転生したら豚飼いだった。うちの豚が王太子を殺すらしいので、今日のうちに鍋にします
俺は、豚に轢かれて前世を思い出した。
転生ものなら、ふつうは馬車だろう。
少なくとも、前世で読んだ物語ではそうだった。貴族令嬢が階段から落ちる。王子が馬車に跳ねられる。あるいは病で高熱を出して、目覚めたら前世の記憶が戻っている。
だが俺は違った。
轢いたのは、うちで一番でかい雌豚、マルグリットだ。
何度も子を産んだ繁殖用の大雌豚で、家で一番よく食い、一番よく柵を壊し、一番母に甘やかされている。そいつが、昼前のぬかるんだ庭で、いきなり俺の背中に突っ込んできた。
「ぐえっ」
情けない声が出た次の瞬間、俺は泥の中に顔から突っ込み、勢い余って石に額をぶつけた。
ごん、と頭の奥で鐘が鳴った。
鐘。
いや、違う。
日本。会社。歴史の本。インターネット。スマートフォン。電車。コンビニ。
見覚えのないはずの文字と、聞いたこともないはずの名前が、頭の中に一気に流れ込んでくる。
フィリップ。ルイ六世。ルイ七世。アリエノール・ダキテーヌ。
そして、豚。
俺は泥の中に倒れたまま、ゆっくり目を開けた。
目の前では、マルグリットが何事もなかったように鼻を鳴らし、野菜くずの入った桶に頭を突っ込んでいる。
黒く、でかく、重く、腹が低い。馬の脚元に横から突っ込めば、たぶん馬は転ぶ。
いや、待て。
1131年。
パリ。
王太子フィリップ。
豚。
俺は震える手で泥をぬぐい、マルグリットを見た。
「……お前か?」
マルグリットはこちらを見もしなかった。桶の底に残った蕪の葉を、実に満足そうに噛んでいる。
「ジャン兄さん!」
妹のアリスが駆け寄ってきた。十五になったばかりの妹は、俺の額から血が出ているのを見るなり、顔を青くした。
「大丈夫? 頭を打ったの? 母さん、兄さんがマルグリットにやられた!」
「やられてない」
俺は起き上がろうとして、頭の痛みにうめいた。
「いや、やられた。だがそれどころじゃない」
「それどころだよ! 血が出てる!」
アリスが俺の袖をつかむ。その向こうから、母が小走りで出てきた。手には粉のついた布巾を握っている。
「ジャン! 何をしてるんだい、あんたは!」
「俺じゃない。マルグリットだ」
「また柵を直し忘れたんだろう。あの子は悪くないよ」
母はこの巨大な黒い雌豚を、たまに本気で人間の娘みたいに扱う。
俺は額を押さえながら、その巨体を見た。
でかい。
とにかく、でかい。
これが明日、王太子の馬の前に飛び出す。
そう思った瞬間、全身から血の気が引いた。
前世の記憶は、細かいところまでは頼りにならない。俺は学者ではなかったし、フランス史の専門家でもなかった。ただ、妙に印象に残っている話というものはある。
フランス王ルイ六世の長男フィリップは、パリで馬に乗っているとき、豚に馬を転ばされて死ぬ。
その後、パリでは豚の徘徊が禁じられた。
問題の豚がどうなったかは知らない。持ち主がどうなったかも、俺が前世で調べた限りではよくわからなかった。
だが、考えなくてもわかる。
王太子を死なせた豚が、無事に飼い主のもとへ返されたとは思えない。豚だけではない。その豚を飼っていた家も、ただでは済まなかったはずだ。
俺は王国の歴史を変えたいわけではなかった。
ただ、死にたくなかった。母とアリスを巻き込みたくなかった。
うちの豚が王太子殺しになる未来を、どうしても止めなければならなかった。
「母さん」
「何だい」
「マルグリットを潰す」
母とアリスが、同時に黙った。
庭の隅で、マルグリットだけが桶をひっくり返した。
ごとん、と間の悪い音がした。
「……今、何て言ったんだい?」
俺は立ち上がった。膝が泥で濡れている。額は痛い。頭の中では、日本人だった俺の記憶と、豚飼いのジャンとしての記憶が、まだぐちゃぐちゃに混ざっていた。
それでも、これだけはわかった。
明日までマルグリットを生かしておいてはいけない。
