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第二章:終わらない追走と、消えない熱

視点:リリアナ・ルクスタシア

 あの夜会から、季節は静かに巡り始めていた。


 フォールト卿にどうしても直接お礼を伝えたい。そう願って彼の後を追うリリアナの道のりは、不運と、そして季節を跨ぐ「足踏み」の連続だった。


 一分の隙もなく正確な規律を刻んで歩む彼の「背中」は、追いつこうとするたびに夏の陽炎のように遠ざかってしまう。近づきたいと願うほどに、リリアナの周囲では何かが壊れ、道が塞がれ、終わりのない追いかけっこを繰り返しているような心地だった。


 そして今日。柔らかな日差しが若草を照らす春の昼下がり、王宮の庭園では、翌日の外交会談を控えた各国の代表を招く、前日の懇親ティーパーティーが催されていた。


(……今度こそ。きちんとお礼を申し上げたい)


 リリアナは、馴染みのメイドに泣きついて借りた制服に身を包み、深くキャップを被って給仕に紛れていた。公爵令嬢がすることではないと分かっている。けれど、普通に面会を申し込んでも、家臣たちに「フォールト卿にご迷惑がかかる」と遮られてしまうのだ。


 震える手で、お茶の入った銀のティーポットを手に取る。

 庭園の奥、白磁の円卓を囲むフォールト卿の姿が目に飛び込んできた。


 今日の彼は、柔らかな日差しに映えるシルバーグレーの三つ揃いを纏っていた。胸元には淡いブルーのクラヴァットが、タイピンによって一分の狂いもなく留められている。

 フォールト卿は分厚い資料を広げ、他国の外交官へ淡々と説明を続けていた。その場に満ちる張り詰めた空気から、それが明日の会談に関わる重要な内容であることをリリアナは直感した。


 リリアナは心臓の鼓動が早まるのを感じながら、慎重に、一歩ずつ卓へと近づいた。


(大丈夫、お茶を注ぐだけ。……注いでから、隙を見てあの方に……)


 リリアナが緊張で指先に力を込めた瞬間だった。

 ティーポットの中の茶葉が、沸騰もしていないのにチリチリと微かな音を立て、ポット全体が生き物のように脈打ち始めた。


 フォールト卿が、ふと顔を上げた。

 給仕のふりをしたリリアナと視線が重なった瞬間、いつもは冷静なダークグレーの瞳が、まるで世界が停止したかのように一瞬で凍りついた。


「……待て。ルクスタリア公爵令嬢、止まっ――」


 彼の静止の声よりも早く、リリアナの足が制服の裾に絡まった。

 体勢が大きく崩れる。ティーポットが手から離れ、放物線を描いて宙を舞った。


「あ……っ!」


 咄嗟にリリアナを支えようと手を伸ばしたフォールト卿だったが、夜会での惨劇が脳裏をよぎったのか、一瞬だけ体が強張る。そのわずかな遅れが、事態を決定づけた。

 宙を舞ったティーポットから溢れた液体は、吸い寄せられるように卓上の提案書へと叩きつけられた。真っ白だった紙面が、みるみるうちに茶黒く染まり、文字が滲んで判別不能になっていく。


勢い余ったリリアナは、そのまま彼の胸元に全体重をかけて突進した。


ざばぁっ!


派手な水飛沫とともに、二人は卓のすぐ隣にある装飾池へと落下した。


冷たい水。泥の匂い。

 池の中で顔を上げたリリアナの視界に入ったのは、完璧だったはずの髪を濡らし、机の上で無残に染まりきった資料を、呆然と見上げるフォールト卿の姿だった。


「……ごめんなさい、わたくし、お礼を……っ。何か、何か拭くものを……」


パニックになったリリアナが、濡れた手で彼の肩に触れようとする。

 その時、二人の周囲の池の波紋が、外側ではなく、リリアナの手を中心にして「内側」へと不自然に逆流し始めた。


「――触るな! これ以上、何もしなくていい!」


低く、鋭い声がリリアナを射抜いた。

 フォールト卿はリリアナの手首を強く掴み、彼女の動きを物理的に封じた。その瞳は、台無しになった書類など見ていなかった。ただ、目の前で起きる怪異を逃さず検分しようとする、冷たく鋭い執着が宿っている。それは忌避や恐怖ではない。未知の数式を解き明かそうとする、剥き出しの探求心だった。


