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小説祭り参加作品集

P.E.A.C.H.

作者: 電式|↵

第二回小説祭り参加作品

テーマ:桃

※参加作品一覧は後書きにあります


右側のスクロールバーを御覧ください。

予想読了時間:51分(500文字毎分・小数点以下切り上げ)

「ふー……」


 腕時計に目をやる。予定時刻まであと十分――一旦口から吸い込んだ白いそれを吐き出した。


 the Perfect Evidence Assist to Crime Hits――通称、特殊部隊P.E.A.C.H.

 "完璧な証拠が犯罪の的中を補助する"これが"P.E.A.C.H."の意味だ。俺ぁ中学の英語すらマトモにやってなかったが、この意味だけは上官に徹底的に叩き込まれた。


 "P.E.A.C.H."は通信の盗聴、電子計算機へのハッキングからスパイ活動、たまに祭り(ドンパチ)といった非合法な……ゲフンゲフン、ちょっと喉の調子(ヽヽヽヽ)が悪いようだ。今のはなかったことにしてくれ。"P.E.A.C.H."は超法規的な捜査によって凶悪犯罪の証拠を前もって押さえ、阻止、あわよくば良心のタガが外れた狂人どもをブタ箱にぶち込んでお仕置きする(ケツを叩く)ための公安機関。


「書くなら"the Perfect Evidence Assist to Hit the Crimes"で"P.E.A.H.C."だろ。正しさよりゴロを優先しやがったな上層部(ヽヽヽ)


 同僚の言葉だ。だが考えてみりゃぁ、LとRの発音の違いも聞き取れねえ俺達にそんな大層なネームがいるのか? これぐらいが俺達にゃ身の丈にあってる。イエス、ウィー キャン ノット スピイク イングリッシュ。


 当然、こんな後ろ暗いことをやってる組織が世間に知れることはなく、表向きは警察官ということになっている。警察はトモダチ。結構つるんでる。内部ではピーチかモモ、あるいは専ら"Perfect"からとって隠語でパフェって呼ばれていた。「奴らにパフェお持ちしてやれ」(P.E.A.C.H.を送りこんでやれ)っつう具合だ。


 今回の任務は、足で一発ガツンしてやりゃ音を立てて崩れそうなボロアパートが舞台。一目見たときゃ、新手のムショかと思ったぜ――おっと、時間だ。予定時刻に秒針が重なるその瞬間、俺は状況開始の合図を送るべく、音符の印の入った白いボタンを押した。

 ピンポーン――


「ふわぁい……」


 年季の入ったドア越しに聞こえる眠たげな声。


「ピーチ引越センターだ」


 俺は火を消し、それを携帯灰皿にツッコんだ。ふかしながら仕事してるのがバレたらアイツに怒られる。



 そうそう、P.E.A.C.H.のことだが……実はただのしがない中年オヤジの妄言だったりする。最初(ハナ)からな。



***



 日曜日。待ち望んでいたこの日がようやくやってきたね。何を隠そう、引越しだ。床や壁に穴が開きそうになったり、ある日突然壁から水が吹き出して部屋が水浸しになったり、黒光りするアイツと愉快なアシダカ達となぜか同居を強いられたりする日々から、今日ようやく開放されるのだ。部屋はきっちり掃除してても、彼らはどこからともなく舞い込んでくる。朝起きたら顔にアシダカグモが貼り付いていたときは観念したね。僕の人生にピリオドを打つ時が来たんだって。


 高校に通うにあたって、一人暮らし向けの家賃の安い家を探していて、激安なここを見つけたっていうのが住むことになったいきさつ。でもそれを差し引いても、このアパートはボロボロすぎた。入ってみれば僕以外誰も入居者がいない。同じアパートの人にと思って買った引越しそばが、まさか在庫の山になるなんて思わなかった。余った残りは自分で食べたよ。間取りだけ見て決めたことにすごく後悔。蕎麦は涙の味がした。


 そうそう、夏場に小学生ぐらいの子供達が肝試しに来たこともあったっけ。夜中に「ごめんくださーい」なんて幼い声がノックとともに聞こえたんだ。こんな時間にどうしたんだろうと思いながら返事したら、まるでこの世の終わりを見たかのような絶叫を響かせて逃げてったよ。廃屋と勘違いしたんだろうね。夜中に電気を消して、映画館気分でレンタルDVDを見てた僕も僕なんだけど。


 とにかく僕は、高校卒業を機に新しい家に引っ越すことになった。当然だね。だけど今回も引越しにあまりお金をかけられない事情は変わらず、安い引越し屋を探していたんだ。そんなとき見つけたのが、ピーチ引越センター。自営業でやっていて、何でも屋な業務も請け負っている小さな会社。他の会社よりも圧倒的に安かったから、僕はここに決めたんだ。電話で受け付けてくれた女の人の声、おっちょこちょいで可愛くて、とても親近感が持てた。


 そして、インターホンが鳴った。


「ふわぁい……」


「ピーチ引越センターだ」


 ドアを開けると、爽やかなお兄さんたちの笑顔……とは程遠い、コワモテのオジサンの顔を拝むことができました。


「おぅ。その顔、寝起きか?」


 ……予定より二時間キッカリ早くね。



***



 見た目40代。短い髪に鋭い目つき。渋くて低い声。引越し屋には申し分ない体格。ミント色の作業着。あとタバコ臭い。

 ピンポンで起こされた僕の髪はボサボサで、顔にはきっと寝跡がついているだろう。もちろんパジャマだ。


「あの、午前9時って受け付けの人に言われてたんですけど……」


「ん、そうか?」


 確かに僕はそう言われたはずなんだ。男は眉をしかめ、胸のポケットから一枚メモ紙を取り出し一目見る。小さく舌打ち、ビビる僕。もしや僕のほうが間違ってたんじゃないかと頭の中で何回も確認する。


「わりぃ、時間ミスった」


 七か九か分かりゃしねぇ。男は小言を言いつつそれをしまう。焦ったよ。


「そういうわけなんで、申し訳ないですけど二時間後にまた出直して――」


「まぁ、そうかてぇ事言うなや」


 そっとドアを閉めようとした僕に一歩歩み寄り、ドア横の壁に手をついて迫る。僕は反射的に、閉めようとしていたドアの運動方向を真逆に、つまり開け放っていた。静かに、ゆっくり軋みながら全開になる僕のドア。いい子だから戻っておいで。できれば戻ってくるついでに、目の前の怖いオジサンをぶっ飛ばしてくれるといいな。レッツ☆サイコキネシス! ……僕にそんなチカラはない。虚しくなった。やめよう。


「せっかく来たんだ、茶の一つでも出してくれや」


「厚かましいな!」


 どっちが上だよ! そう思った時には突っ込んでしまっていた。……怒ったりしないよな? ツッコミにブチ切れられたら、ほぼ確実に僕の精神は崩壊するだろう。男はどう反応するのか。僕の視線は彼の顔に釘付け。フン。口元が緩んだ。


「どうしてもっつうなら出直すが、仕事は早く終わらせるに越したこたぁねえ。あと、こっから事務所までの往復の燃料代は別途でつくぞ」


 幸いにして、ツッコミにキレられることはなかった。とりあえず安心して良さげだ。さて、次に僕が言うべきことはただ一つ――


「……そっちのミスですよね?」


「燃料代がバカになんねぇんだ。トレーラー一両でやってるもんでな」


 男は僕の視界の前から退いて、そのトレーラーを見せる。長い荷台に載った、青地にかわいらしい桃のマークがあしらわれた「貨物コンテナ」。貨物船が運搬するような、あの細長い直方体のコンテナ。とにかく大きい。小さいアパートの駐車スペースに収まるよう、敷地いっぱいにくの字に折りたたむようにして駐車している。それでもギリギリはみ出るかはみ出ないか、といったぐらい。神がかりな収まり方だった。


「つーか敷地内に収めるの結構面倒」


「そうだろうと思います……」


 もう一回駐車なんてゴメンだ。そんな理由で、午前七時過ぎ、男を部屋に上げることになりました。






 歯磨き、洗顔、昨日コンビニで買ってきた軽い朝食。そんな一日にコワモテなオジサンをPlus。

 今日も一日、明るく張り切って……って出来るわけがない。さっきからリビングのオジサンからのオーラが半端ないです。怖いです。本人は「とって食おうなんて気はねぇ。まさか好意で居させてもらえるなんざ思わなかったぜ。気にするな」って言ってたけど、あの頼み方は半分脅迫じみていると思うのは僕だけじゃないはず。