「マルグリットを潰す。今日中に」
「兄さん、頭を打ったせいでおかしくなったんじゃないの?」
「おかしくなってない」
「おかしいよ! うちで一番いい雌豚だよ!」
「知ってる」
母が布巾を握りしめた。
「あの子はまだ産める。春の子もよかった。今潰すなんて馬鹿なことを言うんじゃないよ」
「わかってる」
「わかってない!」
母の怒鳴り声に、マルグリットが不満そうに鼻を鳴らした。
俺は額の血を袖で拭った。
「母さん、アリス。信じてもらえないと思うが、聞いてくれ」
「聞くから、まず座って」
「明日、王太子フィリップ殿下が死ぬ」
二人は黙った。
「豚のせいで」
さらに黙った。
アリスが、ゆっくりと母を見た。
「母さん」
「何だい」
「兄さん、やっぱり頭を打ってる」
「そうだね」
「違う!」
俺は叫んだ。
「俺は正気だ! 明日、王太子殿下が馬で通る。その馬の前に豚が飛び出す。馬が転ぶ。殿下は落馬して死ぬ。そういうことになってるんだ!」
「何がそういうことになってるんだい!」
母の声が庭に響いた。
近所の窓がひとつ開いた気配がした。
まずい。これ以上騒ぐと、俺は本当に頭を打っておかしくなった男として扱われる。いや、もう半分そうなっている。
アリスは泣きそうな顔で俺を見ていた。
「ジャン兄さん、王太子様のことは心配だけど、どうしてそれがマルグリットなの?」
俺はマルグリットを見た。
マルグリットは桶を完全に倒し、その下に残っていた豆の皮を探している。
黒くて、重くて、低くて、動きが鈍いように見えて、食い物を見つけた時だけ異様に速い。
「……こいつなら、馬を転ばせられる」
「そんな理由で!?」
「十分な理由だ!」
母が頭を抱えた。
「神様、うちの息子が豚に王太子殺しの疑いをかけてるよ」
「しかもマルグリットに」
アリスが小声で言った。
そうだ。しかもマルグリットに、だ。
うちの稼ぎ頭。母のお気に入り。アリスが子豚のころから世話をした大雌豚。父が生きていたころから家にいる、黒くてでかい財産。
だが俺は知ってしまった。
この豚がフィリップ殿下を殺せば、うちは終わる。
俺は深く息を吸った。
「マルグリットは、今日潰す」
「ジャン!」
「俺が家長だ」
父が死んで数年。俺はまだ、家長という言葉をうまく使えない。使うたびに、父の上着を無理に着ているような気分になる。
だが、今日は使うしかなかった。
「俺が決める」
母は俺をにらんだ。
アリスもにらんだ。
マルグリットだけが、何も知らずに、鼻先を泥に突っ込んでいる。
前世の物語なら、ここで聖女が神託を受ける。勇者が剣を抜く。悪役令嬢が破滅を回避する。
だが俺の前にいるのは、二百五十キロはありそうな黒い雌豚だった。
そして俺の使命は、こいつを明日までに食肉にすることだった。
その日の夕方、家の裏は騒ぎになった。
母は最後まで怒っていたし、アリスは俺と口を利かなかった。近所の男衆を呼ぶ羽目になり、俺は何度も「急にどうした」と聞かれた。
頭を打ったからだ、と答えた者もいた。
縁起が悪い夢を見たらしい、と答えた者もいた。
俺は何も言わなかった。
夜には、マルグリットの一部が鍋に入っていた。
残りは塩に埋められ、脂は壺に流され、腸は洗われた。うちの冬支度が、一日で済んだようなものだった。
「食べるけど、許したわけじゃないからね」
アリスはそう言って、肉を口に運んだ。
母は無言だった。
俺も無言で食った。
その鍋は、腹にしみるほどうまかった。
翌朝。
俺は、ひさしぶりに腹いっぱい食ったせいで、妙に体が軽かった。
母とアリスは俺を許していなかったが、家が動かないわけにはいかない。朝になれば桶を洗い、くずを分け、柵を見て、残った豚に餌をやる。
俺は桶を抱えながら、空を見た。
今日、フィリップ殿下は死なない。
ルイは急に後継者にならない。
アリエノール・ダキテーヌとの結婚も、きっと変わる。
