一話
冷たい朝陽を感じて目を覚ます。片手をついて起き上がり、寝ぼけ眼を擦るとずきずきとした頭痛に見舞われた。吐き気も若干。
辺りを見回す。寝室に障子越しの光が射し込み、部屋全体に浅く柑橘のような色味が掛かっている。この布団の傍には侍女のあやめが座り、うつらうつらとしていた。あやめは私が起きたことに気が付いて、獣の耳をひょこんと動かした。
「おはようございます、栞様」
「うん、おはよ」
受け応えて、あくびを噛み殺しきれず漏らしてしまった。あやめが少し引き気味になるのが見える。酒臭いのだろう。
「早く身支度をされましょう。今日はいよいよ出発の日ですよ」
あやめに手を引かれて姿見の前に立つ。鏡に映って悪目立ちする赤熱色は寝癖の付いた短髪だ。十七を迎える割に顔立ちは幼く、背も後ろに立つあやめの胸までほどしかない。
着付けはあやめに任せている。両腕を広げると寝巻き、晒を剥がれ、貧相な身体が露わになった。温かい手ぬぐいで全身を拭かれた後、新しい晒がくるくると巻かれる。浅葱色の半着に手を通し、引き上げられた濃鼠の袴は胸の下で留められた。
あやめが櫛を探しておろおろしている暇に姿見を離れ、障子をずりずりと開けて外を伺う。春の朝方、入り込むそよ風はまだ肌寒い。何羽か雀が庭園を跳ねているのが見えた。早くから元気なことだ。
「あっ、ありました」
あやめが声を上げたので振り向く。丁度大きな胸許から櫛を取り出したところだった。あやめはにやりと笑って私を見る。あてつけか。
姿見の前に戻り、あやめに背中を向ける。赤熱した鉄のような髪に櫛が通され、寝癖が少しづつほぐされてゆく。生来の癖っ毛というわけでもないから、そう時間はかからなかった。
いくつかの小物を袂に突っ込んだ後、寝室を出て土間へ降りた。女中たちは私たちを認めると、台所の釜、鍋からお椀によそって居間へ運んでいった。それを横目に流しへゆく。山麓の新築なだけあって近くの清流から水道が直接引かれている。あやめが取っ手をがしょがしょとすれば綺麗な水が流れてくれるのだ。冷たいそれを手に掬って口をすすぐ。
手を拭われながら居間へ入った。食卓には既に五人分の朝食が並んで湯気をたてている。奥の方に座り、女中たちとともに手を合わせた。
「いただきます」
私がお味噌汁に口を付けると、女中たちは待ってましたと言わんばかりにご飯をかきこみはじめる。家の全員で揃って食卓につくのは実家からの伝統だけれど、ここの女中には先に朝食をとらせてほしいと不評だ。私にとっては早朝でも、夜明け前に起きる彼女たちにはそうではないのだろう。
左隣に座るあやめが私のお膳からお茶碗を取っていった。
「栞様。あーん」
「あーん」
一口づつ受け取ってもくもくと食べる。白米を中心に山女魚の塩焼き、ごぼうの煮物。起き抜けにあやめが言った通りしばらく留守にするから、今朝のうちに味わって食べておきたい。
お茶碗を半分ほど空けたところであやめを止め、お味噌汁を飲んで一息つく。ちらりと隣を見ると、あやめはこの短い間に自分の分をがつがつと食べ進めていた。律儀にも私のと同じくらいまで残して箸を止めている。
再び私のお椀が手に取られ、山女魚が小さく摘まれる。丁度旬を迎えた白身はぎゅっと締まっている。口に入れると少しだけしょっぱく、噛み締めると淡白な旨味が染み出してきた。昨夜つまみにした鮭とばを繊細にしたような味だ。
続いてご飯を摘んで私に食べさせようとしたところで、あやめははっとしたような表情を浮かべた。
固まった箸先からぱくっと白米を貰って呑み込み、尋ねる。
「どうかした?」
「……いえ、そのぅ。手土産の用意をですね、忘れていたような?」
「――ということには気づいておりましたので、氷室にどぶろくや秋春漬けを用意しております。また昨年のとばもいくつか残っていますゆえ」
出来る女中の楡がすかさず続けた。訪問先での趣向を踏まえていて準備が良い。酒肴だけに。
