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黄昏の吸血鬼  作者: 松井駒子
露草の恋
2/4

02

 少し寄り道をしようか。

 その言葉とともに鳥居から離れたわき道を進むと、やがて青い屋敷にたどり着いた。

 趣きある純和風な平屋だった。水浅葱の言うことには、青の当主『うつろ』の屋敷とのことだ。

 足を踏み入れた二人を屋敷に迎え入れたのは、パンツスーツを着た二十代前半くらいの美しい女だった。青い日本家屋に染まらず、黒を着こなす女の姿は、この場にあって異質だったがそれが何処かしっくりきた。青の吸血鬼は年月を経ると髪色が青く変化するらしいが、女は目も髪も見事な群青色だった。なるほど、この人が空か。そんなことを考えて、緊張していると女がおっとりと微笑んだ。

「あなたが新しい青の子ですね? 私は海里かいり。よろしくおねがいします」

 そして伸ばした手で、吉弘の頭を撫でた。

「?!」

 その仕草が幼い子供に対するものだったもので、吉弘は思わずその手を振り払った。海里。そう女は名乗った。空でないというなら、この女は一体――

 警戒心を身にまとい、吉弘は女を睨み付ける。

「あらあら」

 しかし一方の海里は、振り払われた手を抱きしめてにこりと笑った。

「大丈夫、大丈夫、怖くないですよ、ほら、アメ食べますか?」

 そう言って、スーツから飴を取り出す。どんな吸血鬼だ。吉弘が受け取らないと、今度はしょんぼりしながらポケットにしまった。本当に――どんな吸血鬼だ。

「海里、可愛いだろうが、ほどほどにしてやってくれ。怯えてる。露草、この女も青の吸血鬼だ、仲間だぞ」

 水浅葱が吉弘を庇うように、二人の間に立つ。思わずほっとした吉弘を見て、海里は眉を寄せた。

「……なんで私よりあなたに懐いているんですか、むかつきます」

「いや、俺一応こいつを噛んだ『親』だし」

「……とっても、むかつきます」

「海里、それより、空は?」

「……はっ! 戯言を。アレなら『知ってのとおり』、数日前に出て行ったきり留守ですよ」

 先ほどまでの『優しそうなお姉さん』の仮面が無残に崩れた。今、鼻で笑ったのは果たして同一人物だろうか。吉弘が怯えを含んだ目で海里を見つめていると、彼女と目があった。すると、海里は嬉しそうに微笑む。

「ようこそ、露草。吸血鬼の王国へ。あなたが黒の伴侶たることを――切に願います」

「今更猫かぶったって、正体ばれてるぞ、この世で空(あの鬼畜眼鏡)をアレ扱いできるのはお前だけなんだから」

「猫はかぶっていません。アレを嬲るときは、あちら。露草相手のときは、こちらです。あのクズとこんな可愛い子を平等に扱うことなんて出来ませんから」

 そういいながら、海里は水浅葱の足をこれでもかというほど踏む。どうやらこの二人も仲が悪いらしい。しかし、空と親しげ(?)な様子のこの女は一体何者なのだろうか。一緒に暮らしているということは、恋人か。それとも配偶者か。あまりに気になって、吉弘は勇気を振り絞って尋ね、ようとした。

「命が惜しければ、それ以上口にしない方が懸命だぞ、露草」

 しかし、それを水浅葱が止めた。

「いいえ、露草。コレの話は聞かなくていいですよ、どうぞ、質問がありましたら、好きに聞いてください」

 その足を海里が踏む。

「聞いたら怒るくせに」

「怒りません」

「いや、怒る」

「まさか」

 目の前で火花が散る。

「えっと……」

 そんな状況で、もちろん空と海里の関係など尋ねられない。どうしようかと考えて、吉弘は言葉をひねり出した。

 知りたいのは、要は彼女が何者なのか――

「海里の、本当の名前は、何――?」

「は?」

「え?」

 二人の視線が、吉弘に集まった。

「いや、その、人間の頃の名前が、知り、たいなって……」

 段々と顔が赤くなっていくのが自分でも分かった。けれど、思ってしまったのだ。海里という名前は、青い色を含む。ひどく似合っているが、それは彼女の真名ではなく、吸血鬼としての名前だろう。人間の頃の名前を知ることで、彼女の本質に少しでも近づけるのではないかと――そう、思ってしまった。