そこから先のことは、俺にはわからない。だが少なくとも、うちの豚が王太子を殺すことはない。
俺は勝ったのだ。
鍋と塩樽で、未来をひとつ止めた。
そう思っていたところへ、アリスの叫び声が飛んできた。
「兄さん、豚が逃げた!」
俺は笑った。
「逃げる豚なら、もう鍋の中だ」
「違う! コレット!」
桶が、手から滑り落ちた。
コレット。
去年の春に生まれた、マルグリットの娘。
次の繁殖用に残すつもりだった若い雌豚。
マルグリットほど重くはない。だが足は速い。好奇心はもっとある。何でも鼻で押す。何でも隙間から出ようとする。
そして昨日マルグリットが壊した柵は、まだ仮の板を打っただけだった。
俺は庭の隅を見た。
板が外れている。
泥に、若い蹄の跡が残っている。
その跡は、通りのほうへ続いていた。
血の気が引いた。
「……歴史が、代わりを出してきた」
「何?」
アリスの訝しげな声を置き去りにして、俺は走り出した。
コレットの足跡は、ぬかるみの路地を抜け、市場のほうへ向かっていた。
朝の通りはもう人で詰まり始めている。野菜を運ぶ女。桶を担ぐ男。魚の匂い。湿った藁。馬の糞。パンを焼く匂い。誰かが怒鳴り、誰かが笑い、誰かが神の名を口にする。
その隙間を、灰色がかった若い雌豚が走っていく。
「コレット!」
俺が叫ぶと、コレットは一瞬だけ耳を動かした。
そして、さらに速く走った。
「止まれ!」
止まるわけがない。
豚は人の言葉を聞かない。特に、逃げている豚は聞かない。
俺は人をかき分け、泥に足を取られ、何度も転びかけながら走った。
前世の俺は、こんなに走れる体ではなかったはずだ。
だが今の俺は、豚飼いのジャンだった。桶を担ぎ、袋を運び、柵を直し、暴れる豚に押されても倒れずに働いてきた体だった。
それでも、コレットは速い。
若い。
軽い。
昨日のマルグリットとは違う。
歴史が本命を失って、急に代わりを出してきたのだとすれば、品質は落ちている。だが、豚であることには変わりない。
そして馬の脚元に飛び込むには、十分だった。
通りの向こうが少し開けた。
セーヌのほうから風が来る。
グレーヴのあたりだ。
人の声が変わる。
ただの朝のざわめきではない。
「道を開けろ!」
「殿下だ!」
その声を聞いた瞬間、俺の背中が冷たくなった。
来た。
本当に来た。
王太子フィリップ殿下の一行が、通りへ入ってくる。
まだ少年の面影を残した若い騎手が、供の者たちに囲まれて馬を進めていた。整った服。よく手入れされた馬。周囲の者たちの緊張。
俺はフィリップ殿下の顔をまともに見る余裕などなかった。
見ていたのは、その馬の脚元だった。
そして、そこへ向かって走るコレットだった。
「コレット!」
俺は叫んだ。
コレットが、泥の中の何かに鼻を向けた。
一瞬、進路がそれた。
次の瞬間、人の足に驚いたのか、コレットは跳ねるように横へ飛んだ。
王太子の馬の前へ。
馬が耳を立てる。
供の者が何か叫ぶ。
俺は飛び込んだ。
考える暇はなかった。
豚の横腹にしがみつき、泥の上に倒れ込む。コレットが悲鳴のような声を上げる。俺の腕の中で暴れる。膝が石に当たる。肩に豚の重さが乗る。臭い。重い。滑る。
それでも離さなかった。
離したら、王太子が死ぬ。
王太子が死んだら、ルイが王になる。
ルイが王になったら、アリエノールが。
いや、今は豚だ。
今は豚だけを止めろ。
「殿下、手綱を!」
俺は叫んだ。
馬が立ち上がった。
フィリップ殿下の体が大きく揺れる。供の者が手を伸ばす。馬の蹄が石を打つ。泥が跳ねる。
俺はコレットを抱えたまま、地面に押しつぶされていた。
護衛の剣が抜かれる音がした。
「無礼者!」
死んだ、と思った。
豚を止めたところで、王太子の馬前に飛び出したのだ。斬られてもおかしくない。
コレットが俺の腕の中で暴れた。
俺は歯を食いしばって押さえた。
頼む。
もう少しだけ。
馬のいななきが収まった。
誰かがフィリップ殿下の名を呼んだ。
