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パワード・P・ラヴクラフト 断篇

作者: 深犬ケイジ
掲載日:2026/02/20

これは肉の豊穣、おっぱいの話である

 あの日、冷酷なる知性の持ち主であった付き合っていた女から貴公の肉体はあまりに貧相で、生物としての生命力に欠けるという断絶の宣告を受けた。それは失恋というより種の選別における敗北であった。その屈辱に震える私の背後に、暗黒の深淵はすでに口を開けていたのである。


事態が奇怪な転換を迎えたのは、その夜のことである。


理由の説明もなく何度も私の申請を撥ねつけてきた。あの忌まわしき古文書が眠る。地図の空白地帯にも等しい寒村の漁村。そこから突如として、調査許可という名の招待状が届いたのだ。埃を被った沈黙の中に埋葬されている古い資料たちが、あたかも意志を持ったかのように、私を暗黒の深淵へと手招きしているように感じた。


私は、カビの臭いの染み付いた研究室の机で、興奮が抑えられない震える指を走らせてスケジュールを練っていた。その時である。隙間風のような、死者の吐息に似た冷気が部屋を支配し、古ぼけた電灯の光が不自然な明滅を繰り返した。光の筋は、まるで網膜に焼き付く稲妻のごとき輝きを放ち、私のノートを横切って、机の端にある一点を指し示した。


『ダ・ガーンナップ』


新聞広告の片隅に踊る文字列に、光が指していた。私はあたかも不可視の糸に操られる操り人形のごとく、気がつけばそのトレーニングジムへと連絡を入れていた。それが、全ての崩壊の始まりであったのだ。


幸いにも、そのジムは調査対象である漁村の近傍に位置していた。


私は調査の前日に前乗し、そのジムに足を踏み入れた。


目的はただ一つ、肉体という名の神殿を再構築するための入会手続きである。


だが、重い鋼の扉を鈍く響かせ、入室した私を待ち受けていたのは、常軌を逸した教義の数々であった。


異様に鼓舞するトレーニングアドバイザーの声を聞きつつ、肉体に負荷をかけ、筋肉を虐める。そのような儀式めいたトレーニングであった。それは良い。私はそのために、この辺境の地まで来たのだ。問題は、生理的な嫌悪感を催させるほどの食事指導であった。


「炭水化物を、ひたすら貪れ」


その指導員の声は、どこか灼熱のマグマのような熱気を帯びていた。私の筋肉は、より強く、より美しく盛り上がる。光輝くような筋肉を、己の尊厳をとりもどす事を求めていたのだ。通常であれば、筋肉量増加させるタンパク質の摂取を優先する。それが筋肉を磨き上げる世界での共通の摂理ではないか? だというのに、彼らはまず、炭水化物で醜悪なまでに肥大せよと、そして、その後に鍛えよという方針を私に押し付けた。そういうのもあるのかも知れない。私が知り得ないやり方があるのだろうとその時は思っていた。


だが、その考えは間違っていたことを知る。正直、すぐにこの教義をやめたくなった。高い入会金をドブに捨てることになろうとも。三日坊主すらできないのかと嘲笑うがいい。構うものか。薬物に手を染めてでも、私はこの貧相な殻を脱ぎ捨てたかった。見せる筋肉でも良かったのだ。自分の自尊心を満たせれば良い。


私の精神が醜く堕落したとは断じないでほしい。私がそれらから逃れようとし、いかなる狂おしい忘却を欲しているのか。あるいは、なぜ死すらも甘美な救済と感じるほどの、この絶望の淵に立たされているのか。この支離滅裂な雑文を最後まで読み解けば、諸君にも、その影の断片が見えるかもしれない。




調査の初日、ホテルのベッドで目覚めた時の清々しさは、これまでの人生で味わったことのないほど、生命の輝きに満ちていたのだ。

その日の研究は捗り、トレーニングは充実し、身体機能の向上、筋肉のつき方、そして無機質な鋼鉄との対話。私は汗を流し、筋肉の疲労の中に、束の間の安息を見出した。


私の肉体は、異様なほどの熱を帯びて活性化していった。


だが、その日の夜。異変が起きた。食事指導に則ったメニューを開始した。尋常ならざるまずさであった。間違いなく、異変はそれが原因であろう。


泥のような眠りの中で、私は言葉にできぬ悪夢にうなされた。喉を通り過ぎる、あのネバネバとした、海水の塩辛さと腐敗した魚介の生臭さを混ぜ合わせたような、青緑色のプロテイン液……。それを何度も何度も、終わりなき苦悩とともに飲み干す夢。まどろみの中で、私は何か決定的な、そして極めて大事なことを忘却しているという、言いようのない喪失感に苛まれていた。


