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黄昏の吸血鬼  作者: 松井駒子
露草の恋
4/4

04


 黒の屋敷を出ると、門のところで水浅葱が煙草をふかしていた。吸血鬼でも煙草を吸うのかと吉弘が思っていると、彼はこちらに気付いて、口から煙草を取り落とした。驚いてぱちぱちと目を瞬かせる姿。それはつい先ほどまでの、愛嬌のある吸血鬼と思えた。しかし黒から真実を聞いた今となっては、その姿に恐怖しか感じない。彼は、『水浅葱』ではないのだから。その事実が恐怖となって、露草の胸を圧迫する。声一つ、かけることさえ躊躇われた。


「おひさしぶりです」


 そんな吉弘の傍らにあって、『彼女』は悪魔に声をかけた。そうだ、彼女は悪魔の王だったのだ。吸血鬼の王、黒の王『透』は、水浅葱と対峙して微笑みさえ浮かべていた。そんな彼女に、水浅葱もまた微笑んだ。


「まさか、出てくるとは。『私』に殺されるとは、思わなかったんですか?」


「そんなこと、滅私めっしが許しませんよ、いくらあなたとて、滅私は恐ろしいでしょう? 引退したとはいえ、黒である彼の力は今なお絶対的ですから。あと、出てきたことは、灰音にも鼠にも内緒です。ばれたら今日はご飯抜きかも」

 少女は青い男を見据えて、続けた。

「けれど、あなたに言わなければならない言葉があったんです、水浅葱……いえ、『うつろ』」

 その言葉を引き金に髭面の男が、にっと笑った。その手がすっと伸ばされて、自らの上着の中へと差し込まれた。次に現れたとき、その手には銀縁のシンプルな眼鏡が握られていた。

「ああ、疲れた」

 慣れた手つきで眼鏡をかけて、男は笑う。そして、その手が自らの顎に添えられると、顔の半分を覆っていた髭が嘘のように消えうせた。次に手のひらが髪を撫で付けると、僅かに青味を含んだ髪色は、目が覚めるような青へと変わる。海里の群青など生易しい。これは、真の青だ。そうして、現れたのは二十代後半ぐらいの男の顔だった。

 その瞳は丁寧に研磨された刃を思わせた。

 ああ。

 背筋が凍る。その色は、至高の青。


 吉弘は思い知った。彼の目に、先ほどまでの水浅葱の影はない。彼こそ――『空』。海里や露草たちを絶望の淵へと追い込んだ、絶対零度の青の当主。吉弘は否応なしに、それを知る。


 誰よりも空を理解している? ああ、そうだ。当たり前だ、本人じゃないか。


「だから言ったでしょう? 『お前はもっと、俺を憎むべきだ』……と」

 青が嗤う。いつか見た三日月が、今度は吉弘を嘲笑する。怯えひるみ、思わず一歩引きそうになる吉弘の手を、そのとき力強い手のひらが包んだ。黒だった。

空はそんな二人を眺め見て、眉を寄せた。

「露草が大して驚かないってことは、ネタ晴らししたんですか、陛下。私の楽しみを取らないでいただきたいですね」

「悪趣味ね、最期の絶望がそれほど楽しみ?」

「ええ、この遊びを思いついたときは、最高の気分でしたよ。人の嘆きに歪む顔ほど、退屈しのぎはないですから。まして、それが吸血鬼相手なら……なおさら!」

「……水あさ……!!」

「黙れ」

 縋る様に、『父』に声をかけた吉弘。しかし微笑む男は、冷酷だった。

「貴様が誰を目の前にしているか、まだ分からないのですか? 未熟ながらも黒と至高の青ですよ。……跪け」

 その瞬間、足の力が消え失せた。膝が崩れ落ち、地面に這い蹲る。

「あ……うあ……」

 口内に土の味が広がる。身を起こそうとしても、力が入らず、声一つ満足に出せない。これが、青の力? あらゆるものに絶望を与える力?