「いいですか、そのまま。……私の指示に従いなさい」


 有無を言わせぬ命令口調。リリアナが震えながら頷くのを確認すると、彼は迷いのない動作で彼女を軽々と抱きかかえ、池の外へと連れ出した。

 自分を運ぶ彼の腕はひどく硬く、濡れた三つ揃いの感触がじわりと伝わってくる。

 フォールト卿は、絶句したままの他国の外交官たちに向き直り、一滴の雫も拭わぬまま、極上の礼節を保った声で告げた。


「……失礼。不慮の事故ゆえ、会談の事前説明はここまでとさせていただきます。明日、本会談の場で改めて」


 彼はリリアナを抱えたまま、迷いのない足取りで庭園を離れ、王宮の回廊へと消えた。

 連れて行かれた先は、庭園から最も近い控室の入り口だった。そこにはリリアナの護衛が待機していた。


 フォールト卿はリリアナを降ろすと、彼女の護衛に向かって吐き捨てるように言った。


「……彼女を部屋へ。二度と私の視界に入る場所へ出すな。――明日の会談が終わるまでは、絶対にだ」


背中を向けて去っていくフォールト卿の三つ揃いからは、べたべたと水が滴り落ちている。

 リリアナは震える手で自身の手首をぎゅっと握りしめ、そのまま胸元に押し当てた。ドクドクと早まる心音。その激しい鼓動が、彼が残した確かな熱へと掌を通して伝わっていく。

 冷え切った体とは裏腹に、彼に力強く掴まれた手首の熱だけが、いつまでも消えずに残っていた。



   ◆◆◆


 焼け付くような日差しが石造りの回廊に熱を籠もらせる、盛夏。

 リリアナは柱の影に隠れ、指先で握りしめたお守りの刺繍の凹凸を痛いほどになぞっていた。張り詰めた緊張が掌の熱となって、小さな布袋を熱くさせていく。


 今度こそ、きちんとお礼を伝えたい。


 カツ、カツ、と正確なリズムを刻む靴音が、熱を帯びた回廊に反響する。

 現れたフォールト卿は、漆黒に近いダークネイビーの三つ揃いを、氷のように冷たく着こなしていた。 その後ろには、分厚い資料の束を抱えた補佐官が、彼の歩幅に合わせて影のように付き従っている。


 フォールト卿は、そこに何があるかをあらかじめっているかのように、数メートル手前で正確に足を止めた。深い湖底を思わせるダークグレーの双眸が、真っ直ぐにリリアナの潜む柱を射抜く。


「……また、あなたですか。ルクスタリア公爵令嬢」


「フォ、フォールト卿! あの、今日こそは、これを……!」


 リリアナが柱から飛び出し、必死に距離を詰めようとする。しかし、彼は既に半歩下がっていた。


「結構です。私は今、宰相閣下との重要な定例会議に向かっている。これ以上、私の職務を妨げないでいただきたい」


「待ってください! これ、本当に、どうしてもお渡ししたくて!」


 踵を返して去ろうとする彼を、リリアナは半ば無意識に追いかけた。その瞬間、彼女の「彼を止めたい」という切実な焦燥が、回廊の空気をピリリと震わせた。


 ガタッ、ガタガタガタッ!


 壁の飾り棚に並んでいた、国宝級とも言われる四つの青磁の飾り壺たちが、一斉に鳴り始めた。 揺れているのではない。まるで氷の上を滑るように、自ら棚の端へと加速しながら移動し始めたのだ。


「……なっ!?」


 フォールト卿が足を止めた。物理法則を無視して棚の縁へと滑り出した一つ目の壺を目で捉える。

「公爵令嬢、動くな!」


 彼は叫ぶと同時、手元にあった資料を後ろの補佐官へ向けて無造作に放り投げた。

「きょ、局長……ッ!?」

 補佐官は裏返った声を上げながら、宙を舞った資料の束を胸いっぱいに広げて慌てて受け止める。

 その間に、フォールト卿は回廊を縦横に跳んでいた。滑り落ちる二つの壺を両手で奪い取るように掴むと、そのまま床へと滑り込む。

 仰向けに倒れ込んだ彼の胸元へ三つ目が飛び込み、さらに零れ落ちそうになった最後の一つを、彼は必死に膝を折って支えきった。

 規律を何よりも重んじる彼が、装飾品一つを割らせないために、床に背をつき、四肢を奇怪な形に曲げた無様な格好でその場に釘付けにされている。


 補佐官は、腕の中から資料が数枚パラリと床に滑り落ちたことにも気づかない様子で、ただその場に縫い付けられたように固まっていた。


 やがて、王宮に会議の開始を告げる鐘が虚しく響き渡る。

 彼は四つの重い壺を全身で抱え込んだまま、一瞬、天を仰ぐように目を閉じた。

(……どうしよう。私のせいで、あの方の完璧な経歴に、またしても消えない傷が……)