「荷物は片づいてるな。いい心がけだ」


 部屋に積まれたダンボールの山を見て男は呟いた。受け付けの若い女の人に、「前もってダンボールを送りますので、それで荷物をまとめておいてください」と言われたのだ。送られてきたのは桃色で「ピーチ引越センター」のネームが入った白ダンボール、大きさは同じだけど、無地の茶ダンボール、別の引越会社のダンボール。どれも見た目新品で使い回されたわけじゃなさそうだけど……競合他社のダンボール使うのってどうなんだろう。


「そりゃおめぇ、経費削減に決まってんだろ」


 恐る恐る、あぐらをかいてクシャクシャになったチラシ片手にスマートフォンをイジる彼に聞いてみると、そんな答えが返ってきた。「要は箱に入りゃいいんだ。ガラが気になるなら、次はヨソの引越し屋に頼むんだな」とも。大丈夫。引越し先はここからかなり遠いし、頼むのは今回が最初で最後だよ。


 ところで、引越し作業を受け持つのはこの男一人だけなんだろうか。確かに僕は一人暮らしだから荷物の量は少ないだろうけど、それでも作業するのが一人というのは心もとないというか、時間がかかるんじゃないかって思う。


「もしもし。おぅ、ちと三人ぐらい寄越して欲しいんだが……今からだ。ぁあ? 今からだ。分かるか? い、ま、か、ら、だ……追加料金? んな細けぇこと後でもいいだろ……一文無しで電話かけるバカがいるか。ちゃんと出すに決まってんだろ。ああ出す出す。だぁか出すって。とにかくガタイの良い奴を三人、至急寄越せ。いいな? 場所は――」


 電話の内容を聞けば、どうやら状況を見て人を手配する仕組みらしい。疑問がすぐ解けたことはいいことだけれど、"追加料金"という不穏な言葉が引っかかる。しかもどうでもいいって一蹴してたのが余計に。ヤバいところに頼んじゃったんじゃないかと、僕ちょっと不安です。


 電話を切ると同時に、玄関のチャイムと掛け時計の時報が鳴った。人手の調達スピーディー! 至急のフラグはダテじゃない!

 男は出るようにアゴをしゃくる。あのー、なんで雇われている人間がそんなに偉そうなんでしょう? でも逆らうのが怖いから大人しく従う僕。


「どうもー! ピーチ引越センターでーす!」


 ドアを開ければ、黒髪セミロングなメガネっ娘が一人立っていましたとさ。うん、僕好みの清楚系。






 男は気怠(けだる)そうにトラック――正しくはコンテナ――から、部屋の養生、それと大型の家電製品の梱包に必要な資材を持ち込んだ。


 ドアの前に立っていたのは、僕と同じぐらいか、少し年下の女の子。名前は原田理香(はらだりか)。彼女とこの男は一つ屋根の下で暮らしているらしい。彼女は男を「お父さん」と呼び、男は彼女を「理香」と呼んでいるそうだ。


 電話で受け付けを担当した声の主は彼女。どうも聞き覚えがあると思って聞いてみたら、小遣いつきの手伝いで受け付けをやっているらしい。家に来て早々「七時か九時か分かるようにハッキリ書け」と、父親に手で頭を小突かれ、「てっ!」とふらつく彼女。


「ごめんなさい……」


 確かに思い返せば、彼女は電話口でも「七」と「九」を読み間違えていたような気がするけれど……かわいいって特権だよね。うん。つまり僕の煩悩に従って、今日の不手際を許すってことだ。


 今日は日曜日で学校は休み。彼女はやっぱり手伝いだそうだ。小遣い目当て。

 小柄で華奢な体格の彼女に力仕事はどう見ても向いていないのは明らかだけど、力のいらない作業、例えば養生作業の手伝いなんかはできる。


「引きずって傷がつくことがないようにしっかり養生しろよ」


「はーい」


 隣町で暮らしているという二人。彼女は年下だった。今高校生で、僕が高校時代よく耳にした学校に通っているらしい。年が近いこともあって、僕と彼女は話が弾んだ。


「お父さんはね、見た目ワルで荒っぽく見えるかもしれないけど、結構繊細な人なんだよ」


「そうなんだ」


 彼女は養生テープを貼りながら言った。出会って早々脅迫まがいのことをされたことを彼女に言うべきか少し迷ったけれど、男は僕達の会話を知ってか知らずか、ちらりと一瞥(いちべつ)した。……多分、僕に釘を刺したんだと思う。


「ごめんくださーい! 便利屋『猫の手』でーす!」


 開けっ放しにしていた玄関のドアから、若い男が覗きこんだ。便利屋「猫の手」? 便利屋なんて僕頼んでないよ。そこで僕ははたと気がついた。チラシ、電話、追加料金。これってもしや――


「おう、やっと来たか」


 頼んだのはやっぱりこの男! 男は冷蔵庫を包む緩衝材を紐で縛って固定しながら、便利屋に目をやる。さすがにこれは僕も一言言わねばなるまい。僕は意を決して、冷蔵庫を梱包していた男に歩み寄る。


「おせぇぞ、待ちくたびれた」


「あの! 便利屋代は誰が払うんですか?」


「あ?」


 射抜かれそうな視線。びくっ。


「ピーチ引越センターは便利屋の料金もコミコミの安心価格でご提供させてもらってるが?」


「……そうなんですか」


「こちとら二人でやってんだ。人手が足りなくなるのは当然だろ」


 男はしょうがないといった顔つきで答える。なんだ、僕が別途便利屋代を払う必要はないんだ。安心したよ。

 ていうか、人手が足りないの分かっててなんで引越し屋なんか始めたんだろう。


「うっし、これで最後だ」


 男は呆れる僕を気にもせず、冷蔵庫の梱包を終えた。これが最後の荷造りだった。男は便利屋に荷物を貨物コンテナの中に積めこむように指示すると、「引越し屋」の本人は窓を開けてタバコをふかしはじめた。


 予定時刻の二時間前に来て居座って、荷物の運び出しなんかの重労働は便利屋任せ。料金格安だからある程度は我慢しようと思ったけれど、さすがにこれはメチャクチャだ。正直文句を言ってやりたいところだけれど、一応引越し作業はトントン拍子で順調に進んでるし……言いづらい。ピーチ引越センター、その実態はピンハネセンターといったほうが正しいと思う。


「もうお父さん! 私達引越し屋なのにサボってちゃおかしいでしょ! タバコも吸わない!」


 彼女も地団駄踏んで呆れ声。手近にあったダンボールを一つ、重そうに抱え上げ、足をふらつかせながら半ば倒れこむようにして父親に押し付けた。男はとっさにタバコを持つ手を替え、彼女が押し付けたそれを片腕で軽々と抱える。


「おおぅ無理すんじゃねえ、ケガすっぞ……(サボりは)やっぱダメか?」


「当たり前でしょ!? お金もらってるんだからちゃんと働かないと!」


 彼女が常識人で本当に良かった。男はため息を一つダンボールを下ろし、タバコを携帯灰皿に投げ入れる。腕を伸ばして大きく背伸びし、再びそれを抱え上げて荷物運びに加わった。






 荷物の搬入作業は午前中に終わることができた。

 予定では昼過ぎにここを出ることになっていた。お昼まで、まだ時間がある。男は「早いうちに出発できる」って言ってくれたけれど、僕は予定通りに出発するようお願いした。

 便利屋は、引越し先の家にまで連れてきてこき使うんだそう。それを聞いたリーダーらしい人が、何かゴニョゴニョと口ごもったけれど、男が睨みを利かせると、大人しく首を縦に振った。同情するよ、便利屋さん。僕も男の睨み顔、トイレに直行したくなるぐらいに怖いと思ったし。

 

 そういうわけで、便利屋は予定の時刻まで休憩で外をぶらぶらするらしい。依頼主である男に呼び出し用の携帯番号が書かれたメモを渡して、どこかへ雲隠れしてしまった。本人は何事もなかったかのようにリビングでスマホをイジってる。


「本当に、何にもなくなっちゃったな……」


 呟いた言葉が、味気ない空間に響いた。手を叩けば、ビィン。不思議な残響。僕の住んでいた部屋は、こんなにも広かったっけ。今朝まではこの家から出られる喜びに浸っていたけれど、気がつけば空虚(ノスタルジック)な気分に浸っていた。


「はぁー……」


 僕は和室に足を踏み入れて、毛羽立った畳の上に寝転んだ。太陽の光が差し込んできて、畳が温かい。見慣れた天井のシミも今日で見納めか、なんてありきたりなことも呟いてみる。いつもうざったく感じていた、"い草の破片が靴下に入り込んでチクチクする現象"ですら、今の僕にはいとおしい。


