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転生したら豚飼いだった。うちの豚が王太子を殺すらしいので、今日のうちに鍋にします

作者: 如月アトリ
掲載日:2026/06/18

 俺は、豚に轢かれて前世を思い出した。


 転生ものなら、ふつうは馬車だろう。

 少なくとも、前世で読んだ物語ではそうだった。貴族令嬢が階段から落ちる。王子が馬車に跳ねられる。あるいは病で高熱を出して、目覚めたら前世の記憶が戻っている。

 だが俺は違った。

 轢いたのは、うちで一番でかい雌豚、マルグリットだ。

 何度も子を産んだ繁殖用の大雌豚で、家で一番よく食い、一番よく柵を壊し、一番母に甘やかされている。そいつが、昼前のぬかるんだ庭で、いきなり俺の背中に突っ込んできた。

「ぐえっ」

 情けない声が出た次の瞬間、俺は泥の中に顔から突っ込み、勢い余って石に額をぶつけた。

 ごん、と頭の奥で鐘が鳴った。

 鐘。

 いや、違う。

 日本。会社。歴史の本。インターネット。スマートフォン。電車。コンビニ。

 見覚えのないはずの文字と、聞いたこともないはずの名前が、頭の中に一気に流れ込んでくる。

 フィリップ。ルイ六世。ルイ七世。アリエノール・ダキテーヌ。

 そして、豚。

 俺は泥の中に倒れたまま、ゆっくり目を開けた。

 目の前では、マルグリットが何事もなかったように鼻を鳴らし、野菜くずの入った桶に頭を突っ込んでいる。

 黒く、でかく、重く、腹が低い。馬の脚元に横から突っ込めば、たぶん馬は転ぶ。

 いや、待て。

 1131年。

 パリ。

 王太子フィリップ。

 豚。

 俺は震える手で泥をぬぐい、マルグリットを見た。

「……お前か?」

 マルグリットはこちらを見もしなかった。桶の底に残った蕪の葉を、実に満足そうに噛んでいる。


「ジャン兄さん!」

 妹のアリスが駆け寄ってきた。十五になったばかりの妹は、俺の額から血が出ているのを見るなり、顔を青くした。

「大丈夫? 頭を打ったの? 母さん、兄さんがマルグリットにやられた!」

「やられてない」

 俺は起き上がろうとして、頭の痛みにうめいた。

「いや、やられた。だがそれどころじゃない」

「それどころだよ! 血が出てる!」

 アリスが俺の袖をつかむ。その向こうから、母が小走りで出てきた。手には粉のついた布巾を握っている。

「ジャン! 何をしてるんだい、あんたは!」

「俺じゃない。マルグリットだ」

「また柵を直し忘れたんだろう。あの子は悪くないよ」

 母はこの巨大な黒い雌豚を、たまに本気で人間の娘みたいに扱う。

 俺は額を押さえながら、その巨体を見た。

 でかい。

 とにかく、でかい。

 これが明日、王太子の馬の前に飛び出す。

 そう思った瞬間、全身から血の気が引いた。

 前世の記憶は、細かいところまでは頼りにならない。俺は学者ではなかったし、フランス史の専門家でもなかった。ただ、妙に印象に残っている話というものはある。

 フランス王ルイ六世の長男フィリップは、パリで馬に乗っているとき、豚に馬を転ばされて死ぬ。

 その後、パリでは豚の徘徊が禁じられた。

 問題の豚がどうなったかは知らない。持ち主がどうなったかも、俺が前世で調べた限りではよくわからなかった。

 だが、考えなくてもわかる。

 王太子を死なせた豚が、無事に飼い主のもとへ返されたとは思えない。豚だけではない。その豚を飼っていた家も、ただでは済まなかったはずだ。

 俺は王国の歴史を変えたいわけではなかった。

 ただ、死にたくなかった。母とアリスを巻き込みたくなかった。

 うちの豚が王太子殺しになる未来を、どうしても止めなければならなかった。

「母さん」

「何だい」

「マルグリットを潰す」

 母とアリスが、同時に黙った。

 庭の隅で、マルグリットだけが桶をひっくり返した。

 ごとん、と間の悪い音がした。

「……今、何て言ったんだい?」

 俺は立ち上がった。膝が泥で濡れている。額は痛い。頭の中では、日本人だった俺の記憶と、豚飼いのジャンとしての記憶が、まだぐちゃぐちゃに混ざっていた。