 静まった場の空気に、吉弘は沈む。

 聞いてはならないことだったのだろうか。海里はやはり、怒ってしまっただろうか。

 海里は俯く吉弘の前に立った。腰を折り、中学生の少年に視線を合わせる。海里の群青の瞳には吉弘が、吉弘の黒の瞳には海里がうつる。その目は優しい色をしていた。

「……露草、いいえ違いますね。失礼しました、あなたのお名前は? ……何というのですか?」

「あ、朝岡、吉弘、です」

「いい、名前ですね。露草なんて名前よりずっと、あなたらしい……」

 そういった女は、もう笑ってはいなかった。何かに耐えるようにぎゅっと目蓋を閉じて唇をかみ締めていた。

「海里、言う必要は……」

「私に触れるな、吸血鬼」

 海里はひきとめようとした水浅葱の手を振り払って、吉弘に再び微笑みかけた。

 美しい笑みだった。

 今までの、どこか作り物めいた笑顔ではない。

 穏やかさの向こうに、女の気高さがはっきりと見てとれた。

 ああ、これが彼女の本性なのだと知ったとき、彼女は言った。

「私の名前は――あおいでした」



 青の屋敷で礼装へと着替えた吉弘は、再び鳥居をくぐる道へと戻った。海里が見合いのためにと着付けてくれた着物は、着慣れなく堅苦しかったがよく似合うと褒められた。青を基調とした着物は、少年に足りない部分を補うようにしっくりきた。水浅葱などは、馬子にも衣装と言ったが、その顔は満足げだった。

 そして着飾った吉弘は、青の領地を離れ、黒の領地へと赴く。

 気が重かった。はじめこそ海里を恐れた吉弘だったが、慣れてしまえば彼女は優しく、なんら恐れる存在でないことが分かった。水浅葱との三人のやり取りが楽しく、また海里の焼いたというケーキも美味く、丁寧に淹れた紅茶も絶品。ついつい話に花が咲き、随分と長居してしまった。着物の着付けなど口実で、ずっとその場にいたいとまで思った。青の屋敷で海里に見送られたときは、思わずしんみりとしてしまったものだ。

「とっ」

 物思いにふけっていると、なれない下駄の存在もあいまって、転びそうになった。その手を、水浅葱が強く引く。

「馬鹿」

「悪い、ありがとう」

「……」

 だが、そうして吉弘が上機嫌になればなるほど、傍らの男は黙るようになった。特に海里と別れてからは、殆ど言葉を発していない。

「何?なんかキレてんの?」

「はあ……」

 吉弘が尋ねると、水浅葱はこれ見よがしに大きなため息をついた。

「お前、遠慮なさすぎ。いや怖いもの知らずなだけか、心臓破裂するかと思った」

「は?」

「海里だ」

「?」

 かつて葵と呼ばれた吸血鬼・海里。彼女がどうしたというのか。確かに名前を尋ねたときには雰囲気が変わったが、それ以降は笑顔を崩さず水浅葱や空を罵り続け、吉弘に甘く、楽しげに話題を振り続けた。

「海里はな、青の次席なんだよ」

「次席?」

「青で二番目に偉いってこと。海里は空の『子』にあたる吸血鬼だ」

「……あの人が……」

「海里は普段は優しいお姉さんだが、唯一の空の直系で、次の青確実と呼ばれている女だ。怒らせたら半端ない」

 飴を手に乗せてしょんぼり俯く海里。そんな大物吸血鬼には見えなかったが――

「はあ……」

「その海里が怒るとしたら、人間の頃のことを尋ねられたときだ」

 水浅葱は虚空を睨み付けて、言った。

「海里は、空が憎いんだ」

「え?」

 青次席でありながら、青に染まらず黒を着こなす女。海里の姿が思い出される。確かに自分の『親』であるはずの空に随分と不遜な態度を取るとは思ったが、憎んでいる?

「お前も分かるだろう。今までの生活から切り離されて、いきなりこんなとんでも世界に連れてこられたお前なら。なあ、露草、俺が憎い?」

「……別に」

 恐れはしたが、こちらの世界に足を踏み入れたのは吉弘自身の選択だ。それを今更どうこういうつもりはなかった。彼は吸血鬼になった吉弘に、本当によくしてくれている。

「……ありがとな。だけど、全てがそうとは限らない。無理矢理、意志など無視されてここにきた奴もいるんだ」

「それが、海里? ……何が、あったんだ?」

「さっき、話したろ。吸血鬼でも稀に子供を生む。海里は黒と黒の配偶者以外で子供を生んだ唯一つの例外だよ。生んで、生き延びた。たった一つの例外だ」

 スレンダーな海里の体を思い出す。あんなに細いのに、子持ちだったのか。

「まじめに聞け。吸血鬼はな、黒以外は妊娠しない。黒相手でなければ、孕ませることもできない。それで、青の吸血鬼の海里が子供を生むとしたら、どんな場合だ?」

「黒に選ばれる……?」

「さっき言ったろ。海里は黒の配偶者じゃなかったって」

「黒に選ばれず、子供をうむ……いや、それって矛盾してないか?」

「いや、唯一つ、手段がある。吸血鬼の世界でも、ご法度とされているがな」

 水浅葱の黒い瞳が、青く染まっていく。瞳孔が猫のように細くなり、三日月に開いた口から牙が零れ落ちた。闇が、広がる。その深い闇の先から、哄笑があふれる。どうして、この男はこんなにも楽しそうなのか。理解を超えた化け物が、目の前で笑っていた。笑って、言った。