 すべての壺を慎重に棚の奥へと戻し終えると、彼は床に着いた上着の埃を一度だけ強く払い、音もなく立ち上がった。

 乱れた上着の襟を叩き、サファイアブルーのクラヴァットの結び目を、まるで自身の規律を刻み直すように無言で整え直す。その横顔は、先ほどまでの激しい動転を強引に剥ぎ取ったかのように、既に冷徹な外交官のものへと戻っていた。


「……ルクスタリア公爵令嬢。今の現象を、あなたはどう認識していますか」


「え……? わたしはただ、滑らないようにと…」


 彼はリリアナの混乱した様子を確認すると、未だに呆けている補佐官を鋭い一瞥で正気に戻した。

「……会議の場へ急げ。内政局のアルジェント伯に伝えろ。『回廊にて、北方の観測例に類する深刻な空間異常を確認。即時調査のため遅参する』とな。予算の書き換えは後ほどだ」


 補佐官が弾かれたように走り出す。彼はリリアナに向き直った。


「あなたの周囲で起きる『不運』。これは単なるあなたの過失ではない可能性がある。公爵令嬢、後ほど詳しく話を伺います。それまで、絶対にここから動かないように」


 射抜くような鋭い視線。けれどそこには、他人がリリアナに向ける「呪いへの恐怖」ではなく、熱を帯びた「観察」の光が宿っていた。

 彼はリリアナを一瞥すると、有無を言わせぬ速さで背を向けた。上層階へと続く階段を上がるその足取りは、既に冷徹な外交官のリズムを取り戻していた。



   ◆◆◆


 その夜、寝台の上で日記帳を開いたリリアナは、今日起きた出来事を羽ペンに託した。


『また、取り返しのつかないことをしてしまった。回廊にある国宝の飾り壺を、私のせいで台無しにするところだった。フォールト卿は――』


 そこでふと、ペン先が止まる。

 白紙の上、規律正しく並んだ「卿」という文字。けれど脳裏に浮かぶのは、自分を助けるために仰向けに倒れ込み、そのあとで毅然と立ち上がった彼の瞳だった。

 リリアナは吸い取り紙でインクの滲みを抑えると、少しだけ震える手で、その名前を書き足した。


『――アルフレッド様は、大切にしていた会議を欠席してまで私の後始末をしてくださった。

 あんなに怖い言葉で怒られたのに、不思議と怖くなかった。

 あの方は、私を「呪われたお嬢様」として避けるんじゃなくて、ちゃんと一人の人間として、真っ直ぐに見てくれた気がする。

 すごく恥ずかしいけれど、少しだけ、嬉しかった。』


 書き終えた自分の文字を目にした途端、耳たぶの端が焼けるように熱くなる。


 リリアナはこれまでのページを遡ってみた。 最初のページには、ただ一行「失敗してしまった」といった短い言葉しかなかった。それが、季節を跨いでページをめくっていくと、次第に「でも」という文字が混じり始めている。


『――池に落ちてしまった。書類も台無し。でも、抱え上げてくださった腕は力強くて、震える私を一番に控室まで運んでくださった』

『――今日も逃げられてしまった。でも、私を避けるあの方の身なしは、驚くほど俊敏で、見惚れるほどに綺麗だった』


 日記の余白を埋め尽くすように、増え続けていく言葉たち。それは彼との繋がりを証明する唯一の軌跡となっていた。


 窓の外。

 膨れ上がった熱が逃げ場を失うように、夏夜の公爵邸に季節外れの薄紫色の花が咲き誇っていた。次々と芽吹いていく花が、夜の空気を甘ったるい花の匂いで塗り潰していく。

 それが、自分自身の無自覚な感情が形を成した光景であることに、彼女はまだ気づいていない。

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