歯車と呼ばないで
警告:本作品は東方Projectの二次創作小説です。
十六夜咲夜は生まれてこのかた「辞表」という書類の存在を信じたことがなかった。今にしてもそうである。けして誇張ではない。
言うなれば龍や雪男と同じで、『空想好きな人間の脳がパンクしてできた産物』が辞表なのだと咲夜は本気で思っていたし、冗談でもそんなものを書こうと思ったことはなかった。
『辞表』の概念自体は理解できる。
誰かに雇われている人間が何らかの事情で仕事を辞めたくなったとき、その書類は効力を発揮するのだろう。口頭で伝えづらいことというものは確かにある。辞表ならばその点を気にせずに済むのだからなるほど確かにこれは便利だ。
しかし咲夜は思うのである。
——どうしてそんな書類が必要になるのか。
十六夜咲夜について補足しておこう。そもそも彼女は、『誰かが誰かを雇うとすれば、どちらかが死ぬまでその契約は切れない』という大前提を微塵も疑っていない。彼女の前において全ての雇用契約はすべからく終身雇用なのであり、その認識はいついかなるときもけして揺らぐことがない。
たとえば辞表なる書類がこの世で幅を利かせていたとして、そんなものは咲夜の前では屁の突っ張りにもならないのである。吹けば飛ぶ、文字通りの紙切れに過ぎない。
少なくともそう思っていた。昨日までは。
しかしながら幻想は、現実にいともあっさりと打ち砕かれるものである。
十六夜咲夜の十月二十四日は波乱とともに幕を開けた。
まず明け方に一通、次いで昼過ぎに一通、そして夕刻に一通の、計三通。
十六夜咲夜が一日のうちに妖精メイドから受け取った辞表の枚数である。一度に三通じゃないところが何ともいやらしい。
ありえなかった。
妖精メイドたちが示し合わせて悪戯を仕組んだのか、でなければ見えざる何者かの手が咲夜の常識を全力で突き崩しにかかっているとしか思えなかった。
だからこそ咲夜は、初めに辞表を受け取ったとき、思わずこう言ってしまったのだ。
「……ほ」
無意識に口をついて出た言葉は「え」ではなく「ほ」であった。無論裏声である。仕方がなかったのだ。これこそ、真に驚いた人間が真に発する真の言葉であり、事実、咲夜の驚愕は筆舌に尽くし難いものであった。
辞表はどれも丁寧に折りたたまれた封書で、余計な装飾は一切施されておらず、一番目立つ部分には筆で書かれた「辞表」の二文字があった。これでは見間違えようもない。咲夜の目の前に置かれた簡素な執務机の、その上に並べられた三者三様の辞意が、さあ見ろとばかりに現実を主張していた。
中身はどれも似たり寄ったりで、やれ自分の可能性に挑戦したいだのやりたいことが見つかっただのと、今ひとつ要領を得ない文章が縦書きで何行にも渡って綴られていた。体裁こそ小綺麗にまとまってはいるが、しかし咲夜に言わせれば没個性的の一言で真っ二つに切り捨てることができる。大体、今まで続けていた仕事を辞めるという決断に際して、たかだか一枚の紙切れで決着をつけようという考えがすでにおかしいのだ。間違っている。まるで気に食わない。
だから咲夜は去る者の背中を追った。しおらしい態度で封書を差し出し、深々と頭を下げ、「今までお世話になりました」の一言ののちに背を向けてとぼとぼと歩き出す小柄な妖精の背中を「待ちなさい」の一言で氷漬けにして、夜が更けるまで自室で待たせ、しかるのちに自分の部屋、咲夜の執務室に呼びつけたのだった。
そして時間は現在に至る。咲夜は手元の辞表から正面へと視線を戻し、ドアを背にして横並びに立つ妖精メイドの顔を左から順に眺めた。
ある者は毅然とした態度で、ある者は怯えがちに、またある者はまったくの無表情でこちらを見返してくる。どれも見たことのある顔だ。左端のポニーテールも、真ん中の長髪も、右端のウェーブヘアも覚えている。しかしその見たことのある顔が仕事に不満を持っていたり、あるいはつまらなそうにしていた記憶が咲夜にはなかった。どの妖精も真面目に働いていたと思うし、その点については咲夜も正当な評価を下していた。だからこそ疑問が残るのだ。どうしていきなり、それもまったくの同時期に辞めたいなどと言い出すのか。
そして咲夜は思い至る。
何かがあったのだ。
紅魔館に住み込みで勤める百人余りの妖精たちの中から耐えかねた三人が同時に吐き出されてしまうような何かが、咲夜の知らないところで起こったのだ。
見過ごせる問題ではない。
屋敷の実務を仕切るメイド長としての立場と、十六夜咲夜自身の個人的な興味がそう告げていた。
とにかく、三人をこのままほいほいと外に出すわけにはいかない。こんな上辺だけの書類でことを片付けられないというのが一つ、そしてできれば三人を三人ともこの屋敷に引き止めたいというのが一つ。
息を吸い込む。
「あなたたちの辞表には目を通させてもらったわ」