 それでも、これだけはわかった。

 明日までマルグリットを生かしておいてはいけない。

「マルグリットを潰す。今日中に」

「兄さん、頭を打ったせいでおかしくなったんじゃないの?」

「おかしくなってない」

「おかしいよ! うちで一番いい雌豚だよ!」

「知ってる」

 母が布巾を握りしめた。

「あの子はまだ産める。春の子もよかった。今潰すなんて馬鹿なことを言うんじゃないよ」

「わかってる」

「わかってない!」

 母の怒鳴り声に、マルグリットが不満そうに鼻を鳴らした。

 俺は額の血を袖で拭った。

「母さん、アリス。信じてもらえないと思うが、聞いてくれ」

「聞くから、まず座って」

「明日、王太子フィリップ殿下が死ぬ」

 二人は黙った。

「豚のせいで」

 さらに黙った。

 アリスが、ゆっくりと母を見た。

「母さん」

「何だい」

「兄さん、やっぱり頭を打ってる」

「そうだね」

「違う!」

 俺は叫んだ。

「俺は正気だ! 明日、王太子殿下が馬で通る。その馬の前に豚が飛び出す。馬が転ぶ。殿下は落馬して死ぬ。そういうことになってるんだ!」

「何がそういうことになってるんだい!」

 母の声が庭に響いた。

 近所の窓がひとつ開いた気配がした。

 まずい。これ以上騒ぐと、俺は本当に頭を打っておかしくなった男として扱われる。いや、もう半分そうなっている。

 アリスは泣きそうな顔で俺を見ていた。

「ジャン兄さん、王太子様のことは心配だけど、どうしてそれがマルグリットなの?」

 俺はマルグリットを見た。

 マルグリットは桶を完全に倒し、その下に残っていた豆の皮を探している。

 黒くて、重くて、低くて、動きが鈍いように見えて、食い物を見つけた時だけ異様に速い。

「……こいつなら、馬を転ばせられる」

「そんな理由で!?」

「十分な理由だ!」

 母が頭を抱えた。

「神様、うちの息子が豚に王太子殺しの疑いをかけてるよ」

「しかもマルグリットに」

 アリスが小声で言った。

 そうだ。しかもマルグリットに、だ。

 うちの稼ぎ頭。母のお気に入り。アリスが子豚のころから世話をした大雌豚。父が生きていたころから家にいる、黒くてでかい財産。

 だが俺は知ってしまった。

 この豚がフィリップ殿下を殺せば、うちは終わる。

 俺は深く息を吸った。

「マルグリットは、今日潰す」

「ジャン!」

「俺が家長だ」

 父が死んで数年。俺はまだ、家長という言葉をうまく使えない。使うたびに、父の上着を無理に着ているような気分になる。

 だが、今日は使うしかなかった。

「俺が決める」

 母は俺をにらんだ。

 アリスもにらんだ。

 マルグリットだけが、何も知らずに、鼻先を泥に突っ込んでいる。

 前世の物語なら、ここで聖女が神託を受ける。勇者が剣を抜く。悪役令嬢が破滅を回避する。

 だが俺の前にいるのは、二百五十キロはありそうな黒い雌豚だった。

 そして俺の使命は、こいつを明日までに食肉にすることだった。


 その日の夕方、家の裏は騒ぎになった。

 母は最後まで怒っていたし、アリスは俺と口を利かなかった。近所の男衆を呼ぶ羽目になり、俺は何度も「急にどうした」と聞かれた。

 頭を打ったからだ、と答えた者もいた。

 縁起が悪い夢を見たらしい、と答えた者もいた。

 俺は何も言わなかった。

 夜には、マルグリットの一部が鍋に入っていた。

 残りは塩に埋められ、脂は壺に流され、腸は洗われた。うちの冬支度が、一日で済んだようなものだった。

「食べるけど、許したわけじゃないからね」

 アリスはそう言って、肉を口に運んだ。

 母は無言だった。

 俺も無言で食った。

 その鍋は、腹にしみるほどうまかった。


 翌朝。

 俺は、ひさしぶりに腹いっぱい食ったせいで、妙に体が軽かった。

 母とアリスは俺を許していなかったが、家が動かないわけにはいかない。朝になれば桶を洗い、くずを分け、柵を見て、残った豚に餌をやる。

 俺は桶を抱えながら、空を見た。

 今日、フィリップ殿下は死なない。

 ルイは急に後継者にならない。

 アリエノール・ダキテーヌとの結婚も、きっと変わる。