 両隣の家への最後の挨拶も、さっき済ませてきた。お隣さんはいつも僕に良くしてくれた。余り物を分けてもらったり、まだキレイな日用品を、使わなくなったからって譲ってもらったり。すごく大助かりしていた。けれど、僕には気の利いたお返しはできなくて、ただただ頭を下げながらそれを受け取るしかなかったんだ。でも今回引越しするにあたって、別れの挨拶ぐらいはちゃんとしなきゃと思って、喜んでもらえそうな品を探しにあちこち回った。……結局、逆に僕が品を貰うことになったけどね。物々交換みたいな形で。良い人すぎだよお隣さん。最後の最後まで頭が上がらなかった。


 回想にふけっていた僕の視界に理香さんが映った。僕の横に座る。彼女も例に漏れず暇なのだ。


「僕に何か?」


「いえ、年が離れている人より、近い人といるほうが落ち着くので」


 彼女は笑顔でそう答えた。


「どれぐらいここに住んでたんですか?」


「きっかり三年と+αってところ」


「結構古いですよね、この家」


「まあね」


 確かにこの家はボロくてちょっと汚くて、お世辞にも良い家とはいえない。けれど、嫌なことばかりでもなかった。友達とスクラムを組んで、アパートに棲む害虫を殲滅(せんめつ)すべく、ダルサンを焚きまくってバカ騒ぎしたり、僕しか住んでないことをいいことに、友達を集めて日暮れまでバカ騒ぎしたり(なぜかこれでも害虫を見ることはかなり減った……トラウマ?)、アパートの駐車スペースで花火をしてバカ騒ぎしたり。

 ……うう、バカ騒ぎしかしてないような気がする。


「この通りボロボロな家だけど、今こうして考えてみると愛着を持ってたんだと思う」


「そうですか」


「ていうか、さっきまでタメだったのに、何でいきなり敬語にしたの?」


「その、やっぱり関係上(ヽヽヽ)ふさわしくないと思ったので」


「雑談の時ぐらいタメでいいよ、いやタメでお願いするよ。くすぐったい」


「じゃあ、お客様のご要望にお応えして。『ふうん?』」


「何だよそれ。疑問形じゃないか」


 僕も彼女も笑った。






「うわ、でけぇ!」


 しばらく彼女と話に花を咲かせていると、玄関の向こうから聞き慣れた声がした。


「ちょっと知り合いが来たみたいだから、ごめんね」


 アパートの廊下から顔を出して階下を見下ろす。高校時代の同級生、というとまるで旧友みたいになるけれど、ついこの間まで一緒につるんだ友達が集まっていた。トレーラーが邪魔で全員の姿を見ることはできないけれど、頭の数から総勢7人いることは分かった。送別会はつい一昨日したばかりなのに。


「なんだ、まだ居やがったのか! 最後まで未練がましいヤツだなお前!」


「そっちこそ、この前サヨナラしたのにこんなとこまで来て、未練がましいと思わないかい?」


 階をはさんでのやり取り。みんなを僕の家に招き入れた。


「おー、マジで何もないな」


 どの部屋も直方体の箱と化しているのを見て、みな口々にそういった。


「せっかく手伝ってやろうと思ってたのに、終わってるじゃん」


「お前、『俺はサボり役』って言ってたろ」


「え? 誰が?」


「お前だよお前!」


 今日みたいな特別な日でも、みんなはちっとも変わらなかった。さっき僕がしたように、ちょっと声を張り上げてみたり、手を叩いてみたり。いつもどおりバカ丸出しだった。


「なんだ、こいつらも持ってく(ヽヽヽヽ)のか?」


 相変わらず堂々とした風格でスマホを触っていた男。彼は友達を連れてきたことを認めると、口元を歪ませた。


「どうも、こんちわ」


「こんにちはー……」


「引越し屋さんっすか」


「おう」


 友達に対してもその態度は変わらない。男は言葉一つ簡単に交わしただけで、また画面と向き合う。


「こっちの女の子はお前の親戚?」


「私はただのバイトです」


 一人が彼女に気づいた。彼女は父親である男の近くに座って、携帯電話をイジり始めた。親子は似るもんだな。友達のうちの一人が僕の名前を呼んだ。


「出発まで時間あるか?」


 腕時計を覗きこむ。出発までまだ少しある。


「一時間ぐらいしたら出てくよ」


「そうか。じゃあゲームしようぜ!」


 各々が携帯ゲーム機を取り出した。僕らの中で、ゲーム機でやるゲームといえば、いつも決まっていた。最大八人で対戦できる戦闘アクションゲーム。他のゲームをすることももちろんあるけれど、全員がこれを持っていることが遊びに参加する絶対条件のようなものだった。


 僕達の間で"ゼロ・ハミー"と呼んでいたルール。その内容は単純明快、「『はみ出し者』を作らない」こと。せっかくみんな集まったのに、誰かが何かを持ってないから遊びに参加できない、なんて事態が起きないようにするために決められたルールだ。

 そのゲームを持ってくれば、絶対にはみ出し者になることはない。誰が言い出したかは僕は知らないけれど、僕らが集まるときは、最低限このゲームができるよう準備して持っていくことが暗黙の了解だった。


「いいよ」


 ダンボールに詰めなくてよかった。僕もカバンからゲーム機を取り出して、畳の部屋に集まった。


「さてはお前、俺達が来ると読んだな?」


「読んでなんかないよ」


 本当はちょっぴり期待してそうしたんだけどね。ゲーム機の電源を入れる。僕達がやるゲームは、ちょっと時代遅れだけど、それだけ安く入手できるし、流行るだけの面白さが保証されていた。友達の一人が声を上げた。


「やっべ、充電すんの忘れてた」


「これ使えよ。スマホ向けだけどこれでも充電できるから」


「お、サンキュー!」


 ゲーム機を持ってなかったり、使えない事情があるときのために、各自予備を持ってこれるときは持ってくる。それも暗黙のルールだった。僕が引越してきて彼らと友達になったとき、ハードもソフトも持ってなかった。それで"ルール"に従って誰かが兄弟姉妹のものを借りてきてくれたのが始まりだった。


「借りはあとでオゴリな」


「デリシャス棒ならおごってやるよ」


「俺が前もって充電して、汗水垂らしてここに持ってくる労力の対価が、たったの十円とな!?」


 こんなちょっとした配慮が、僕達が仲良しでいられる秘訣だった。


「そうだ。引っ越すお前に餞別(せんべつ)のアイテムをやろう。これで君も今日から怖いものなしだ」


「あ、俺もやるわ」


「じゃ俺も」


 ゲーム内のロビーで行える、プレイヤー同士のアイテム交換。確かに僕はこの手のゲームはあまり得意じゃなくて、足を引っ張ることがあった。


 "プレイヤーより贈り物が届きました"

 画面に表示されるインフォメーション。少し期待しながらそれを開封する。


「……なにこれ、要らない物ばっかりじゃん」


「俺たちからのハートウォーミングな(心のこもった)プレゼントだ。喜んでくれたかな?」


「嬉しいよな?」


「な?」


「わー、とーってもうれしいなー」


 どこでも手に入るアイテムや、使えないアイテムばっかり送ってきてくれました。僕の声が棒読みになるのも無理はない。






 楽しい時間はあっという間に過ぎる。それは今日とて例外じゃなかった。意地悪な誰かが時計にイタズラしたんじゃないかっていうぐらい。男にお願いして予定時刻を三十分遅らせてもらったけれど、その時間もあっという間に過ぎてしまった。プレイ中、どこからか見られているような気がすることが何回かあったけれど、視線の正体は僕には分からなかった。


「お前、引越し先までは何で行くつもりだ」


 友達をみな部屋から追い出した。最後の部屋の確認をしていると、男は僕に近寄ってそう聞いた。


「えーっと、電車に乗っていこうと思ってるんですけど」


「予約でもしてるのか」


「いえ、特に……」


 僕がそう答えると、男は僕に金属の小物とカードを投げ渡した。いきなり投げられたものだから僕は慌てて、金属のそれは受け取れたけれど、カードを上手く取ることができず、取り落とした。カードには男の顔写真が入っていた。


「そいつはトレーラーの鍵と大型免許だ。貸してやるから運転してけ」


「無理っすよ! 免許証をポイントカードみたく扱わないでください」


 僕は免許と鍵を男に返す。確かに法令上は僕も免許を持てるけれど、ちゃんとした教習を受けてないから取れるはずもないし、カードを借りたからっていって運転できるわけでもない。

 それに安易に他人に免許なんか見せたら、個人情報ダダ漏れです。漏れてるどころかおもいっきり流しちゃってます。笹村聡(ささむらさとし)……娘と苗字が違う。見ちゃったものは仕方ないよ。忘れるように善処はするけどさ。