背筋を伸ばし、目つきを絞って、可能な限り声を張る。そしてこの執務室というシチュエーション。咲夜にとってのホームであり、彼女らにとってのアウェーとなる場所。使えるものをすべて使って、咲夜は場の緊張感を演出する。
三人のうちの誰かが息を呑んだ。
「事情はともかくとして、あなたたちがこの屋敷を出て行きたいのだということはわかりました。でもこんな……」
腕を組み、上になった右手の先につまんだ辞表の一枚をひらひらと振ってみせる。
「……紙切れ一枚では、到底あなたたちの辞職を認めることはできないわね。それにこの辞表を見る限り、どうしても仕事を辞めなければならない事情が伝わってこなかったわ。確かに私はあなたたちの辞職に関する規則を定めていないけれど、それは定めていないだけで、簡単に辞められると思ったら大間違いよ。今日あなたたちを呼び出した理由はそれ。辞めたいのなら、私の前ではっきりと申し開きをしなさい」
言い終えた後で、少し芝居が効きすぎたかと咲夜は思った。これではメイド妖精たちに言い分があったとしても彼女らは萎縮してしまって、思うところを素直に口にできないかもしれない。しかし仮にそうなったとすれば、所詮はその程度の意志だったということだ。辞表を突き返せば済むだけの話である。
咲夜に続いて口を開こうという者はなかなか現れなかった。右端の無表情を除く二人はいかにも居心地が悪いといった様子で、仕草の端に現れたそれを隠そうともしない。咲夜の一言で石膏に変わった執務室の空気が、彼女たちから徐々に自由を奪ってゆく。
そして、
「……あの」
沈黙は破られた。驚いたことに、口火を切ったのは三人の中で一番控えめそうな真ん中の妖精だった。
「……私たち三人は、みんな咲夜さんを尊敬しています」
異国語を話すようなぎこちない口調で、妖精は続ける。おそらく彼女は極度のあがり症なのだ。そうに違いない。その性格でよくぞこの沈黙を破ったものだと咲夜は思う。
「ね? そうだよね?」
左右に確かめると、あがり症を挟む二人の妖精はそれぞれに頷きを返した。その頷きを得て彼女はほっと安堵のため息をつき、そらしがちな視線を正面に戻して、ちょうど咲夜の胸元を見るように話し始めた。相手の目を見て話せないのだ。理解できる心理だった。
「だから、私たちが咲夜さんを個人的に苦手だから辞めたいとか、そういうことは、ぜんぜん、考えていないので、それだけは覚えておいてほしいです」
ようやっと言い終えて、あがり症は深々と息をついた。さぞや神経を削る行為だったろう。本当は労ってやりたい気持ちをぐっとこらえて、咲夜は「わかったわ」とだけ返した。
しかし彼女の努力に反して、咲夜は自分が手に入れたい情報を何一つ得られていないことに気がついた。そうだ。大事なことはまだ少しも聞き出せていない。
「じゃあそのことは覚えておくとして、あなたたちはどうして辞めたいと思ったのかしら? むしろ大事なのはそこよ。聞かせてもらわないとね」
厄介なのはそれからだった。三人は元のようにふっつりと黙り込んで、それきり切り出そうにも切り出せないといった態度で身体をよじったり、あるいは硬直したりしていた。唯一微動だにしない右端の無表情だけが、これはもう外に置いておけば鳥が巣を作るのではないかと思わせるほどに不動だった。
咲夜はたまらず顔をしかめた。問い詰められる側も大変だが、追い込む側だってつらいのだ。腰に提げた懐中時計を確かめ、妖精たちをここに呼びつけてからすでに十五分が経過していることを知り、思わず口から出そうになった溜め息を無理矢理に飲み込んで、万事に如才なき紅魔館のメイド長は目前に広がる三者三様の立ち姿を眺めた。
と、そこで、今しも口を開こうとしていた左端のポニーテールと目が合った。瞳に確かな意志の光を感じさせる、いかにも生真面目そうな妖精である。咲夜は今度はため息の代わりに生唾を飲み込んで、開きかけたその口がどう動くのか、その行方を見守った。
「その、これはとても言い出しにくいことなんですけど」
「……何かしら」
心なしか自分の口調から覇気が失われているのが咲夜にはわかった。当然だ、人の集中力はそう長くもつものではない。その点でこの我慢比べに分があるのは妖精たちの方だ。
そして、咲夜はその言葉を聞いた。
「咲夜さんは、私たちの名前を言えますか?」
あがり症と無表情は、揃って左端のポニーテールを見ている。
二人の視線を受けたポニーテールは、その大きな瞳を咲夜に向けている。
「……名前?」
思わぬ質問が来た。妖精たちの名前……それは彼女らだって道具ではないのだから名前の一つもあるだろう。確かに咲夜は辞表を受け取ってからこちら、彼女たちを個別の名前で呼んではいないが、しかしそれが不満だというのなら……
そこで気がついた。