不意に意識が浮上した時、そこには冷淡な朝の光があった。

身体は鉛のように重く、節々は軋み、目覚めは最悪というほかなかった。


なぜならば、私の皮膚の下で、何かが蠢いているような気がしてならなかったのだ。


だが。研究は進めなければならない。その意思でもって身体を奮い起こした。


その日の私の務めは、研究資料を漁ること。いつ、村人の気が変わるかも知れない環境で与えられたチャンスをモノにしたかった。


成すことを成さねばならない。そう自分に言い聞かせて仕事に向かった。


約束の刻限、村の案内人と合流し、私はその領域へと足を踏み入れた。


当初、それはどこにでもある、うらぶれた農村の風景に過ぎぬはずであった。初日に訪れた蔵とは違う少し離れた、同じ地区にある別の場所へと向かっていた。


しかし、その2日目に訪れる予定の蔵が鎮座する裏山の麓へと分け入るにつれ、大気は淀み、言語を絶する違和感が私の精神を蝕み始めたのである。


ナニカオカシイ……昨日と違う。


まず鼻腔を突いたのは、耐え難いほどに濃密な、腐敗した磯の異臭であった。海からはそれほど離れてはいないが磯の香りが飛んでくるほどの場所ではない。だが、そこには数世紀にわたって放置された死魚の山が隠されているかのような、湿り気を帯びた強烈な悪臭が充満していた。


周囲の木々は、陽光を拒絶するように鬱蒼と重なり合い、不気味なほどに静まり返っている。驚くべきことに、足元は雨も降らぬのに、ぬかるみがあった。水源など、どこにも見当たらぬというのに、蔵の前に広がるその空間は、黒く蠢く粘土質の泥に覆われ、あたかも異界の深淵が地上へと滲み出しているかのようであった。


鳥の声も、木の葉のざわめきも、一切の環境音は消失し、ただ重苦しい沈黙だけが私の鼓膜を圧迫する。吐き気を催すほどの根源的な恐怖が、私の足を押し留めようとした。だが、私は抗えぬ引力に導かれ、その蔵の前に立っていた。


「ここがその蔵です」


声をかけてきた案内人に対して、私はヒョウ!という、己のものとは思えぬ間抜けな悲鳴を上げた。彼は怪訝な、どこか冷淡な眼差しを向けてこう告げた。


「私めは仕事がありますので、戻ります。蔵は自由に見るとよい。元通りにさえしてくれれば、何の問題もない……」


彼が去った瞬間、奇妙なことに、絶えていたはずの環境音が急激に蘇り、陽光のきらめきが世界を彩った。私は自らの恐怖を都会者の神経衰弱と断じ、禁断の資料を求める知的好奇心のままに、その内部へと潜り込んだ。


とても大きな蔵であった。それを三時間ほど、埃とカビの悪臭に耐えながら、私は狂ったように記録を調査して記録した。成果は上々であった。


しかし、その夜、私は深淵を味わうことになる。


トレーニングは滞りなく終わった。だが異常が起きた。あの青緑色のプロテインジュースが、耐え難いほどに生臭く変質していたのだ。私は鼻を摘み、胃の腑へとそれを流し込んだ。胸のむかつきはプロテインのせいだと、だが、これで筋肉は作られる。良薬口に苦しだと自分に言い聞かせながら。己の尊厳をとりもどすために飲み込んだ。


夢の内容は覚えてはいないが、とても暗い深淵なるナニかを見た。それだけは覚えていた。


翌日、私はあの忌まわしき飲み物を肉体精神共に拒絶し、どうしても飲めなかった。それゆえに水だけをがぶ飲みして仕事へ向かった。


案内人に迎えられ、同じ様に蔵の鍵を渡され、その案内人はすぐに消えた。


案内人から手渡された蔵の鍵は、ひどく湿り、まるでぬめる粘液を纏っているかのようであったが、私の感覚はすでに麻痺し始めていたようで、それほど気にならなかった。雨が降り出し、あの死魚の腐臭が昨日よりも鮮明に、刺すような鋭さで私を襲った。

ところが、蔵の内部へ一歩足を踏み入れた途端、不思議なことにその異臭は消失した。嗅覚の死か、それとも順応か。これで仕事が進むぞと達観的な気持ちになれた。


だが、その日の調査は成果がなかった。


重苦しい気持ちを振り払うため、私は逃げ込むようにダ・ガーンナップの門を叩いた。


担当のトレーナーは、表情の読めぬ、くすんだ笑顔を浮かべ、青緑色の忌々しいジュースを差し出してきた。


「そろそろ、以前の味には飽きた頃でしょう? 趣向を変えた、特別なスパイスを用意しました。さぁ、肉体を造り上げるための食事です」


激しい空腹に突き動かされ、私はそれを一気に飲み干した。驚くべきことに、それは美味であった。忌み嫌ったはずの、あの青緑色の粘液の中に、絶妙な酸味と甘味、そして仄かな塩気が混ざり合っている。多少の生臭さは依然として残っていたが、それはもはや不快ではなく、むしろ私の内なる何かが切望していた、エッセンシャルな味であるかのように感じられた。