 でも、やっぱり気になって、忘れられそうにない。「父親」の笹村さん、「娘」の原田さん。


「俺ぁ、荷物運びで明日ぐらいから筋肉痛になりそうなんだ、休ませてくれよ」


「いやいや、その理屈はおかしいですよ!?」


「ぉお? お前は年上をこき使うのか。なかなかいい度胸してるな」


「ちゃんと仕事してくださいお願いします」


 男は渋い笑い声を上げる。


「乗れや」


「…………?」


「乗れや」


「……はい?」


 僕は言葉の意味が分からず聞き返した。男は免許証を財布にしまい、鍵を振って鳴らす。


「だぁら、引越し先まで連れてってやるっつってんだよ。トレーラー乗れや」


「い、いいんですか?」


 乗り心地は保証しないがな。交通費が浮くその提案に、僕が乗らないわけがなかった。


「トレーラー出すから待ってな」


 男が駐車スペースからトレーラーを出しに行っている間、僕は部屋を施錠して、アパート向かいの大家さんの家に鍵を返しに行った。これで本当に出発。みんなは僕を呼び止める。送別会で貰ったはずなのに、またお別れの品をくれた。

 今まで付き合ってくれたみんなと一人一人握手。どの手も、握る力は強かった。


「じゃあね」


 僕はトレーラーに乗り込んだ。中は三人乗りだった。運転席に男、真ん中に彼女。そして左端が僕。トレーラーの運転席の視点は、思ったよりも高い。

 エンジンが唸り、車体が大きく身震いする。窓を開けて手を振った。躊躇いなく加速していくトレーラーを、やっぱりみんな追いかけてきていた。


「向こうに行っても連絡よこせよ!」


「分かってるよ!」


「一度こんなのやってみたかったんだー!」


「みんな足遅いぞー!」


 窓から顔半分を出して、みんなと最後の会話。僕の言葉に、その一人、元陸上部の彼は部活魂に火がついた。みんなを置いてきぼりに、トレーラーをも追い抜かんとする速さで雄叫びを上げながら迫る。本気の形相がちょっと怖い。


「ぬおおおおっ! 連絡来なくなったら死んだことにするかんなー!」


「ひどっ!」


 彼はそれを言い切ると、徐々に失速していく。ついに姿が見えなくなってしまった。


 見慣れた景色が流れていく。スーパー、コンビニ、百円ショップ、本屋にパン屋、いつも通学時に渡っていた交差点――

 そのどれもが、今日いまこの瞬間で見納めなんだ。たった三年だったけれど、僕にとってはとても濃くて、忘れられない三年間だった。

 僕のスマホが震えた。友達の声。


「つうか、イマドキ追いかけてサヨナラしなくても、電話でいつでも出れるんじゃね?」


「……それ言っちゃおしまいだよ」


 追いかけてもらえるのは嬉しかったけど、できれば今は電話してほしくなかったな。ちょっといい感じでさよならしたかったのに、みんなして雰囲気ぶち壊しだよ。

 でも、(男の豪快っぷりは除くけれど)こんな引越しもアリかなとか、ちょっと思っている僕がいた。






 見慣れた景色は少しずつ遠ざかり、ついにトレーラーは高速道路に入った。

 車速が安定してすぐ、男は胸ポケットをまさぐった。折り跡が付いて少しいびつな紙箱から、タバコを取り出し口にくわえる。


「お父さん?」


 密室で吸われるのは堪らない。彼女はすかさず止めに入った。どっちもどっちだけど、父親よりも娘の方がしっかりしてるように見える……怖くて口には出せないけれど、お父さんしっかり。


「あぁ、悪りぃ。箱が手元にあると、どうも手が伸びちまうもんでな」


 男はタバコを箱に戻した。


「身体に障るモノにお金出すの止めようよ。ね、禁煙しよう?」


「若いもんに毒を吸わせるわけにもいかんな……」


 男は眉をしかめて一考する表情を見せる。数秒の間をおいて、男はタバコの箱とカードを彼女に手渡した。


「お前、いつも鍵つきの小箱持ってるだろ。そん中に入れといてくれ」


「それじゃ私がお父さんのパスポ使って、こっそりタバコ買ってるみたいじゃない。誤解されてお世話になるの嫌だからね?」


「んなこと滅多にありゃしねえだろ」


「ないって言い切れるの?」


「じゃあどうすりゃいいんだよ」


「私は鍵だけ持っておくから、箱はお父さん持ってて。それでいいでしょ?」


 おっちょこちょいはあっても、やっぱりしっかりしてるのは理香だった。彼女は男からタバコとカード、それからライターを受けとって、バッグから取り出した小箱の中に納めた。


「私の大事なモノとか入ってるから、いくら吸いたくなってもピッキングしたり破壊したりしないでね?」


「破壊するような顔に見えるか?」


「見えないけど、一応ね」


 ごめん。知らず知らずのうちに心が汚れてしまっていたのかもしれない。僕には見える。「タバコタバコっと……」って言いながら安全ピンを鍵穴に差し込んでる姿が。でも、人は見た目によらないっていうし……

 それからしばらく、会話が途切れた。


「何か聞くか? タイヤの音ばかり聞いてても面白くねえだろ。つか俺が寝る」


 男はハンドル片手におもむろに足元のケースに手を突っ込んで、CDケースの束を彼女に突き出した。


「ちょっと、これ私のCD!」


 彼女は慌ててそれを取ろうとして――取り落とした。おっちょこちょいな彼女のCDケースは僕の足元にも滑り込んだ。


「落ちたよ」


「あっ!」


「……?」


 僕が拾い上げたCDケースの表面には可愛らしい女の子のイラスト――サブカルチャー。


「あんまりジロジロ見ないで!」


 彼女は顔を赤らめ、CDを奪い取った。僕は顔を歪ませずにはいられなかった。そうか。そういうことだったのか。


「僕は二曲目が好きなんだ。サビの直前が特にね」


「……持ってるの?」


「うん、トレーラーのコンテナに積まれてるよ。初回仕様のポストカード付きのものがね」


 僕と趣味が一緒だったのだ。彼女はまだ赤い顔のまま、怪しげに僕の顔をのぞき込んだ。けれど、僕がそのフレーズを口ずさむと表情がひっくり返ったかのように微笑んだ。男は僕達の会話なんかまるで聞こえないといった様子でハンドルを握っている。


「さっき僕達がゲームしている間、様子を覗いてたりしてたでしょ」


「……すみません」


 さり気なく聞いたつもりが、視線を下げしゅんとする彼女。僕は慌てて取り繕った。


「いやいや気にしてないしさ。その、言ってくれたら、貸してあげられたと思うよ」


「その、実は、私も持ってるんですけど、一緒にやってくれる人がお父さんしかいないんです。だから知ってるゲームで遊んでるところを見てると、手伝い中っていっても、やっぱり気になっちゃって」


 この、いかにも豪快で荒そうな男が、携帯ゲーム機のボタンをチマチマ押しながらプレイする姿は、僕にはちょっと想像しづらかった。けれど、彼女の話を聞いていると、だんだん僕の男に対して抱いている印象は間違ってるんじゃないかって、そう思えてきた。


「…………。」


 男は相も変わらず無言だ。

 僕は彼女に「友達は知ってるの?」そう聞こうとして……やめた。そんなこと、さっきのCDの反応を見ていたら簡単に想像がつくことだった。


「理香さんは、普段友達とどんなことを話してるの?」


「実は、前の学校から転校してきたばかりで友達は、まだ……できてなかったり」


「そうなんだ。気の合う友だちが見つかればいいね」


「…………。」


「…………。」


 結局、CDプレーヤーの電源はまだ入っていないまま。再び走行音だけが車内を満たしはじめた。もし彼女が同じゲームを持っていたならば、ここでプレイすることもできただろう。けれどあいにく、彼女はそれを持ち合わせておらず、一人の僕に同じ物を二つ持つほどの余裕もなく。予備といえばバッテリーぐらいしかない。僕は別の話題を振ってみることにした。