「やめてください、空!」

 突然崩れ落ちた吉弘に、黒は悲鳴を上げて彼の身を支えた。

「どうして? これは、しつけですよ。出来の悪い子をしつけるのは親の務めでしょう? まあ、始末するのも親の務めですが」

 クスリと、空は笑った。

「露草という花を知っていますか? たぶん名前は知らずとも、一度は見たことがあるでしょう。どこにでも咲いている青い花を咲かせる雑草です。朝に咲き、午後にはしぼむ儚い花です。あまたに存在し、儚く散り行く『彼ら』には実にふさわしい名前ではありませんか」

「そう……、でも、この子はもう、儚い露草じゃないわ」

「――?」

「たちなさい、そして、青の当主にご挨拶を」

 その言葉一つで、体の束縛が全てとかれた。驚くほど体が楽になり、全身に力が満ちる。驚きながら立ち上がると、傍らの少女がにっこりと笑っている。言ってやれ。穏やかな微笑みがそういっていた。


「オレは……」

 その言葉を口にするにはひどく気力がいった。

 水浅葱の不適な笑い。海里の儚い微笑み。三人の団欒の、なんと心地よかったことか。あの青の屋敷で、吉弘は確かに『家族』を得た。しかし、それを創り上げたのも、粉々に打ち壊したのも目の前の男だ。青の絶対的支配者、『空』。

 彼は、吉弘に言ったではないか。

 許しは請わないと。そう、彼ははじめから吉弘の心情などどうでもよかった。ただ、彼の憎しみと絶望だけを糧とした。ならば、何を戸惑う必要がある。言い放て。たった一つの復讐を放て。


「オレは、儚い露草なんかじゃない……」

 ぐっと、唇を噛んだあと、吉弘は空をにらみつける。恐怖で今にも崩れ落ちそうになる体を憎しみだけで保ち、彼はそれを空にぶつけた。

「オレの名前は、なまりだ……!」


 鉛。


 それは、黒の王に選ばれた――新たなる灰の吸血鬼の名前。


 目の前の男の目が見開かれる。そこに確かな驚愕を読み取って、鉛は僅かな愉悦に浸る。しかしそれもほんの数瞬のこと。

「……青を灰に染めたのか……」

 やがて驚愕から立ち直った青はゆっくりと――ゆっくりと口の端を持ち上げた。唇を歪めて微笑む男。しかしその目は笑ってはいない。そのあまりの冷たさに、吉弘は凍りつく。

 しかし、それを前にしてさえ、黒は力強く、美しい笑みを浮かべていた。彼女の可憐な唇からこぼれ落ちた鋭利な八重歯。それは、黒だけに許された、絶対的な支配の力。

「そうよ、死ぬほどまずかったけど、我慢したわ」

「こんなこと、許されるはずがない」

「前例がないわけじゃないでしょう。初代女帝、漆黒。彼女の前例がある。それにこれは、白と赤の同意を得ているわ」

「……!」

「白の当主『雪臣ゆきおみ』、それに赤の当主『薔薇姫ばらひめ』。二人は私の存在を認めてくれた。いい? 空」

 己の胸に手を当てて、黒はまっすぐ空をにらみつけた。


「私が――王よ」


 そのとき、ふわりと。

「空」

「透」

 空の後ろには海里が、透の後ろには鼠が現れて、いがみ合う二人を取り押さえた。

「空、あなたの悪趣味が過ぎました。潮時ですよ」

「透、いくらイラついているとはいえ、挑発しすぎ。青を敵に回すな」

「先生!」

「……海里」

 目を見開く透に、顔を片手で覆う空。二人の間に、鼠と海里が割って入った。そうして対峙した二人の視線がからまって、溶ける。

「互いに、苦労しますね」

 微笑む海里、

「ホント、いい加減にしてほしいくらいだ」

 それにため息をつく鼠が続き、二人の努力で黒と青の間に距離ができる。今にも殺し合いが起きそうだった空気が、僅かに緩む。その中で、空は微笑みをもって、黒を見つめた。

「今回はよくやったと褒めてあげますよ。けれど、子供一人を救ったところで何になりますか。全ては、私の手中ですよ。ねえ、鼠」

 ふわりと、空の体が浮いた。その手は海里の腰へと回され、二人の体は寄り添って虚空に浮いていく。その最中、ふっと黒から逸らされた空の瞳が、より強い青みを帯びて鼠を見つめた。

