます」
「ん? どぶろくなんて持ち込んできたのか。よく腐らなかったな」
「腐敗や熱を妖精とみなして冷やっと封じるんですよ。近道すればぎりぎり保つんです」
「それであんな宿場から外れた村に来たのか。変だとは思ってたが」
栄兵衛さんが差し出した杯に白く濁った酒が注がれる。
「このどぶろくは甘いですよ。なにせ識神府の食べ物は甘いかしょっぱいか甘じょっぱいかですから」
「どれどれ……うおっ何だこれ!? 酒とは思えねぇ程甘ぇぞ!?」
「飴を溶かしてます」
「そりゃ反則だろ……」
思わずむせてしまった栄兵衛さんの様子に失笑し、私もどぶろくを注いでもらって飲み干す。私にとっては日頃から飲んでいる慣れ親しんだ味だ。
「親父は好きそうなんだがなぁ」
栄兵衛さんが杯のどぶろくを眺めてぽつりと言った。
「えぇ、あの領主が?」
「意外なことにな。時々どうしても甘い物が欲しくなんだと」
遠白山の当主といえば広く名の知れた生粋の剣士だ。私が生まれるより前にあった妖精討ちの偉業などは半ば伝説として語られるほどだった。甘い物好きなんていうのは意外という他ない。
「今日は来れなかったのが残念ですね。なんでもご多忙だとか」
「まあ、仕方ねぇんだろうな。有名人だし、どうしても時間が取れないときもあるだろ」
栄兵衛さんの様子は少し寂しそうに見えた。
「じゃあその領主さんの分まで楽しめばいいんですよ。はい、栞様。あーん」
「あーん」
あやめが白滝を摘まんで持ち上げた。それを私の口に近づけたとき、丁度、襖が勢いよく開け放たれた。
「急いで参った!」
「きゃっ」
「熱ぅ!?」
驚いたあやめの手許が狂って、熱々の白滝が口許に張り付いた。薬味の利いた出汁が容赦なく柔肌を苛んでくれる。
「ん、すまないな。大丈夫か?」
「は、はい、なんとか」
取り払って顔を拭われている間に、栄兵衛さんの驚いたような調子の声が聞こえた。
「お、親父ぃ? 仕事で忙しいはずじゃ」
「部下に押し付けてきた。どうせ小難しい話は専門家に任せているのだからな」
見れば、襖を開け放って入ってきたのは栄兵衛さんの父、遠白山右栄丸だった。交じり始めた白髪にこそ老いを見て取れる。けれど着流しを節くれ立ったように盛り上げる程の体格や、直剣を連想される芯の通った佇まいには得も言われぬ凄みがあった。
私の顔を拭った手ぬぐいと入れ替わりにあやめは徳利を手に取った。
「貴方が件の領主さんですね。どぶろくはいかがですか?」
「貰おう」
栄丸は手近な空きの杯を拾って畳に座り、差し出したそれにあやめがどぶろくをなみなみと注ぐ。杯が完全な水平を保たれているからか、白い水面は盛り上がっても溢れない。
杯が傾けられると、ほうという息が漏れた。
「随分と甘いな。――いかにも彼奴が好んだだろう味だ」
「結局誰の好みなんですかね?」
「間違いなく彼奴さ。……おっと、言い忘れていた。誕生日おめでとう、圀盛」
「諱は止してくれ。人前じゃ恥ずかしいからさ」
改まった様子の栄丸に、栄兵衛さんは照れくさそうにした。
「本名はそういうんですか」
「ああ、そうだ。『栄』の字も系字の『盛』から取っている。栄枯盛衰と言うだろう?」
栄丸や栄兵衛という名は通称で、古名にはそれとは別に諱と呼ばれる本名がある。系字というのは一族の諱に引き継がれる共通の文字だ。
「そうだ、司式の嬢ちゃん。本物の剣豪の目には嬢ちゃんがどう見えるか、知りたくないか?」
栄兵衛さんが申し出た。
「いいんですか? たしかに興味はありますけど」
「構わねぇさ。だろ、親父」
「ああ。とすると、やはりこの娘がお前の話していた者だな」
そう言いながら、栄丸は私を見た。見透かされるような、静かで揺るぎない眼差しに気圧されそうになる。
しかし、眼差しは怪訝げなものに変わった。
「すまないが、立ってはくれないか」
言われたとおりに立ち上がると、ふむ、と栄丸が呟いて顎に手をやった。栄兵衛さんと同じ仕草だ。
「まるで死の間際の老剣士だな」
「うら若き乙女なんですけど?」
久し振りに青筋が浮いた。あやめに宥められる。
栄丸はわざとらしく咳払いをして続けた。
「失礼した。――筋が異様に衰えている。体幹だけは残っているようだ。病衰、にしては健康な肌がおかしいか。しかし、所作が洗練されているから衰えた筋でも無理なく立ち振る舞える」
「所作、ですか?」
思ってもみなかった言葉だった。自分の動きなんて気にしたことがない。
「ああ、所作だ。無駄がなく、隙がない。立ち上がる動きも芯がぶれずに通っている。一方で、普段しないことをするとやたら疲れたりはしないか?」
「……ありますね」
過去を見てこられたかのように言い当てられ、どきっとする。つい少し前に雨戸を相手に疲労したばかりだ。我ながら情けない話だけれど。
「疲れるのはともかくとして、無駄や隙がないというのは武人のそれと全く同じだ。栄兵衛の言っていた虚仮威しの気迫もこれに起因するのだろう。武芸の心得はあるか?」
「才能だけですよ。自慢じゃありませんけど」
「それは自慢だろ」
栄兵衛さんが苦笑する。栄丸の眼は真剣味を帯びてきていた。
「しかし、才覚だけならば大したものだ。あまりにも自然体で、いっそ一つの境地に至っているといってもいい。今からでも剣を持ってみるのはどうだ?」
「すみませんけど、剣には嫌な思い出がありますので」
顔を横に振る。初めて剣を触ったときのことを思い出すと、一緒に不快な感触まで思い出された。自分が刀を持つなんて考えられない。
「それは残念だ」
栄丸は肩を落とし、自分で徳利を取ってどぶろくを注いだ。
「近頃はめっきり剣士を志す者が減ってしまった。代々引き継いできた道場も警邏に貸して久しいものだ」
「平和な時代ですからね」
「そうでもない。妖精討ちや、最近では殺人鬼の噂など物騒な世の中だ。護身用の脇差は需要があるが、その先の剣術は求められていないのだろう」
溜息をついて、栄丸はまた杯に酒を注いだ。次々と飲んでいるけれど、大丈夫なのだろうか。
しばらく他愛ない話をし、土鍋の底も見えてきた頃には栄丸の顔は真っ赤になっていた。
「だいたい、栄兵衛もなぜ嫁を作らない。もう二六歳だぞ?」
「親父だってお袋と籍入れたのは二五だろ……」
「お前はその二五を超えたのだ。ほら、ここの娘はどうだ? 随分親しげに話していただろう。その上剣の才能まであるぞ!」
「親父は剣でしか話ができねぇのか! てか酔ってるだろ!」
とうとう徳利に直接口を付けがぶ飲みし始めた栄丸を皆で押さえつけ、その間にあやめが残りの肴なんかを平らげて誕生会はお開きとなった。
( ˘⊖˘) 。o(こいつらいつも何か食ってるな)