「ところで、『ピーチ引越センター』の名前の由来ってなに?」


 僕は彼女に話題を振ったつもりだったけれど、反応したのは男のほうだった。


「『客の家財道具は桃を扱うがごとく丁寧にお運びいたします』っつうのが由来だ」


「そうなんですか」


「そうだ」


 僕は何の気なしに答えた。「桃を扱うがごとく」と言っておきながら、荷物の運搬を便利屋に任せるとはこれいかに。これからどうお話を膨らませようかと考え始めたその瞬間。


「……表向きはな」


 男の低くて重い声色が車内に響いた。隣の彼女は驚いた表情で男を見つめた。


「表向きって、それ本当の由来じゃなかったの?」


 彼女も初耳のようだった。目を見開いて、視線は男の顔に釘付けになっている。男は運転席の景色から目を離さず、黙々と運転を続ける。


「もうちっと早いうちに言っておくべきだったな……」


 その目は、遠くの地平線を眺めているように僕には見えた。


「俺は人を殺した。それがこの仕事を始めたきっかけだ」


 寝耳に水な展開だった。


***



 九年前の話だ。俺が一人この引越し屋を始める前までは、トレーラーで貨物を運ぶ仕事をしていた。でだ、ある時北方までの長距離の仕事を任されたんだ。俺一人の単独輸送。中身に何が積まれてるかは知ったこっちゃないが、かなりの量が入ってたな。


 当時その地方では大雪が降った後でな。少し日差しが出てきたもんで路面が凍結してるところもあった……まあ、当時の俺も若かった。ちっとばかりの無理ぐらいどうでもないとか、妙な自信があったし、何よりも中古だが自前のトレーラーを持てたばかりっつうこともあって浮かれてた。


 ……轢いちまったよ。子供二人。


 昼間、小学生ぐらいの坊主が公園から突然車道に飛び出してきたのが見えた。俺は反射的にブレーキ踏んだよ。だがな、路面が凍結してるせいでブレーキを踏んでも全然止まらねぇんだ。加えて中学生ぐらいの女の子も飛び出してきてな。あとで聞けば、坊主の姉だったらしい。多分坊主を連れ戻そうとしたんだろうな。クラクションを鳴らしたんだが、その女の子は弟のことで頭いっぱいの様子で、こっちを見向きもしねえ。


 俺はハンドルを思いっきり切った。やっちゃいけねえのは分かってはいたが、思わずやっちまった。案の定、運転席の視界がグルンと回ったよ。見事なまでのジャックナイフだった。こうなっちゃハンドルもなにも効きやしねえ。流されるまま流されて、横倒しだ。

 結局その子らはトレーラーの下敷きになってな。何十トンって重さの下敷きになったんだ。救急車で搬送されたが、結果は分かりきっていた。


 俺も無傷じゃいられなかった。足を骨折しての入院だ。ベッドの上の生活は苦痛だった。目を閉じるたびに、あの悪夢の瞬間が何回も再生されるんだよ。拷問そのものだった。病院食は出されたが、食う気にはなれなかった。このままじゃ死ぬってんで栄養剤の点滴も受けた。


 いっそこのまま死んじまいたいと、いてもたってもいられなくなって、ついに俺は病院を脱走した。人の目をかいくぐって、片足を引きずりながら着の身着のまま飛び出したわけだ。雪の降り積もる外の空気が身に染みた。俺は雪の上に寝そべって、あの寒い中死んでいった子供らのことを想った。あいつらも寒い思いをして、痛い思いをして死んでいったんだ。俺もその苦痛を味わって死ぬべきだと、そう思った。目を閉じれば再生される悪夢。後悔と悲しさがどうしようもないぐらいに渦巻いて、俺はその場で力の限り吠えることしかできなかった。

 ……結局、警察のご厄介になって死ねなかった。


 俺は二人の葬式に参列させてもらった。被害者の遺族は俺を責めるどころか良くしてくれた。"あんたは悪くない、うちの子が飛び出したからそうなったんだ"……優しい言葉をかけられるたびに、目から涙が溢れ出た。遺族が目を真っ赤にして、顔を歪ませながら涙声で、自分の理不尽な感情(ヽヽヽヽヽヽ)を押し殺すようにして言うんだ。"うちの子のせいで人生をめちゃくちゃにしてしまってごめんなさい"と。


 あの時、もう少しだけでも気を引き締めていれば、もしかしたら何か変わったかもしれねえ。何で俺はあんなことで浮かれてたんだ。優しい言葉を、後悔の念が凶器に変えて俺を切りつけた。

 俺は棺桶の中の二人の亡骸を目にした途端、その場で立つ気力をなくして泣き崩れた。



 俺は免停を喰らって、仕事ができなくなった。会社も辞めた。

 他の職を探した。運ちゃんになる前は、検察官とか、法で裁く立場の職に就きたいとかそんなことを思っていた。だが小さい頃から脳筋で成績が芳しくなかった俺がなれる見込みなんざ、毛頭なかった。


 結局俺にゃ大型車しかなかった。事故を起こしたトレーラーは……会社のものだった。俺のトレーラーじゃなかったのが幸いした。安い仕事で食いつなぎながら、何年もかけて貯金を肥やして免許も取り直して、ようやく今の会社を立ち上げた。その会社の名前が、「ピーチ引越センター」だ。


***


「俺ぁ事故で、それまで積み上げてきたものを失った。だが、こうしてハンドルを握っている今ですら、いや、ハンドルを握っているからかもしれねえ。あの一瞬で全てが崩れ去ったこと、病院を飛び出したこと、今こんな仕事をしていること、すべてが信じられねえ。夢か幻でも見てるんじゃないかっつうぐらいに実感が沸かねえんだ」


 男は続ける。


「会社、仲間にも散々迷惑かけた。仲間のツテで新しい仕事の斡旋までしてもらった。その上に俺の今がある。新しい生活に不安を覚えることはたんまりあった。恫喝上等、チカラがモノ言うサル社会。そんなお先真っ暗で出口があるのかすら分からねえ生活に足を突っ込んだんだ。正直誰かの手助けが欲しかった。あれほど『大丈夫』の一言を渇望したのは初めてだった。トレーラーを手放して現金にすることもできた。だがどういうわけか、手放そうと思うたび、それを阻止するかのごとくどこからともなく臨時収入が舞い込んできたんだ。不思議だった。今思い返せば、今の生活の為に神様が『持っておけ』って言っていたのかもしれねえな」


「そして幸いにも俺はこの通り、トレーラーを手放すことなくどん底から抜けだすことができた。俺が引越し屋をしようと思い立った理由はそんな経験からだ。今までの暮らしに終わりを告げて新しい生活を始める。俺と同じような境遇のヤツはそうそういねえだろうが、誰しも新生活に不安は持つもんだ。俺はそういうヤツの始まりを見届けたいと思った。苦労したことを忘れちゃならねえと思った」


 昔の記憶が思い起こされたらしい男の目頭に涙が溜まる。彼は鼻をすすって目頭を拭った。彼女も、目を赤くしてむせこんだ。


「『桃栗三年柿八年』この(ことわざ)の最初の『桃』が本当の由来だ。積んだ貯金で買ったトレーラー。どん底からコツコツ貯めて立ち上げた引越し屋。俺は、地道に積み上げてきた証の『桃』のマークをデカデカと掲げることにしたわけだ」


 僕は、男の壮絶な話に返す言葉が見つからなかった。引越し屋を始めた理由。引越し屋の名前の由来に、こんな背景があるなんて予想もつかなかった。


「理香には悪いが、あのこと言わせてもらうぞ」


 男は彼女に言った。彼女はCDケースの束をひざ上に乗せ、座り直し、そっと頷いた。何のことか分からないけれど、大事なことであることだけは確かだった。僕はつばを飲んだ。


「事故を起こしてから一つ、俺は心に決めていたことがある。金に余裕が出てきたら、人を殺した償いをしようと思っていた。少年、いいか?」


「え、はい……」


 僕はいきなりの質問に戸惑いながらも答えた。何を意図した質問なのかすらも分からないまま。


「少年、いいか。俺と理香は"里親"と"里子"の関係だ。賢そうな顔してるお前なら、『理香がここにいる理由』、察しがつくだろ」


「……はい」


 僕は男の見込みほど賢くはないと思うけれど、把握することはできた。彼女が男と生活している理由。事故で子供を轢いてしまった償いに、彼は親に恵まれない子供に手を差し伸べたのだ。彼女はこの話を聞くのもおそらく初めてだろう。そっと横目で見る。彼女は俯いていた。


「昔は里親を希望する家庭はたんまりいたらしいんだがな。景気の悪化やら法律の改正なんちゃらで、今はすっかり減っちまったらしい。だからこんな俺でも里親になれた」


「金に余裕があるといっても、そうポンポン手を差し伸べることはできねえ。せいぜい一人が限界だった。だから俺は俺なりのやり方で、預かった理香を幸せにしてやろうと思った。早いもんで、一緒に暮らし始めてもう二年になる」