「何か、中身を変えたのですか?」


私の問いに、担当者はまどろんだ眼差しで、くすんだ笑みを深めた。


「スパイスを少し、加えただけですよ。……ほんの、少しですがね」


その夜のトレーニングは、異常なほどに捗った。


私の皮膚は熱を帯び、大胸筋はかつてないほどの厚みと硬度を増していく気がした。だが、鏡に映った自分の瞳が、どこか魚類のような、湿った光を放ち始めていることに、私はまだ気づいていなかったのである。


その夜、私は研究資料の山、あのカビ臭い、忌まわしき漁村の断片を整理していた。


なんてことはない漁村の勃興や、ちょっとした言い伝えなど、どこにでもあるような昔話に目を向けつつ、漁村で言い伝えられている人魚伝説に気を取られていた。よくある八百比丘尼伝承である。


何か他と違う点がないか思考していたところ、トレーニングの疲れもあり、いつのまにかに泥のような眠りへと沈み込んだ。


しかし、待っていたのは安息ではない。私の精神は、現世の物理法則を嘲笑うかのような、狂気じみた夢の深淵へと放り出されたのである。それゆえに自分は眠り夢を見ているのだと夢の中で気がついた。


夢の中の空は、病的なまでに白濁した巨大な月が、天頂から私を凝視していた。私は、見渡す限り続く、銀灰色に光る広大な砂浜に立っていた。両手には、人間の頭蓋よりも重い、2つの冷徹な鋼の塊を備えたダンベルを握りしめている。


「力だ……もっと力を! 筋肉の深面に潜む、原初の力を呼び覚ますのだ!」


自分でも何を言っているかわからない。


しかし、私の内側から、私自身のものではない、粘りつくような野獣の咆哮が響き渡る。砂に足を取られ、膝まで埋まりながらも、私は狂ったように身体を動かし続けた。筋繊維が断裂し、悲鳴を上げる音が、まるで古びた帆船の索具が軋むような不吉な音色となって己の鼓膜を震わせる。


幻想的な月明かりの下、終わりのない肉体の酷使に、私は震えるような戦慄を覚えた。もう限界だ。体の動きを止めようとした。だが、不可視の鞭が私の背を打つ。


「吐くまで続けろ。気絶するか、さもなくば心臓が破裂するまで、この鋼の儀式を完遂せよ。限界を超えたその先にこそ、深淵の祝福があるのだ!」


唐突に、視界が闇に塗りつぶされた。口の中に飛び込んでくる、ジャリジャリとした不快な塩味の感触。ああ…、私は倒れ伏したのだ。冷たく湿った砂の中に、無様に。その刹那、胃の底からせり上がってきたのは、筆舌に尽くしがたい猛烈な生臭さであった。私は己の内臓ごと、あの忌まわしき青緑色の液体を吐き出している。そう確信した瞬間に、私は跳ね起きた。


全身を、凍てつくような冷たい汗が覆っていた。


「悪夢か……あれは、単なる脳髄の悪戯に過ぎない。気にするな」


私は自分に言い聞かせた。すべては、あのダ・ガーンナップで処方された、得体の知れぬジュースの影響なのだと。


しかし、奇怪なことに、私の胃袋はどこまでも続く洞窟のような虚無を抱え、獣のごとき飢餓感を訴えていた。ぐぐう、という腹鳴りが、静まり返った部屋に異様に大きく響く。


「高い金を払っているのだ。元を取らねば……。それに尊厳を取り戻したいんだ。自信を取り戻すんだ。致し方ない」


私は、もはや抵抗する生理的拒否感を忘れ、ホテルの冷蔵庫にある、残していたジュースを手に取った。


喉を通り抜けるのは、かつて経験したことのない、粘液質のヌルヌルとした喉越し。それはまるで、生きたままの軟体動物を嚥下するかのような感覚であったが、驚くべきことに、私の本能はそれを悦びとして受け入れていた。鼻を突く生臭さも、今や私の五感にとっては、古郷の潮風のように懐かしく、心地よいものへと変質していたのである。