「妊婦を噛めばいいんだよ」


 そのおぞましさに、鳥肌が立った。

「もちろん、その腹の子は他人の、人間の子だ。噛まれた女からしてみれば、幸せの絶頂期に地獄に突き落とされるというわけだ。愛した人間と引き離され、腹の中の子供ごと人間ではなくなる」

 葵でした。そう言った女は、苗字を決して言わなかった。彼女は夫の姓も、自身の姓も言わなかった。外見が二十代前半の彼女。つまり空に襲われたのも、その頃だ。恋人からのプロポーズ、二人で模索しながら築かれる家族の関係、幸せな妊娠。少しずつ膨らむ腹を二人で撫でて、どんな名前にしようかと笑いあう。そんな幸せは、もろくも崩れ去った。

 そんなことを考えて、ふと吉弘は恐ろしいことに気付いた。

 彼女の夫は?

 彼女の人間の夫は、どうなった?

吸血鬼に妻を襲われて、何もしなかった?

 夫が彼女を助けようとしたなら、吸血鬼は彼に何をした?

 夫の血を浴びて、泣き叫ぶ一人の女の姿が頭に浮かぶ。大きく突き出た腹を抱えて女が叫ぶ、この子だけは、この子だけは。私はどうなってもいいから。

 まさか。

 吉弘は女の儚い笑みを思い出す。吐き気がした。

「……」

「……二百年も前の話だ。腹の子供は半吸血鬼のダンピールとして生まれ、人間界に突き落とされた。半分は吸血鬼でも、半分は人間だ。人間はこちらでは生きられないからな。生まれた男の子は一度も母に抱かれることなく、その生の幕を閉じた。もっとも、ダンピールは決定的に人とは違う異端の存在だ。成長するにつれて、その異質さははっきりと顕現し、彼を苦しめただろう。人間界での生が、本当に幸福だったかは――謎だな」

 長い、長い悲痛な話の先に、水浅葱は言った。

「いいか、吸血鬼は、まともじゃない。その事実は、受け入れろ」

 吉弘は、ゆっくりと頷いた。握り締めた両手にはじっとりと汗をかき、口の中はカラカラに乾いていた。声を出すのは億劫だった。けれど。

「……空は、どうしてその子を殺さなかった?」

「さあ、空は気まぐれだから」

 両手をあげて、水浅葱は首を振った。この男は、こんな話をどうして語ったのだろう。どうして、こんな、ひどい。知りたくなどなかった。

『ひろちゃん』

 頭の中で、彼女が微笑む。もしも、彼女が将来そんな酷い目にあったらと思うと、ぞっとした。海里が遭遇したのは、背筋も凍るような恐怖と、身を焼く憎悪だ。

 そして。

 吉弘が唇をかみ締めると、鋭利な牙が突き刺さって唇から血が流れた。

 吉弘にも、新たな海里を生むことができる。可能性は示されたのだ。一人が寂しければ、彼女をこちらの世界に引きずり込むことも、今の彼には可能だ。

 しかし。

 零れ落ちる涙をぬぐって、吉弘は水浅葱に尋ねた。

「その子の、名前は?」

 自分には出来ない。だって、葵と、その子供を思うだけで、涙が止まらないのだから。彼らの思いを、胸にとどめるために、少年は死んだ子どもの名前を尋ねた。

 そんな吉弘を見つめて、水浅葱は眉をひそめる。

「それこそ意味のない質問だと思うけど。もう、死んでる」

「知りたいだけだよ」

 ふうと水浅葱はため息をついて、言った。


灰村育良はいむらいくら


 聞いたことのない、変な名前だった。聞けば、十分に育てという意味らしい。まだ首さえ据わらぬ赤ん坊は、さぞ小さく弱い生き物に見えたのだろう。葵はどんな思いで、その名をつけたのか。自分が育ててやれぬ子に。何を願って――。

 たった一人、人間界で生き残った男の子。どうか、死んでしまったその子が、葵を憎んでなければいい。君の母親は、君を捨てたくて捨てたわけじゃない。愛していたから手放した。悪魔から君を救うために。

 水浅葱の言葉を聞きながら、吉弘は願った。どうか、彼の生が健やかたらんことを。

 もう死んだ人間にそんなことを願うのも、変な話だった。



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