プロローグ:静かなる予兆
視点:アルフレッド・フォールト
外交局長、アルフレッド・フォールトの執務室において、時間は「書類」の重みによって計られる。
広大なマホガニーのデスクには三つの革製レタートレイが並び、アルフレッドは銀細工の万年筆を淀みなく走らせていた。
整えられたオールバックの黒髪が、窓から差し込む夕光を硬質に弾いている。深いダークグレーの瞳は、常に冷徹な観察者のそれだ。
深い緑を帯びた黒の三つ揃い。夜会へ向かう前のわずかな隙間さえも執務に充てるため、既に身支度は完璧に整えてある。それは、相手に威圧感を与えず、それでいて底知れぬ余裕を感じさせるための「外交戦略」に基づいた選択だった。
かつて大陸全土を焼き尽くした戦乱が終結して、十数年。ようやく訪れたかりそめの平穏を、自らの調整によって維持し続けること。それが今の、そして外交を預かる身としてのアルフレッドが自らに課した秩序だった。
ふと、視界の端で光が揺れた。
天井に吊るされた魔導ランプが、瞬きをするように一瞬だけ暗転し、数秒の空白を置いて再び無機質な輝きを取り戻す。
アルフレッドの手が止まった。彼は万年筆を置き、わずかに眉を寄せた。
(――またか)
王宮の地下に鎮座する『中央魔石』の変換効率が理論値を恒常的に下回り、国家の動力基盤が物理的に摩耗していることを、その明滅は物語っていた。
彼は一番下のトレイから、内政局経由で届いていた典薬局の内部報告書を引き抜いた。
高位保持者の衰弱死、魔導病院の出力不足。そして各地で観測される、重力の反転や水の沸騰といった「災害」。それらが発生した土地では、例外なく魔石がエネルギーを失い、ただの灰色の石ころへと変質してしまっている。
世界から、熱量と機能が、砂時計の砂のようにこぼれ落ちている。
(人が壊れ、機構が軋んでいる。――それも、予測モデルを遥かに上回る速度で)
官僚としての直感が、これは単なる偶然ではないと告げていた。
アルフレッドは最後に残った一通の封書を手に取った。差出人は、北方の魔道学術都市。
『魔脈変動に関する共同調査への協力要請』
厚手の羊皮紙をなぞる彼の指先に、力がこもる。
この要請を受諾すれば、王国は国家機密である魔脈のデータを一部とはいえ他国へ開示するという、外交上のリスクを負うことになる。
だが、この書状にはその対価として、北方が独占する最新理論の提供が含まれていた。
『色彩管理理論』――魔力の波長を視覚情報として再定義し、制御するという、今の王国では空理空論と切り捨てられている異端の術式。
既存の魔導理論が通用しない今の状況を打破するには、この切り札を北方の手から引き出すしかない。
「……私の預かり知らぬところで、この国を終わらせるわけにはいかない」
誰に聞かせるでもなく独り言を漏らすと、アルフレッドは万年筆を取り、受諾へ向けた「調整」の返信を書き込んだ。
今後、本格的な予算交渉や調査計画を有利に進めるためには、今夜の夜会に出席する北方の重鎮、ヴェルナー卿とあらかじめ接触し、友好の土壌を固めておく必要がある。
アルフレッドは傍らに掛けていた上着を手に取り、滑らかな所作で袖を通した。外交官としての「武装」を完遂させると、最後の一仕上げとしてタイピンがミリ単位の狂いもなく並行であることを指先の感触で確認した。
鏡の中には、隙のない完璧な「外交局長」が立っている。
今夜の夜会も、すべては自分が敷いたレールの通りに運ぶはずだ。ヴェルナー卿を懐柔し、北方の技術を手に入れ、この国の歪みを正す。自らが描いた緻密な盤面が、万に一つも揺らぐことなどあり得ない。
完璧な微笑の仮面を被り、アルフレッドはシャンデリアの輝く広間へと歩みを進めた。
自らの秩序が、シャンパンによって塗り替えられる瞬間がすぐそこに迫っているとは、微塵も疑うことなく。
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