咲夜は自分の前に立つ三人の妖精のうち、一人の名前も思い出すことができなかった。慌てて記憶の箱をひっくり返す勢いで探るが、どうしても名前が出てこない。一応は何通りかの名前が浮かぶものの、その名前が肝心の顔と一致しない。そもそも咲夜にとって妖精メイドたちは十羽一絡げの存在であり、日々の仕事では呼びつけるにも「そこのあなた」や「ねえ」で済ませていたし、業務上はそれでまったく問題なかった。たとえ個人が判別できなくとも全体の人数さえ把握できていればどうにでもなるし、誰かが逃げ出したり悪党が混じり込んでいれば数の増減でわかる。本気でそう思っていた。
「えっと、名前……名前、ね」
それまでの叩き斬るような口調から一変、咲夜は口ごもらざるを得ない状況に追い込まれた。
「やっぱり、覚えてないんですね」
ポニーテールの言葉は責めるようでこそなかったが、しかし見えない刃物にその姿を変えて咲夜に突き刺さった。
部屋に満ちていた重苦しい空気が、気まずい空気にすり替わる。ポニーテールは床を見るようにしてうつむき、あがり症はおろおろと左右を見回し、無表情は咲夜の後ろにある大きな窓枠の角に視線を注いでいる。
「その……ごめんなさい」
真っ直ぐ前を見られなかった。
「さ、咲夜さんが謝らなくても……」
長髪のあがり症は胸の前でぶんぶんと手を振り、咲夜をなだめている。しかしその気遣いはむしろ重圧だ。
ポニーテールは続ける。
「確かに私たちは咲夜さんみたいに強くないし、仕事も遅いし、レミリアお嬢様に気に入られているわけでもないです。だからこんなことを言うのは生意気かもしれないですけど、でも私たちにだってちゃんと名前があります。一人ひとり違う私たちをきちんと区別するための名前が」
その言葉をあがり症が引き継ぐ。
「その、えと……咲夜さんやレミリアお嬢様は私たちのことを役割で呼びますけど、でも、妖精同士ではちゃんと名前で呼び合います。そうしないと、私たちがただの道具じゃないってことを忘れちゃうから」
そして無表情が、ここに来て初めて口を利いた。
「…………歯車にも言いたいことはあります。それを忘れないでほしいです」
妖精たちはそれぞれに違った表情で咲夜を見つめている。こうしてみると三人とも可愛らしい顔立ちをしているが、その可愛らしさの方向性は各人で異なっている。なぜいままで気づかなかったのか。
――それは私が今まで、歯車を見る目でこの娘たちを見ていたからだ。
目の前に誰が立っていようとも、それを喋る歯車としか見ていないのなら、見えるものも見えないのだ。
「……わかったわ。あなたたちにもちゃんと名前があるってこと、絶対に忘れない」
「わかってくれたなら、それでいいです」ポニーテールはわずかに笑みを浮かべて言った。
咲夜は今度こそ、正真正銘の眼差しを妖精たちに送り、そして僅かに口元をほころばせた。それは、閉じていた自分の目を開かせてくれた三人の妖精に対する、この上ない感謝の表れだった。
「それじゃあお三人さん。改めてあなたたちの名前を教えてもらえるかしら」
三人の顔に、先刻までの寂しさと悲しみが綯い交ぜになったような表情はなかった。あの無表情の顔さえ、微笑みに彩られているように見えた。
妖精たちは左端から順に、唯一無二の名を名乗る。
「ナチュルです」
「シエル、です。えへへ」
「……ロシェといいます」
その後紆余曲折あって、ナチュル、シエル、ロシェの三人は紅魔館を出て行った。もちろんメイドとしての仕事を辞めてしまったわけではない。三人はそれぞれに自分を見つめ直す時間がほしいとのことで、咲夜は彼女たちに三ヶ月の暇を与え、気分よく送り出したのだった。
ナチュルたちが出て行った三ヶ月の間に、紅魔館の妖精たちは見違えて仕事に精を出すようになった。というのも、メイド長である十六夜咲夜が彼女らを明確に名前で区別するようになったからだった。改善された妖精たちの働きぶりは主のレミリア・スカーレットも認めており、咲夜は紅魔館という一組織のガス抜きを成功させたメイドとして、大いにその株を上げた。
そして今日は、咲夜が組織を見直すきっかけを作ってくれたナチュルたち三人が紅魔館に帰って来る日だった。
咲夜は彼女たちの帰還を最大限に祝福すべく、今では顔も名前も覚えた妖精メイド百十六名を総動員して屋敷の掃除を執り行ったのだった。
ありとあらゆる埃が紅魔館から駆逐され尽くした頃、屋敷のドアベルが軽やかな音をたてて来客を告げた。
咲夜は汚れた給仕服を着替え、屋敷の大扉を開けた。
「……えと、た、ただいまです」
並び立つ三人を代表して、照れ屋であがり症のシエルが真ん中から一歩前に進み出て挨拶した。
咲夜はそれを顔中の笑顔で迎える。
今度はちゃんと、名前で呼べる。
「お帰りなさい。ナチュル、シエル、ロシェ」
これは人里離れた幻想郷の、その湖の畔にひっそりと建つ紅い館の物語である。
自分では暗いエンディングを書こうと思っているにもかかわらず、毎度こうなります。