五話
目を覚ました時には、とても珍しいことに、布団を被っていた。普段なら先にあやめが起きていて、掛け布団が剥がされてある。そういう時は涼しさだとか肌寒さだとかが眠気覚ましになる。一方で今朝みたいな温くて柔らかい感触はいっそ独特だ。まだ夢の中にいるかのような曖昧な感覚の中で、随分と益体ない考えごとをしていたような気もする。
やっと意識がまとまってきて、もぞもぞともがき、どうにか布団から抜け出せた。私の布団は一畳より小振りなもので、背の低い私には不自由がない。
けれど隣に並べた同じ大きさの布団では、獣の耳を生やしたあやめが窮屈そうに丸まっている。獣の耳の先が壁に掠るとむず痒そうにひくひくと震わせ、仕切り布から溢れた陽光を睫毛の長い目許に受けても瞼は閉じられたままだ。こうして私よりも朝が遅いのは、私が布団を被っているのと同様珍しい。
うんと背伸びで筋を伸ばして眠気を追い払う。今の私は襦袢を着た寝巻き姿のままだけれど、一人では着替えることもできない。寝息を立てるあやめはすぐに目を覚ましそうにはなく、かといって起こしてしまうのも憚られた。しばらく悩んで、この姿のまま少し散歩することにした。はしたないけれど外聞を気にする性分でもない。
引戸を敷居の上で滑らせると、外の景色はすっかり明るくなっていた。埋込箪笥から下駄を片足取り出して両手で抱え、引戸の向こうの土に置く。もう片足も持ってきて並べ、鼻緒に足を差し込んだ。
雀駕籠の置かれた空き地から村の中心へ歩く道すがら、昨晩は見えなかった村の全貌を眺める。
この村は山間にぽっかりと開いた盆地にある。底の平に近い場所には白葉川から水路を引いて田に水が張られ、四方の斜面には段々畑が刻まれている。畑からの道は水田の隙間を縫って寄り集まり、一本の太い馬車道に合流して城下町へと続く。瓦葺の家屋はその合流点あたりに集まっていた。
平屋の多い中心部では、慌ただしさも失せて数人の警邏が行き交うばかりだ。その中に大あくびをする栄兵衛さんを見つけ、駆け寄って声を掛けた。
「おはようございます、栄兵衛さん」
「ぅああ、おはよう。なんで着替えてねぇんだ?」
「あやめがまだ起きてないもので」
「あーそうか、着替えも引っかかんのか」
栄兵衛さんにもがさつな面があるからか、寝巻き姿への反応は素っ気ない。これが楡なんかに見つかると口うるさく叱られるから、こういう気楽に話せる相手はありがたい。
「ところで。結局、例の罪人がどこに行ったか分かりましたか?」
「それが全くでよぉ」
気になっていたことを尋ねると、栄兵衛さんは鼻を鳴らした。
昨晩聞いた話では、この村に匿われていた罪人は殺人鬼だったという。四つ腕などの身体特徴から第一種妖精だと断定されている。第一種妖精というのは、原則的に人間と同じ法が適用される亜人だ。
けれど、夜通し村人を取り調べるうちに話が変わってきたらしい。
「誰に聞いたって多腕の殺人鬼を隠してたなんて知らねぇと言いやがる。唯一、お前の従者と戻ってきたガキだけが化け物を見た事があるって言ってたくらいだ。どうにも、本当に匿ってたのは藪草の一味の子供らだってよ」
「子供? ああ、それでこの村の皆さんも盗賊なんかと協力してたわけですか。子供に罪はなくても捕まえる価値はあるから」
神出鬼没の盗賊団の子供たち。親の素性や盗賊団の動きについて知っていてもおかしくない。捕らえられれば盗賊の撲滅に近づくはずだ。
「藪草がこの子たちだけでもって言って土下座までして預けてたらしいぜ? そいつらは俺らが着く直前に川下へ逃がしたってよ。……やっぱ妙なんだよな」
栄兵衛さんは顎の無精髭をさすった。
「妙って?」
「そもそも俺ら警邏はここに藪草どもの子がいたなんて知らなかったんだよ。多腕の怪人を見たって通報と、誰かが匿われてるらしいって密告があったから殺人鬼がいるって考えた。当の殺人鬼はどこ行ったんだか」
「最初からこの村にはいなかったんじゃないですか?」
「だといいがね。それ以外にも、去り際の藪草の言動もおかしいんだ」
「あの少年が上手く逃がしたって言葉ですよね」
昨晩藪草が消えた後、当然ながら私たちも根掘り葉掘り事情を訊かれた。偶然雀駕籠のところに来た少年が誰も連れていなかったのは、駕籠の外にいた牛頭と馬頭も保証している。その後の様子も、誰かを逃がすというような感じではなかったはずだ。それに、先ほど栄兵衛さんも子供たちは川で逃がしたと――。
ここまで考えて、ふと違和感に気がついた。
「子供たちを逃がそうとしてるのに『さっさと下呂れよ』と言うのも変ですね。直前に川を下っていったってバレたら、子供たちが捕まってしまってもおかしくない」
「そうなんだよ。単純に、自分たちの都合で関係ない人が拷問に遭うなんて耐えられない! なんて思ったのかもしれねぇが、んな殊勝な奴らかねぇ?」
藪草の考えはよく分からん、と栄兵衛さんは話を括った。
「んじゃ、俺はぐっすり仮眠取ってくるわ。嬢ちゃんは危ないことにゃ首つっこまないでまっすぐ城に行けよ」
今更な忠告に舌を出して応える。
「嫌ですよ、近くで人死にがあるなんて。……って、栄兵衛さんは? 明日までに戻れるんですか?」
