助けを乞うよりそのままで
伊野はドアノブを回して思い切りドアを押した。力が加えられたドアはその力に合わせて勢い良く動く。木製のそのドアは非常に軽く、先程まで考え事をしていた伊野は何十回と訪れた場所であるにも関わらずその事をすっかり失念していて、勢い余って身体が前のめりになった。眼前には自らの足が見える。
「ちょっ!?」
予想外のできごとに不意を突かれ、伊野の口から素っ頓狂な声とも言えぬような音が飛び出した。前のめりになった身体は言う事を聞かず、ゆっくりとしかし確実に、伊野の身体を転倒という未来に誘う。
別段大きな怪我もしないだろうし、このまま流れに身を任せて転倒していいのだろうか? ――それは――否である。
まさか大の大人がドアを開けるだけで転んでしまうようでは恥ずかしくてしばらくはまともに人に顔向けできない。――なんとしてもそれだけは避けたい。ましてや客人としてきた人間が家に入ることも出来ず玄関先で盛大に転んでしまっては、それこそ穴があれば入りたくなるような事態だ。
口を引き締め、目を見開き、伊野は意を決した。
蹌踉めく上半身を強引に止めるため下半身を妙につっぱらせ、ドアノブを掴んだままの手だけは何事もなかったかのように滑らかに前に進ませる。
あとはタイミングを見計らい状態を無理なく上半身を起こせばいいのだ。なにも気負うことはない。伊野は気づかぬうちに笑った。
しかし、転ばないようにすることだけで精一杯で、彼はすっかり失念していた。
――もしこのなんとも言えない情けないポーズのままこの家の主人である幽香に目撃されたならば。加虐的嗜好を持つ彼女が今の自分の情けない姿をその目にしたならば……。
「――ッ!」
瞬間。伊野の背には氷が放り込まれたかのような悪寒が走り抜ける。せめてもの抵抗で声だけは出さずに済んだが、じっとりと嫌な汗が体中に広がるのを抑えることはできなかった。
伊野の視界は依然として己の足を捉えている。しかし、顔を上げた先の、玄関には何があるのか?――いや、何が居るのか?
半分は今の悪寒で答えが出ている。そしてその答えが出ていたとしても尚、伊野は顔を上げることを拒んだ。
どうせなら、いっそのこと止めを指して欲しい。
それが伊野の、もはやすべてを諦め投げ出した男の心中だ。
「ふふっ」
それを察してか。玄関から声が聞こえた。女性の声。
誰が出した声かは、知っている。それでも伊野は顔を上げない。目を瞑り、ぎゅっと口を結び下を見続けている。
「人の家の玄関先で、貴方は何恥ずかしいポージングをしているのかしら。伊野」
「ははは、スイマセン。ちょっと色々ありまして……」
ここで初めて伊野は顔を上げた。きっと今は赤い顔をしているんだろうなと思いつつ、笑いながら誤魔化した。
持ち上がった視界には、一人の女性が映った。
上品な笑顔、緑の髪。細められた目からうっすらと覗く紅の瞳。すらりと伸びる白の四肢。
「……とりあえず、助けてくれませんか? 幽香さん」
呼びかけられた女性――風見幽香は上品な笑顔を崩して、呆れたように溜息をついた。
「貴方一体、何回私の家に来てるの? 貴方はよく似た偽者? それとも、ここに来る途中で頭でも打ってきた本物かしら」
「とりあえず偽者だったとしても、幽香さんの家に悪戯を仕掛ける人間なんてよほどのバカか自殺志願者か、人間辞めた自称人間くらいだと思いますよ」
「じゃあ、自殺志願者?」
「選択肢は三つあるのに、一番に自殺志願者と答えるなんて恐ろしいです……」
「だって、バカとか自称人間とか、言われたら嫌でしょう? それにこんな人里離れたとこまで来るんだから自殺志願者だと思うわよ」
にこりと幽香は微笑んだ。
「自殺志願者も大概だと思いますが。……ああ、もういいです。いっそのこと自分で」
そう言って上半身を起こそうとしたとき、幽香の声が低くなった。
「起きていい、なんて私は言ってないわよ?」
「え、それは」
突然の幽香の変化に、伊野は動揺する。
「私が良いというまで、貴方はそのままでいなさい。凄く見ていてキモチイイから」
「…………」
伊野は黙った。そして後悔した。なんという人の前でこんな姿を見られたのだろう、と。