 そこまで言うと、男は遠くから近づいてくる緑看板を指さした。


「そろそろ昼にするぞ。結構長時間ハンドル握ったからな。事故るのは懲り懲りだ」






 山の中に作られたサービスエリア。駐車場にトレーラーを停めて、僕達は食券機の列に並んだ。とはいっても、お昼のピークの時間よりちょっと遅れて入ってきたので、席が埋まるほどに人がいるわけでもなかった。日曜日だということもあって、家族連れの顔もちらほら見えた。


「理香、好きなの選べ。……あぁ、少年。おめぇは自腹だ」


 自分たちの番が回ってくると、男は僕の背中を突いて先頭に押し出した。や、別におごってもらおうとか思ってない……って言ったらちょっと嘘になるけど、ほとんど期待はしてなかったよ。所詮は他人だし。


 僕と彼女はきつねうどん、男は味噌ラーメンを頼んだ。ここはテレビでグルメ特集されるようなサービスエリアじゃない。味は可もなく不可もなくといったところ。僕は麺にコシがある方が好きだったけれど、出されたうどんはそうじゃなかった。うーん、あまり美味しくなかった、が一番近いのかもしれない。作ってくれたおばさんには悪いけど。もしかしたら、あんな話の後で会話が続かなかったのも原因かもしれない。


 食事が終わったあと、僕達はしばらくの休憩――自由行動を取ることになった。引越し先までの道のりの半分以上は進んでいたけれど、到着まではまだ結構時間があった。

 僕は売店でお菓子を幾つか買った。飲み物も買おうかと思っていたけれど、あいにく売り切れになっていた。僕は建物の外に出て自動販売機に買い求めた。硬貨を入れる。緑色に光るボタン。飲み物を決めてボタンを押そうとしたとき、彼女から声がかかった。


「売店のほうが安いんじゃない?」


「ああ、売店の飲み物は売り切れてるよ。こっちのほうが種類豊富」


「あ、そうなの」


 彼女は僕の後ろに並んだ。僕はここで一服する用に一本、車内で飲むため用に二本、飲み物を買った。彼女も同じように二、三本飲み物を買って、肩にかけていたショルダーバッグの中にしまった。


 僕はサービスエリア端の緑化ゾーンに足を運んだ。手入れはちょっと雑で、背丈の短い雑草やコケが、足元に敷き詰められたタイルの隙間から元気に伸びている。背後に立つ桜はまだつぼみのままだけれど、太陽の光は暖かい。もうじき咲くだろう。円柱状の形をした石のイスに腰を下ろす。新品のペットボトルのキャップを捻ると、小気味よい音がした。


「お邪魔します」


 彼女もついてきた。隣に座って、同じようにキャップを開ける。引越しのときといい、今の行動といい、彼女はまるで親に付いてくる子犬みたいだ。思った瞬間、笑い声がこぼれた。


「……?」


「いや、何でもないよ」


 不思議そうな顔つきで僕のことを見る彼女。彼女は自覚してないんだろう。


「ちょっとびっくりしちゃった」


「さっきのあの話?」


「うん」


 今日出会ったばかりの僕達だけれど、趣味と年齢が近いこともあってか、だんだん親密になっているような気がした。目の前に広がる景色は駐車場。その奥には、ラグビーボールを縦にしたような形に剪定された常緑樹が横一列に並んでいて、そのさらに奥からは、タイヤの音が聞こえる。聞こえる音は、それだけ。トラックの上部が高速で左から右へ流れていくのも時々見える。左側に見えるガソリンスタンドは、標識(トラ)ロープで閉鎖されていた。半分さびれた感じの、独特の雰囲気。


「私を迎えてくれたのにはそういう理由があるなんて、今まで一言も喋ってくれなかったから」


「あんな話は、する側もちょっと勇気いるしね」


 最初に男と会ったときの第一印象と、あの話を聞いた後の印象は、僕の中では大きく変わっていた。変な言い方だけれど、彼もまた僕と同じ種類の人間なんだって思えた。


 "見た目ワルで荒っぽく見えるかもしれないけど、結構繊細な人なんだよ"

 引越し前のアパートで彼女が僕にそう言ったとき、僕はお世辞じゃないかって、ホントのところ思ってた。けれども、どうやらそれは僕の間違いだったみたいだ。確かに、口の聞き方は荒っぽいし、目つきも悪くてなかなか近寄りがたい雰囲気を出している。けれどこれまでの会話を思いかえせば、言葉の端々に、彼の繊細な部分が見え隠れしていることに気がついたのだ。


「私はね、今のお父さんと会う前は別の家庭に里子としていたの。けれど、私にはあまり良くしてくれなかった。一日ご飯抜きなんてことも茶飯事だった。前の家庭の両親――あの男と女(ヽヽヽヽヽ)は、里親の希望を出しておきながら、私をまともに扱ってくれなかった。みんなと同じ家庭が待ってるって思って期待していた私にはショックだった」


「……ひどい話だね」


 この話は、思い出すと泣けてきちゃうからここまでね。彼女は言った。どんなことがあったのか僕には想像がつかないところがあるけれど、普通の生活を送れていなかったことだけは確かそうだった。


「それで、別の里親に引き取ってもらうことになったの。それが今のお父さん。最初は私もお父さんのことが怖かったけれど、あれこれ細かいところまで配慮してくれた。お金はあまりないけれど、前にいた家庭よりもずっと居心地が良かった」


 私、今の高校に転校してきたばかりって言ったの覚えてる? 彼女は僕にそう聞いた。もちろん覚えてるよ。僕はそう答えた。


「前にいた高校でね…………どこから漏れたのか分からないけれど、両親が分からない子って理由だけでイジメられたの。私にはどうしようもないことだけれど、イジメる方はそんなこと関係ないんだよね。それをお父さんに打ち明けたら、その日のうちに"俺の娘をイジメた生徒を連れて来い、分からなけりゃ炙り出せ"って私が見せた証拠片手に学校に乗り込んでくれて。やってることは乱暴でメチャクチャで、決して褒められた行動じゃないけれど、私はすごく嬉しかった」


「転校した理由って、もしかしてその、あれだったりする?」


 彼女は首肯した。そっか……それでもなくなることはなかったのか。もしかしたら、残酷なことだけど逆効果だったのかもしれない。


「理香さんにも、いい友だちができるといいね」


「もうあと一年とちょっとしたら、お父さんはお父さんじゃなくなるんだけれど……」


「決まりか何かなの?」


「……うん」


「そうなんだ……」


 彼女は口ごもった。そんな娘思いのいいお父さんと巡り会えたのに、それは期間限定の関係。僕は当事者じゃないけれど、もったいないし残念だと思った。「だからね、」彼女は顔を上げ、声のトーンを少し上げて言う。


「だからね、私は『笹村理香』になろうと思ってるの。今の『原田』っていう姓を捨てて、お父さんの養子になろうって思ってるの」


「養子になれば、親子関係は続くんだね」


「そう。お父さん、時々言ってくれるの。"俺の子になりたきゃいつでも言ってこい"って。だから私のワガママかもしれないけれど、まだもうちょっと、お父さんの世話になろっかなって」


「ううん、全然ワガママなんかじゃないと思うよ。むしろお父さんもそう言ってくれるのを望んでると思う」


 あ、そろそろ出発の時間だね。彼女は小さな腕時計を見てそう言い、荷物をまとめて立ち上がった。僕も一口ペットボトルの中身を口に含んで、キャップを閉めた。僕の数歩先を、軽い足取りで歩く彼女。男は既にトレーラーに乗り込み、エンジンを掛けて窓から顔を出して俺たちが来るのを眺めている。


 突然、彼女は両手を後ろにまわして、くるりと身を翻し、僕と向き合った。


「私はね、すごく運が良かった(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)んだ」


 そう言って見せてくれた笑顔は一見素敵だったけれど、眼鏡越しに見える目は冷たく、虚しそうな色をしていた。それを認めた途端、僕にはその笑顔が、とても残酷なものに見えた。


 僕が今まで生きてきた世界は、とてつもなくゆるく、優しい世界であったことを認識させられた。






 トレーラーの中で、僕と彼女はすっかり意気投合していた。彼女のCDをかけて一緒に歌ったり、僕のバッグの中に入っていた携帯ゲーム機を、二人で交互にまわして遊んだり。あのゲームは彼女のほうがずっと上手だった。僕が攻略に苦労した場面も、彼女は抜け道を的確に抑えてあっけなくクリアしてしまった。プレイ時間は僕のほうが長かっただけに、ちょっと悔しかった。