 そこから先のことは、俺にはわからない。だが少なくとも、うちの豚が王太子を殺すことはない。

 俺は勝ったのだ。

 鍋と塩樽で、未来をひとつ止めた。

 そう思っていたところへ、アリスの叫び声が飛んできた。

「兄さん、豚が逃げた!」

 俺は笑った。

「逃げる豚なら、もう鍋の中だ」

「違う! コレット!」

 桶が、手から滑り落ちた。

 コレット。

 去年の春に生まれた、マルグリットの娘。

 次の繁殖用に残すつもりだった若い雌豚。

 マルグリットほど重くはない。だが足は速い。好奇心はもっとある。何でも鼻で押す。何でも隙間から出ようとする。

 そして昨日マルグリットが壊した柵は、まだ仮の板を打っただけだった。

 俺は庭の隅を見た。

 板が外れている。

 泥に、若い蹄の跡が残っている。

 その跡は、通りのほうへ続いていた。

 血の気が引いた。

「……歴史が、代わりを出してきた」

「何?」

 アリスの訝しげな声を置き去りにして、俺は走り出した。

 コレットの足跡は、ぬかるみの路地を抜け、市場のほうへ向かっていた。

 朝の通りはもう人で詰まり始めている。野菜を運ぶ女。桶を担ぐ男。魚の匂い。湿った藁。馬の糞。パンを焼く匂い。誰かが怒鳴り、誰かが笑い、誰かが神の名を口にする。

 その隙間を、灰色がかった若い雌豚が走っていく。

「コレット!」

 俺が叫ぶと、コレットは一瞬だけ耳を動かした。

 そして、さらに速く走った。

「止まれ!」

 止まるわけがない。

 豚は人の言葉を聞かない。特に、逃げている豚は聞かない。

 俺は人をかき分け、泥に足を取られ、何度も転びかけながら走った。

 前世の俺は、こんなに走れる体ではなかったはずだ。

 だが今の俺は、豚飼いのジャンだった。桶を担ぎ、袋を運び、柵を直し、暴れる豚に押されても倒れずに働いてきた体だった。

 それでも、コレットは速い。

 若い。

 軽い。

 昨日のマルグリットとは違う。

 歴史が本命を失って、急に代わりを出してきたのだとすれば、品質は落ちている。だが、豚であることには変わりない。

 そして馬の脚元に飛び込むには、十分だった。

 通りの向こうが少し開けた。

 セーヌのほうから風が来る。

 グレーヴのあたりだ。

 人の声が変わる。

 ただの朝のざわめきではない。

「道を開けろ!」

「殿下だ!」

 その声を聞いた瞬間、俺の背中が冷たくなった。

 来た。

 本当に来た。

 王太子フィリップ殿下の一行が、通りへ入ってくる。

 まだ少年の面影を残した若い騎手が、供の者たちに囲まれて馬を進めていた。整った服。よく手入れされた馬。周囲の者たちの緊張。

 俺はフィリップ殿下の顔をまともに見る余裕などなかった。

 見ていたのは、その馬の脚元だった。

 そして、そこへ向かって走るコレットだった。

「コレット!」

 俺は叫んだ。

 コレットが、泥の中の何かに鼻を向けた。

 一瞬、進路がそれた。

 次の瞬間、人の足に驚いたのか、コレットは跳ねるように横へ飛んだ。

 王太子の馬の前へ。

 馬が耳を立てる。

 供の者が何か叫ぶ。

 俺は飛び込んだ。

 考える暇はなかった。

 豚の横腹にしがみつき、泥の上に倒れ込む。コレットが悲鳴のような声を上げる。俺の腕の中で暴れる。膝が石に当たる。肩に豚の重さが乗る。臭い。重い。滑る。

 それでも離さなかった。

 離したら、王太子が死ぬ。

 王太子が死んだら、ルイが王になる。

 ルイが王になったら、アリエノールが。

 いや、今は豚だ。

 今は豚だけを止めろ。

「殿下、手綱を!」

 俺は叫んだ。

 馬が立ち上がった。

 フィリップ殿下の体が大きく揺れる。供の者が手を伸ばす。馬の蹄が石を打つ。泥が跳ねる。

 俺はコレットを抱えたまま、地面に押しつぶされていた。

 護衛の剣が抜かれる音がした。

「無礼者!」

 死んだ、と思った。

 豚を止めたところで、王太子の馬前に飛び出したのだ。斬られてもおかしくない。

 コレットが俺の腕の中で暴れた。

 俺は歯を食いしばって押さえた。

 頼む。

 もう少しだけ。

 馬のいななきが収まった。