それから、若い声がした。
「待て」
護衛の足が止まった。
俺は顔を上げた。
フィリップ殿下は、馬上で息を切らしていた。顔は青い。だが落ちてはいない。手綱を握る手は震えていたが、確かに生きていた。
殿下は俺を見た。
泥まみれで、豚を抱えて、王太子の馬前に転がっている俺を。
「その者は、私の馬を止めたのか」
誰もすぐには答えなかった。
俺自身も答えられなかった。
コレットが鼻を鳴らした。
フィリップ殿下は、少しだけ眉を寄せた。
「いや、豚を止めたのか」
その通りだった。
俺はようやく声を絞り出した。
「殿下。豚は、危のうございます」
自分でも、馬鹿みたいな言葉だと思った。
だがフィリップ殿下は、それを笑わなかった。
彼は自分の馬の首筋に手を置き、ゆっくり息を吐いた。
「確かに、危ないな」
それから、護衛に向かって言った。
「その者を斬るな。私が落ちなかったのは、その者が豚を止めたからだ」
俺は泥の上で、目を閉じそうになった。
助かった。
フィリップ殿下が生きている。
俺も、たぶん生きている。
コレットも、腹立たしいことに元気だった。
その後のことは、よく覚えていない。
俺は何度も事情を聞かれた。なぜあれほど必死に豚を追っていたのかと問われた。
俺は「うちの豚が逃げたので」とだけ答えた。
それ以上は言えない。
王太子殿下が今日、豚で死ぬはずだったなどと言えば、今度こそ本当に頭を疑われる。
コレットは、元の飼い主、つまり俺の家へ戻された。
母とアリスは、俺の姿を見るなり悲鳴を上げた。そして俺がフィリップ殿下の馬前に飛び込んだと知ると、母は泣きながら怒り、アリスは泣きながら俺の肩を叩いた。
「兄さんは馬鹿だ!」
「知ってる」
「本当に馬鹿だ!」
「それも知ってる」
俺はそう答えるしかなかった。
数日後、街では豚の徘徊について新しい決まりが出るらしい、という噂が流れた。
誰が言い出したのかは知らない。
王太子殿下が父王に進言したのだ、と言う者もいた。あの若い殿下は命拾いをしたのだから当然だ、と言う者もいた。困るのは俺たちだ、と文句を言う者もいた。
俺は何も言わなかった。
俺がしたかったのは、歴史を変えることではない。
うちの豚が王太子を殺す未来を避けること。
それだけだった。
けれど、フィリップ殿下は生きている。
それが何を変えるのか、俺にはわからない。
ルイ様は王になるのか。
アキテーヌの姫は誰と結婚するのか。
その先のことは、豚飼いの俺にわかるはずもない。
ただ一つ、わかったことがある。
マルグリットを潰しても、コレットが走った。
歴史というものは、こちらが一本の杭を打てば、別の隙間から鼻を突っ込んでくるらしい。
それでも、あの日、俺は豚を止めた。
王太子殿下は落馬しかけたが、生きている。
俺も、母も、アリスも、生きている。
その先のことは、神のみぞ知る、だ。
我が家では、コレットがすべてを忘れたように暮らしている。
母とアリスは、マルグリットの代わりとばかりに、あの若い雌豚を甘やかした。
「あんたがマルグリットを潰したんだから、せめてこの子は大事にしないとね」
「コレット、ジャン兄さんに近づいちゃだめよ。何をされるかわからないから」
その豚は、王太子殿下に突っ込みかけたんだが。
そう思ったが、言わなかった。
言えばまた、頭を打ったせいだと言われるだけだ。
もっとも当のコレットは、そんなことはどうでもよさそうに、毎日よく食べ、よく眠り、よく柵を押した。
今日も母が、庭の向こうから俺を呼んだ。
「ジャン、コレットの柵を見ておくれ。あの子、また鼻で押してるよ」
俺は板と釘を手にした。
歴史がどう転ぶかは、俺にはわからない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
我が家の柵は、二度と仮止めにしてはいけない。
※本作はカクヨムにも掲載しています。