しかし、とばなんて残っていただろうか。昨日皆で食べてしまったはずだけれど。不思議に思っていると、斜向かいに座る幼い実梅が横目で楡を非難がましく見ているのに気が付いた。なるほど、少し隠しておいたのだろう。気に留めておく。呑気にほっとしているあやめの太ももをつつき、食事を再開した。
朝食を終え、後片付けは女中たちに任せて、私とあやめは旅支度をしにゆく。下駄を履いて外に出て、家の裏へ回る。
あやめは裏山との境に立ち、薄い木板を束ねた檜扇を取り出した。ばっと広げると、木板の一枚一枚に歌が書かれてある。そのうちの一つを指でなぞりながら呼びかけた。
「おいでなさい、牛頭、馬頭」
呼びかけに応じて、木立の影から二人の鬼が這い上がってきた。その名の通り一方は牛の頭が、もう一方は馬の頭が据わる大男だ。筋骨隆々の身体にぱつんぱつんの羽織袴を着ている。
二人は仰々しく、あやめの後ろに立つ私に座礼をした。
「待ってくださいっ! あなたたちの主は私なんですからっ」
あやめが怒ると、二人は牛馬の無愛想な顔を背けた。彼らはあやめの式ではあるけれど、あやめが未熟な頃に私が手伝って呼び出したいきさつがある。本当は私に仕えたいらしい。
「駄目だよ二人とも。ちゃんとあやめの言うことも聞きなさい」
私が言うと、牛頭と馬頭は渋々といった体で頷いた。
「ふう。では早速、そこの氷室から荷物を運び出して、雀駕籠に積んでください」
あやめが指示を出して近くの暗がりを指差した。その先には洞穴があり、入り口の傍には大小様々な木箱が積まれている。この山に幾つかある氷室のうちの一つだ。
あやめや式を連れ立って洞穴に入ると、朝露より冷たい空気に包まれた。仄かに外光が通る入り口近くには壺や瓶が纏められている。楡が用意した手土産だ。
これらを仕分けして梱包する。割れやすい玻璃瓶は綿布で厳重に包んだ。壺は箱の中で動かないよう隙間に丸めた布を詰めておく。
続いて馬頭が白木の小箱を改めた。手に取ったとばは五本束ねて収められていた。思わず苦笑してしまう。
「そうだ。とばはここに残しておいて」
「どうしてですか?」
私の言葉にあやめが首を傾げた。
「実梅が食べたそうにしてたからね。帰ってきたら皆でいただこう」
「そういうことですか」
「そういうこと。じゃ、硯箱出して」
「はい。こちらです」
あやめに小さな硯箱を取り出させ、近くに硯を置かせる。手近な雪を摘み、体温で融かして硯の海へ。ほんの少しだけ墨を磨って細筆の先を浸し、白紙の札を一枚取って書き置きを記す。札の裏の糊を舐めて白木の箱に貼った。
「とばを持っていかないのでしたら、代わりに浅漬けでも拝借しましょう」
あやめが小ぶりな壺を抱えてきた。布で蓋を縛り、秋春漬け同様に詰める。浅漬けは傷みやすいので、少量の雪を紙に包んで一緒に入れた。
さらにもう一枚札を取り、余った墨で呪文を書きつけて木箱に貼り付ける。気密と断熱を確実にするための封印だ。これで向こうまで保つだろう。
荷物を牛頭たちに担がせ、雀駕籠の方へ向かった。家の隣、山道に面して小ぢんまりした小屋が置かれている。藁葺の切妻造の断面から、壁を突き抜け長い桁が前後に伸びる。要は大きな駕籠だ。
荷室に手土産を積み込み麻紐で留めさせていると、丁度片付けを終わらせた女中三人が見送りに出てきた。真ん中に立つ楡が腰を折り、実梅、花芽がならう。
「行ってらっしゃいませ」
「うん。行ってきます」
顔を上げた実梅に目配せをして雀駕籠に乗り込んだ。客室は僅か二畳と狭い。私に次いで体力のないあやめも乗り込んで益々手狭だ。
扉を閉じる前に家を眺めておく。しばしのお別れだ。女中たちにひらひらと手を振る。あやめも名残惜しげにしつつ、ゆっくりと扉を閉めた。
合図すると、がたっと音を立て足元が浮かび上がった。牛頭、馬頭が雀駕籠を担ぎ上げたのだ。いよいよ出発だ。
Q.未成年飲酒?
A.16で成人する世界です。