 誰かがフィリップ殿下の名を呼んだ。

 それから、若い声がした。

「待て」

 護衛の足が止まった。

 俺は顔を上げた。

 フィリップ殿下は、馬上で息を切らしていた。顔は青い。だが落ちてはいない。手綱を握る手は震えていたが、確かに生きていた。

 殿下は俺を見た。

 泥まみれで、豚を抱えて、王太子の馬前に転がっている俺を。

「その者は、私の馬を止めたのか」

 誰もすぐには答えなかった。

 俺自身も答えられなかった。

 コレットが鼻を鳴らした。

 フィリップ殿下は、少しだけ眉を寄せた。

「いや、豚を止めたのか」

 その通りだった。

 俺はようやく声を絞り出した。

「殿下。豚は、危のうございます」

 自分でも、馬鹿みたいな言葉だと思った。

 だがフィリップ殿下は、それを笑わなかった。

 彼は自分の馬の首筋に手を置き、ゆっくり息を吐いた。

「確かに、危ないな」

 それから、護衛に向かって言った。

「その者を斬るな。私が落ちなかったのは、その者が豚を止めたからだ」

 俺は泥の上で、目を閉じそうになった。

 助かった。

 フィリップ殿下が生きている。

 俺も、たぶん生きている。

 コレットも、腹立たしいことに元気だった。


 その後のことは、よく覚えていない。

 俺は何度も事情を聞かれた。なぜあれほど必死に豚を追っていたのかと問われた。

 俺は「うちの豚が逃げたので」とだけ答えた。

 それ以上は言えない。

 王太子殿下が今日、豚で死ぬはずだったなどと言えば、今度こそ本当に頭を疑われる。

 コレットは、元の飼い主、つまり俺の家へ戻された。

 母とアリスは、俺の姿を見るなり悲鳴を上げた。そして俺がフィリップ殿下の馬前に飛び込んだと知ると、母は泣きながら怒り、アリスは泣きながら俺の肩を叩いた。

「兄さんは馬鹿だ!」

「知ってる」

「本当に馬鹿だ!」

「それも知ってる」

 俺はそう答えるしかなかった。


 数日後、街では豚の徘徊について新しい決まりが出るらしい、という噂が流れた。

 誰が言い出したのかは知らない。

 王太子殿下が父王に進言したのだ、と言う者もいた。あの若い殿下は命拾いをしたのだから当然だ、と言う者もいた。困るのは俺たちだ、と文句を言う者もいた。

 俺は何も言わなかった。

 俺がしたかったのは、歴史を変えることではない。

 うちの豚が王太子を殺す未来を避けること。

 それだけだった。

 けれど、フィリップ殿下は生きている。

 それが何を変えるのか、俺にはわからない。

 ルイ様は王になるのか。

 アキテーヌの姫は誰と結婚するのか。

 その先のことは、豚飼いの俺にわかるはずもない。

 ただ一つ、わかったことがある。

 マルグリットを潰しても、コレットが走った。

 歴史というものは、こちらが一本の杭を打てば、別の隙間から鼻を突っ込んでくるらしい。

 それでも、あの日、俺は豚を止めた。

 王太子殿下は落馬しかけたが、生きている。

 俺も、母も、アリスも、生きている。

 その先のことは、神のみぞ知る、だ。


 我が家では、コレットがすべてを忘れたように暮らしている。

 母とアリスは、マルグリットの代わりとばかりに、あの若い雌豚を甘やかした。

「あんたがマルグリットを潰したんだから、せめてこの子は大事にしないとね」

「コレット、ジャン兄さんに近づいちゃだめよ。何をされるかわからないから」

 その豚は、王太子殿下に突っ込みかけたんだが。

 そう思ったが、言わなかった。

 言えばまた、頭を打ったせいだと言われるだけだ。

 もっとも当のコレットは、そんなことはどうでもよさそうに、毎日よく食べ、よく眠り、よく柵を押した。

 今日も母が、庭の向こうから俺を呼んだ。

「ジャン、コレットの柵を見ておくれ。あの子、また鼻で押してるよ」

 俺は板と釘を手にした。

 歴史がどう転ぶかは、俺にはわからない。

 だが、ひとつだけ確かなことがある。

 我が家の柵は、二度と仮止めにしてはいけない。

※本作はカクヨムにも掲載しています。

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