「聡い君ならば、分かっているでしょう? 黒に愛想をつかしたら、いつでも青にお出でなさい。冷酷な君には、青がよく似合います。若い男の子がいたら、海里も喜びますよ」

「うちの子を誘惑しないでくれますか」

 黒は、青に宣言した。

「いいですか。私、絶対に引く気はないわ。あなたを滅ぼしてみせるから、覚悟しておきなさい、青の当主空」



 黒の挑発的な言葉を最後に、青と海里の姿が掻き消えた。粒子となって消えうせる二人の姿を、吉弘はずっと眺めていた。掻き消える間際、空は海里を見つめ、海里は空を見つめていた。そう見えたのは、気のせいだろうか。そう、気のせいのはずだ。空が言っていたではないか。海里は空を憎んでいると――

「吉弘君、ううん、鉛」

 ぼんやりと虚空を眺めていた吉弘の背中に、主の声が投げかけられた。

「ん?」

 吉弘が振り返ると、先ほどまでの威厳はどこにいったのやら、落ち込んだ様子の黒が立ち尽くしていた。

「ごめんね……その、君の意思を無視して、噛んじゃって」

「いいよ、いや、いいですよ、まだ生きていたかったですし」

 しょんぼりと肩を落とす黒。彼女を励ますように吉弘は言った。そうだ、彼女が本当に謝るべき相手は、吉弘などではないだろう。彼は、わずかに視線をずらして彼女の後ろを眺め見た。そこには、先ほどからどす黒いオーラを出して吉弘を睨みつける男が一人。一瞬目が合い、慌ててそらした。恐ろしすぎる。

 灰の吸血鬼、鼠。

 今となっては吉弘の『兄』のような存在だったが、彼が吉弘を歓迎している様子にはとても見えなかった。当然だ、黒と灰の二人だけの絶対的な関係に、ヒビを入れたようなものだ。

 しかし何も、横槍を入れるつもりはない。本当に欲しいものは――別にある。

「……灰は、あらゆる繁殖できないって聞きました」

「……? そうだけど……」

「それってつまり、あんたと子供を作る以外の……たとえば吸血とかでも、相手が吸血鬼になることはないってことで、す、よね?」

「うん、そう。黒の眷属たる灰は絶対の忠誠を黒にささげ、子をもたない。血の誘惑に負けたところで、人間が吸血鬼になることは絶対にない」

「なら、人間界で生きても、人間を害することはないんだ」

 吉弘はほっと息を吐いた。今の彼は、『彼女』を害そうとは思わない。けれど、数年後、数十年後の彼はどうか。また血の誘惑に、永遠の孤独に負けたとき、吉弘は自分を抑えきれるか。それを思うと恐ろしかった。しかし、今証明された。吸血鬼の吉弘が、新たな犠牲者を生むことはなくなったのだ。可能性は示された。

「オレ、人間界で生きてみる」

 決意をこめた瞳で、彼は言った。

「あきらめようと、思ったんだ。だけど、それはただの逃げだった。オレ、人間界に謝りたいやつがいる。人間じゃなくても、それを伝えられるって――気付いたんだ」

 黒は驚いていた。何度も何度も瞬きを繰り返し、何かを言おうと口を動かした。しかし、結局言葉は出てこず、困惑した様子で彼女は吉弘に手を伸ばす。しかし、最後には何かを決意して、黒は届かなかったその手を握り締めて、へらりと笑った。

「そっか。それ、女の子?」

「……っ! べ、べつに関係ないだろ」

 真っ赤になった吉弘に、黒はいっそう笑う。

「うん、いっておいで。つらくなったら、いつでも帰っておいで。ずっと、ずっと待ってるから」

 透は吉弘を抱きしめた。

「私はあなたのお母さんだもん」

 そうして永遠に成人することのない、少年の小さな背中を黒は見送る。行方を失った透の右手は、血が出るほど握り締められていたが、吉弘はそれに気付くことはなかった。ただ、その傷ついた手を傍らの灰が無言で優しく包み込む。

 あらゆる吸血鬼が、人間界で生きることを夢見る。失ったものを求めて。

 透や鼠もそうだった。

 そして、絶望した。


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