「ん、やべえのに捕まったかもしれん」


 男は相変わらず無口でハンドルを握っていたけれど、舌打ちとともにとこぼれた一言で、僕達は騒ぐのをやめた。


「何かあったんですか」


 聞くと、男はトレーラーの周りを見回してみろと言った。僕は左側の窓の景色とサイドミラーに目をやる。SUVから軽自動車、ワゴンからセダンまでいろいろなクルマが見えた。


「この高速、今は空いてるだろ。そのくせこのトレーラーの周りだけクルマが密集してる」


「ホントだ」


「お父さんこれ何なの?」


 確かに、トレーラーの前方は視界が開けていて、クルマも遠くに数台がかすんで見える程度だ。それなのに、このトレーラーの周りだけ、まるで磁石に吸い寄せられるかのようにクルマが集まっている。彼女は、プレイしていたゲームを中断して、不安そうに聞いた。


「恐らくだが、巷で有名な『開け屋』ってやつだ。大型車の周りをクルマで囲んで身動きが取れないようにして、大胆にも走行中の大型車の貨物扉の鍵をぶっ壊して荷物検査、気が向いたらちょっと金目の物をくすねる。アクロバティックな強盗団だぜ……ほら、こっちゃ制限速度二十キロも下回る速度で走ってるのに、奴ら全然追い抜こうとしねえだろ」


「あのー、それって僕の家財道具が危ないってことですか?」


「そういうことになるが……お前の家財道具、まともなモン入ってねえだろ?」


「むしろ大事な物しか入ってないぐらいです!」


「せいぜいコンテナの空調で涼んで、土産を持ち帰るぐらいだろうな」


「やっぱり盗まれちゃうんじゃないですか! ていうかコンテナに空調とかついてたんですか!?」


「おうよ。桃を扱うが如く、気温と湿度を一定にする空調設備がついてるぜ。なんなら、お前の荷物をひんやりクールにしてやろうか」


「僕の肝っ玉がクールですよ!」


 僕が不安がる横で、男は親指を突き立て笑い声を上げた。客の荷物が危ないって時に、どうして大声を出して笑えるのだろうか。自分の荷物が盗まれてしまったら、その損害はどうなるのだろうか。


「ま、抵抗はさせてもらうがな」


 僕にはどうすることもできない。男はシフトレバーを片手に、運転席側のサイドミラーを確認する。


「お、お、来たぜ。アクション映画さながらの光景だ」


 僕もミラーで確認すると、ワゴン車のスライド式ドアが開いていて、そこから人が半身飛び出しているのが見えた。ホントに開け屋だ。僕は両手を合わせる。神様仏様……どうか僕の荷物に被害が被らないようにしてくださいお願いします。


「あらよっと」


 男はシフトレバーを操作して、思い切りアクセルを踏み込んだ。甲高く吠えるエンジン。震える車体。加速のG。座席シートに押し付けられる感覚。男は運転席上部の収納から、一枚の紙を取り出した。


「あー……『輸送中に発生した損害を、一定額までピーチ引越センターが保証する安心パックがオプション料金で利用できます』……お前、今回ケチって入ってねえな?」


 うわぁ、そういえば契約時にそんなサービスもあったようななかったような……はは。男はその紙を理香に手渡した。僕の引越しの契約書だった。契約書の安心パックのオプション欄にチェックマークは、ない。まさかこんなことになるなんて思わなかった。いや、万が一のその時のための安心パックだし、ケチった僕も僕で悪い。正確には、予算を別のところに回してしまったんだ。


「商談を始めようじゃねえか。今ならオプション料金の五割増しで追加契約を行えるが?」


「こ、ここで商談ですか!?」


「まだ盗まれてねえから大丈夫だ。扉をこじ開けられて盗まれた後に契約じゃ意味がねえ。開けられるまでが契約の期限だ。早いうちに結論を出すんだな、少年」


 彼女は少し申し訳なさそうな顔をして、僕に契約書を渡した。安心パックの料金、通常一万五百円。それの五割増しだから……一万五千七百五十円。僕は財布の中を覗き見る。千円札、五千円札、一万円札、それぞれ一枚ずつある。支払える。けれど出したら財布の中身が寂しいことに……


「決まったかー?」


 男の延びた声とともに、再びトレーラーが急加速する。また、こじ開けられそうになったのだ。

 うう……モタモタしてちゃいられない。もう迷ってなんかいられない! 普通ならできないところを、男が好意で損をしてくれると言っているんだ。たかだか一万と六千円弱で被害を軽減できるなら、安い買い物じゃないか!


「うう~、払います払います! 安心パック加入させてください!」


「追加契約承ったぜ、少年。理香、ちょっと急ごしらえで悪いが領収書を書いてくれ。簡易のでいい」


 男は白紙と筆記用具の挟んである下敷きを彼女に手渡した。


「え、えっと、どうかくの……?」


「ああ適当に分かるように書け。今それどころじゃねえんだ」


 またトレーラーが急加速する。加速してはじわじわ減速、を繰り返しているだけだけれど、まだ飛び移られたり、壊されたりはしていない。ヒヤヒヤ物だ。


「――はいお父さん、こんな感じでいい?」


 彼女は走り書きの領収書を父親に見せる。横目でチラリと見た彼は首を横に振る。


「ダメだ、ちゃんと数字が読めるように書け!」


「だってトレーラー揺れるもん……」


「上手に書けとは言ってねえぞ。俺ぁ読めるように書けっつってんだ。楷書で丁寧(ヽヽ)に書け、いいな?」


「無茶言わないでよ!」


 あの、そんなやり取りしてる間にまた飛び乗ろうとしてるんですけど? ねえ、笹村(おっ)さん! アクセル踏んで! お願いだから!


「おっと、危ねえ」


「キャッ!」


 乗り込まれるところまで間一髪というところで、彼はまたアクセルを踏んだ。僕の心臓バクバクです。あまりの緊張に過呼吸で倒れそうです。


「ん、また別の一団が来たか?」


 ようやく追加契約が完了した。これで何か盗まれても一定額までは保証してくれる。けれど、盗まれないことに越したことはない。男がミラー越しに後方を確認するのに次いで、僕も後ろを見る。黒いセダンの一行が、僕達のトレーラーを囲む開け屋を包囲する形で配置した。


「ねえ、親玉とかじゃないよね」


「かもな……ん?」


 男は前方に展開したセダンを、半分身を乗り出すようにして、眉をしかめて凝視する。


「ナンバー……まさか……ところで……奇遇だな、オカジマ……」


 男が何かボソボソと呟いたのは分かったけれど、僕には言葉の一部しか聞き取ることができなかった。男は大きくため息をついて、背中のシートにもたれ掛かる。そして、また笑いだした。


「もう大丈夫だ。あいつらは敵じゃない。味方だ」


 僕達を包囲していた"開け屋"は、自然とその隊列が崩れてトレーラー後方へと流れていった。僕達のトレーラーを包囲するのは怪しい黒セダン御一行様だけになった。一般車に囲まれるのもそれはそれで不気味だけど、黒セダンに囲まれるほうが、僕としては怪しさ満点で恐怖感を感じる。


「なんで開け屋じゃないって分かるんですか?」


「ん、俺のカンだ」


「ただのカンですかっ!?」


 だぁらカンだっつってんだろうが。何回も言わせるな。男の口は相変わらず悪い。本当に大丈夫なんだろうか。僕は男のことを全く信用していないわけじゃないけれど、さっき襲われただけに、疑心暗鬼になっていることは否定できなかった。

 セダンの集団は、開け屋のように異常接近することはなかった。常にトレーラーと広めの車間をとっているし、接近するような様子もない。彼らが来ただけで、開け屋と呼ばれる人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていったけれど、彼らは一体何者なんだろうか。結果的に僕の家財道具の危機を救った英雄ではあるんだけれど、謎のヒーローに助けられたというのは何か実感が沸かない。


 トレーラー前方を走るあるセダンの後部座席から、丸い大きなレンズがこちらを覗いているのが見えた。僕は一瞬スナイパーか何かがこっちを狙ってるんじゃないかと思ったけれど、よくよく見れば一眼レフのレンズだった。


「おい、記念撮影してくれるってよ。お前ら、あっこのカメラに向かってピースしな」


 ホント、一体何者なんだろう。釈然としない。男は何か知っているような様子だったけれど、聞いても答えてくれそうにない気がした。


 そして僕は……訳が分からぬまま男に促されて……カメラに向けて……ピースした。


 何の写真だったのかさえ、僕には見当がつかなかった。彼女も同じような反応だった。ただ、男だけは本当に満足気な顔をしていた。






「うし、これで俺達の業務は終了だ。今回はピーチ引越センターをご利用いただき、ありがとうございました」

 午後七時頃。僕の新しい家に、無事すべての荷物を運び込み終えることができた。新しい家はマンションだけれど、文字通り出来たての新しい家で、設備や外観は、前にいた家とは比べ物にならないほどに綺麗。まさに雲泥の差だった。鍵もまず最初にオートロックがあって、侵入者が入りにくい構造になっている。