そもそも私は栄兵衛さんに招待されて城を訪ねる途中だ。この分だと当の栄兵衛さんが不在になりかねない。
「時間掛かりそうだったら部下に押し付けるさ」
「はぁ。では、また明日」
会釈して栄兵衛さんと別れ、雀駕籠の方へ戻る。そろそろあやめも起きていることだろう。
駕籠を置いていた空き地に戻ると、あやめと少年が正対して一騎討ちのような形になっていた。興奮した様子の少年がにじり寄るとあやめは低い声で威嚇しつつ退く。
「……何やってるの?」
呆れた私の声に、あやめは振り向きもせず反応する。
「おはようございます栞様。見ての通り耳の貞操の危機です」
少年を見ると、確かにその視線はあやめの獣の耳へ注がれていた。
少年は鼻息を荒くして私に話しかけてくる。
「えっと、栞さん、でいいんですよね?」
「うん。司式栞」
「はい、栞さん。――あやめお姉ちゃんって生尾人だったんですね!」
ふしゅーっと鼻息を吐いて指をわきわきと動かしながらの言葉だった。大袈裟な反応だけれど、少年の気持ちも分からくはない。知る人にとっては生尾人は只の第一種妖精ではないのだ。
「生尾人のお目にかかれるなんてまたとない機会ですよっ! 昨日は気付かなかったのが勿体無い! お耳に触らせて!」
「はいはい、落ち着いて」
二人の間に割って入り少年をいさめる。少年をこれ以上近づけるとあやめが怖がってしまう。
「…………ふぅ。取り乱してました。ごめんなさい」
我に返った少年がぺこりと頭を下げた。こういう行儀の良いところからはしっかり者という印象を受けた。生尾人についても知っていたし、勉強熱心な子なのかもしれない。
「ところで、君はどうしてここに? 向こうの建物で警邏の人たちと一緒に居るはずだけど」
「子供から順に解放するって言ってました。みんなは馬の世話したり山に入って遊んだりしてます」
「へぇ。それもそうか」
「栞様、無駄話せずこの危険人物を遠くに追いやりましょう」
私を盾に隠れるあやめが警戒を解かないまま唸るように言った。腰が引けている分の体重を私に掛けてきているけれど、私にも支えられずあやめにもたれて『人』の字のようになっている。
「いいじゃない、耳を触らせるくらい」
「触らせてくれなきゃ、栞さんといかがわしいことしてたって言いふらしますよ?」
「きょ、脅迫には屈しませんっ」
あやめに寝巻きの後ろを引っ張られて息苦しい。肘で小突いて離させ、もたれていた背を伸ばす。
一息ついて少年に言う。
「君もそんな言い方じゃ駄目だよ。頼みたいならあやめと仲良くしなきゃ」
「うっ……。そうですね。あやめお姉ちゃん、ごめんなさい」
後ろをちらっと見ると、先に謝られたあやめはばつが悪そうにしていた。その後ろにさっと回り込み、背中に飛び乗ってやる。
「きゃっ!? し、栞様?」
私をおんぶする体勢になったあやめの頭は、ちょうど少年の目の高さにあった。強張った耳は陽射しを浴びて艶めいている。
「ほら、触らせてあげなよ」
「ぅぐ」
あやめは随分長いこと逡巡していた。あれこれ唸って、やがて息を吐いた。
「……いいですよ」
そう言ってあやめは俯いた。獣の耳が少年に差し出される。
「あ、あっ、ありがとうございます……!」
少年は目を輝かせ、恐る恐る手を伸ばす。指先が触れると、びくんと耳が跳ねた。短く整った毛並みがゆっくりと撫でられ、それに合わせ軟らかい耳の先が形を変える。
しばらくして、名残惜しげに指が離れた。少年は手を胸に抱いてお辞儀をした。高揚に体を震わせている。
「ありがとうございました!」
「どういたしまして」
あやめはそっぽを向いて応えた。その頭をわしゃわしゃと撫でて、私はあやめの背中から飛び降りる。
「ああ、そうだ」
少年に聞いておきたいことがあった。
「君、四つ腕の怪人を見たことがあるって聞いたよ」
「はい。何ヶ月か前に村に来た子たちと山で遊んでいたら、はぐれてしまって、そのときに遠目でそんなものを見た気がしたんです。……そういえば、さっちゃんにもきーくんにもお別れを言えてないんですね」
「その二人とは仲良かったの?」
「はい。ちょうど歳も近くて」
「そっか。君の名前は?」
「えっ? 真田造ですけど」
「造くんね。もしその子たち――さっちゃん、きーくんの居場所が分かったら手紙を出して教えてあげる。会いに行ってあげなよ」
「いいんですか?」
「会っても大丈夫なら、ね。その時のためにも健康でいてね? それと、造くんの見た四つ腕、殺人鬼だって話だから気をつけること」
「はい、分かりました」
「よろしい。それじゃあ、さようなら」
別れの挨拶を済ませると、少年は村の中心へ駆けていった。親にでも生尾人に触ったことを自慢したいのかもしれない。それを見送って、雀駕籠に振り返る。
私たちがあれこれやっている間も、牛頭、馬頭が茅葺屋根を弄っていた。無理に森の中を走らせたせいで屋根が所々壊れていたらしい。瓦葺の普及した護国府では茅葺を取り扱う大工は少なく、建物の十割が瓦屋根の城下町では最悪一人もいないかもしれない。もし城下町で茅葺の補修ができなければ、帰りはこの村には寄らず、宿場沿いに戻って途中で葺き直してもらうことになりそうだ。
あやめと共に雀駕籠に乗り込んだ。あやめの式が担ぎ、城下町への太い馬車道を歩き出す。