 引越し元から連れてこられた便利屋さんは、長時間の移動に重労働にでヘトヘトの様子だった。僕が近くのコンビニで買ってきたお茶を振舞ったけれど、それもすぐになくなってしまう程。いきなり至急の電話が来て行ってみれば、まさかこんなことに一日中こき使われるなんて思ってもみなかったと思う。しかも彼らはまた、これから何時間かかけて地元まで帰らなきゃいけないんだ。お疲れ様。


 僕と彼女と男は、便利屋さんと、マンションの前の道路で最後の挨拶を交わした。一応、依頼主は男になっているんだけれど、なぜか僕にもご丁寧に挨拶してくれた。


「それでは、私達は先にこの辺で失礼致します……この度は、便利屋『猫の手』をご利用いただき、ありがとうございました」


 朝にはあった張りのある声も、やっぱりどこかしおれているような感じがした。便利屋さんのクルマは、赤いテールランプを曳いていきながら、町中へ消えていった。


「ここの空、あっちよりも澄んでるね」


 彼女は深青色に染まって行く夜空を見上げた。僕が引っ越してきたところは、前住んでいたところとは違って、街から離れたところにある。海にも山にも近い場所。観光地として旅行ガイドブックに載ることもあるような、そんな場所だ。


「そうだね。空気も綺麗な気がする」


 あっちでは数えるほどしか見えなかった星が、ここでは、無数に散りばめられているのが肉眼で見える。交通の便は前いたところに比べて少し劣るけれど、僕はどっちかというとこういう自然の空気が身近に感じられるところに住むのが合っているのかもしれない。

 ……そう思えるのは最初だけだったりして。

 男はトレーラーに乗り込んだ。


「それじゃあ、私達も帰るね。明日学校だし、ここで一泊するわけにはいかないから」


「うん、なんか乗せてもらっちゃって、ごめんっていうか、ありがとうっていうか……うん」


 曖昧な感謝に彼女は笑う。いや、最初はごめんでいいと思ったんだ。だけど、ホントはここで言うべきなのはありがとうなんじゃないかって思ったら、どうもそれっぽいような気がして、でも、ごめんがしっくりするような気がして……こんな挨拶になっちゃったんだ。笑われちゃったよ。


 僕が乗ってきたトレーラーが唸り、テールランプが点いた。

 彼女はそれを振り返って確認すると、ちょっと恥ずかしそうに顔を伏せた。


「ちょっとクサいこと言っちゃうけど……」


「うん?」


「あなたも幸せになってね!」


 彼女は思い切ったように声を上げて、そそくさとトレーラーに乗り込んだ。


「じゃあね!」


 彼女はステップに足を載せた状態で小さく手を振る。僕も振り返した。乗ってドアが閉まってから発進するまでの間は本当に短くて、超特急だった。


 トレーラーの排気ガスが僕の足元に吹きつけた。独特の苦くて刺さるような香りが下から舞い上がる。僕は見えているか分からないけれど、トレーラーの姿が見えなくなるまで、僕は手を振っていた。


「行っちゃったな……」


 なんだか、今日という一日がすごく長く感じた。朝起きて彼に出会ってから、ここに来るまでの色々なこと。あり得ないこと、ぶっ飛んだことの連続。あんな経験はあの引越し屋に頼まなければ絶対に味わえない。加えて引越し屋を始めた経緯。男と彼女の関係。

 もしこれからここを出て引越しすることになっても、距離的に僕はもうあの引越し屋に頼むことはないだろう。けれど。僕はあの引越し屋に頼んでよかったと思う。頼まなければ、僕は優しい世界(ヽヽヽヽヽ)しか知らないままだった。二人と過ごして、僕の世界がまた少し広がった。


 僕は新居に戻った。

 真っ暗な部屋。静寂。新しく始まる何気ない日常。今日一日が鮮やかすぎて、僕の今までの日常が色褪せて見えた。僕も疲れた。今日は早いけれど寝よう。


「あ、そうだ」


 僕は一つ思い出して、スマホを取り出した。あっちの友達に連絡しておかなきゃ。さもなくば死亡扱いされちゃうからね。

 僕は連絡先リストを開いた。友達や知り合いの名前がリスト形式で表示される。その中に、今朝までなかった連絡先が一つ。原田理香さん、後に笹村理香さんになるであろう連絡先だ。

 彼女は携帯電話を持ってはいたけれど、連絡先リストには彼女の父親しか登録されていないかった。


 つまり、僕が最初の友達ってわけだ。


こんにちは、初めての人は初めまして、電式です。

このたびはこの様な超ロング作品を読了していただき、ありがとうございますm(_ _)m


桃というお題は見た目も難しそうでしたが中身はそれ以上に難しくて苦労しました。

加えて、こんなに超ロングな短編になるとは私自身思いもよりませんでした。それ以前にこれは短編なのだろうか……

書いても書いてもなかなか出来上がらず、形として完成した(と思われる)のは、公開の一時間少し前という体たらく。


謎多き男の言動……どういう経歴を辿ってそういう言動をしたのか、興味がある人は少し推理してみるのもいいかもしれません。

では、私はこのへんで失礼致します。ありがとうございました。


***********************


第二回小説祭り参加作品一覧

作者:靉靆

作品:無限回生(http://ncode.syosetu.com/n9092bn/)


作者:まりの

作品:桃始笑(http://ncode.syosetu.com/n8059bm/)


作者:なめこ(かかし)

作品:桃林(http://ncode.syosetu.com/n5289bn/)


作者:唄種詩人

作品:もももいろいろ(http://ncode.syosetu.com/n8866bn/)


作者:朝霧 影乃

作品:桃じじい(http://ncode.syosetu.com/n8095bm/)


作者:稲葉凸

作品:桃源郷の景色(http://ncode.syosetu.com/n5585bn/)


作者:まきろん二世

作品:桃(http://ncode.syosetu.com/n7290bn/)


作者:霧々雷那

作品:An absent-minded(http://ncode.syosetu.com/n7424bn/ )


作者:二式

作品:桃太郎お兄ちゃんの残り香を全部吸いこんでいいのは私だけのハズだよねっ♪(http://ncode.syosetu.com/n1760bn/)


作者:ツナ缶

作品:桃始笑(http://ncode.syosetu.com/n8274bn/)


作者:射川弓紀

作品:異世界ではおつかいは危険なようです。(http://ncode.syosetu.com/n8733bn/)


作者:舂无 舂春

作品:アッエゥラーの桃(http://ncode.syosetu.com/n8840bn/)


作者:ダオ

作品:桃花の思い出(http://ncode.syosetu.com/n8854bn/)


作者:葉二

作品:サクラとモモ(http://ncode.syosetu.com/n8857bn/)


作者:小衣稀シイタ

作品:桃の缶詰(http://ncode.syosetu.com/n8898bn/)


作者:叢雨式部

作品:訪来遠家(http://ncode.syosetu.com/n8901bn/)


作者:三河 悟(さとるちゃんって呼んデネ)

作品:『天界戦士・ムーンライザー』(http://ncode.syosetu.com/n8948bn/)


作者:あすぎめむい

作品:桃源郷を探す子どもたち(http://ncode.syosetu.com/n8977bn/)


作者:一葉楓

作品:世にも愉快な黄金桃 (http://ncode.syosetu.com/n8958bn/ )

作品:苦しくて、辛くて……優しい世界(http://ncode.syosetu.com/n8979bn/)


作者:白桃

作品:桃の反対(http://ncode.syosetu.com/n8999bn/)


作者:abakamu

作品:桃恋(http://ncode.syosetu.com/n9014bn/ )


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― 新着の感想 ―
[良い点] 書き方も読みやすく、ストーリーも面白かったです! ギャグから始まりましたが、徐々にシリアスになり、最後は上手くまとめていたと思います。優しい世界、という言葉が胸に響きました。 キャラも非常…
2013/04/17 20:38 退会済み
管理
[一言] 中編と呼べそうな量でも読みやすく笑いとシリアスがしっかりしていてすごい作品でした。書き慣れておられる印象を受けます。 格好よくて、なかなか珍しいお話しのタイプでしたね。キャラもみんな良かった…
[一言] 一見すると最初の方は桃をただ無理やり入れた様に感じたのに中盤辺りからしっかりと桃を選択した意味が設定の中に生きているように感じました。 私にはこんな長文は絶対書けません← 物語全体を通し…
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