「体が……慣れてきたのか? これがアジャスト?」


そう自分に言い聞かせ、仕事に向かった。


三日目。


蔵での調査にも、ジムでの修練にも、充実感はあったが目に見える成果は現れなかった。


そして、夜、あの狂気じみた夢も見なかった。


しかし、翌朝、目に見える変化が体に起きていた。


私の大胸筋は、服の上からでも分かるほどに異様な膨らみを帯び始め、その拍動は、時計の針の音よりも重く、深く、部屋の隅々にまで響き渡るようになっていたのである。


あたかも、私の肉体そのものが、何らかの巨大な存在を受け入れるための器として、刻一刻と造り替えられているかのように感じていた。


四日目、暗黒的な強大な恐怖が、その鎌首をもたげる運命の日となった。


心地よい、しかしどこか生物的な肉の軋みと疲れを感じながら、私は蔵の奥底を漁っていた。埃に塗れた巨箱があった。訓練器具と書かれた大きな箱。それをどけた瞬間、そこには人類を拒絶するような暗黒の地下室が口を開けていたのである。


明かりを向けた刹那、私は眩暈に襲われた。そこにあるのは単なる地下室ではない。それは、地球平面説の果て、世界の縁から覗き込む、底なしの闇の大瀑布であった。永遠に続く闇の奔流。その混沌の深淵に蠢く、悪夢を体現したかのような闇影が、私の網膜を焼いた。


私は恐怖のあまり、手にしていた明かりを落とした。光は冷酷な現実を照らし出し、そこには朽ち果てた梯子が、地獄への階段のごとく伸びていた。


しかし、深淵は贖えない蠱惑的な誘惑を漂わせていた。


私は誘われるままに、ひやりとする湿った小部屋へと降り立った。壁面はなだらかに波打ち、自然石を削り出した冒涜的な、ところどころに黒ずんだ生物的な皮膚を思わせる質感が滲み出している。


そして、部屋の中央。そこに、それは存在していた。


漆黒に光り輝く、巨大なモノリス。


それは、人智を超えた宗教的礼拝の対象であるかに感じた。表面には梵字、楔文字、象形文字が入り乱れ、狂気的なアスキーアートのごとき手法で歪な絵が構成されていた。


描かれていたのは、ひれ伏す群衆に囲まれた、巨大な魚人の王。その巨躯が掲げているのは、一瞬バーベルに見えたが仏教の三鈷杵のごとき三叉の鉤爪を備えた、重力の摂理を嘲笑う鋼鉄の神器のの様なものであった。


そして、この世のものではない咆哮を聞いた。何故かはわからないがあれはモノリスに刻まれた魚人の咆哮であると確信していた。


その時、空間の組成が変質した。


重たい水底のような空気感が私を圧迫し、腐敗した死魚の悪臭が肺腑を刺す。モノリスの碑文が、まるで生きた肉のように蠢き始めたのだ。石の表面から、あの三叉の鉤爪を備えた「青黒い腕」が、ゆっくりと、しかし確実に私を捕らえんと伸びてくる!


「逃げねば……」


脳裏に直感的に浮かんだ言葉を思わず口走る。


だが、私の身体は金縛りにあったかの如く硬直した。手からは力が失われ、明かりは消えた。暗黒の中で、暗闇の抱擁が迫る。その時である。


「己の上腕二頭筋を信じぬのか?」


脳内に直接、雷鳴のごとき怒号が響いた。それは、前日に限界まで痛めつけられた筋繊維たちの、怨嗟と鼓舞が入り混じった咆哮であった。


部屋に充満する青緑色の瘴気が渦を巻き、天井には、神話的なバルクを誇る巨大なマッチョの貌が上半身が浮かび上がる。


「見よ! このままではお前は、魂を削り鍛え上げた大胸筋も、広背筋も、大腿四頭筋さえも、あの魚人どもの贄として失うことになるのだ!」


その瞬間、私は見た。青緑の霧が凝集し、実体を持った虚空のバーベルへと変貌するのを。私は見えない鋼鉄を握りしめ、モノリスから伸びる邪悪な腕へと、その重量を叩きつけた。


「思い出せ……重力に抗う真なる神のチカラを。肉の震えを!! そして顕現せよ!! 命の輝きを!  POWER!!!!!」


その重力に逆らうことさえ許さぬ圧倒的な圧に、異形の腕はモノリスの中へと押し戻され、霧散した。


沸き起こる原初の力。私はハシゴを、あたかも獲物を追う捕食者の如き速さで駆け上がった。背後から感じる、モノリスの執拗な引力。しかし、私の大胸筋が、背筋が、爆発的な振動をもって、それを拒絶した。


外の光に触れた瞬間、私の意識は暗転した。


気がつくと、案内人に激しく揺さぶられていた。


「お若いの! しっかりしろ! 大丈夫か?」


彼は、地下室には芋があってな。恐らく悪いガスでも出たのだろうと言う、憐れむような目で見て言った。私が目撃したあの黒光りするモノリスも、魚人の王も、すべてはイモの貯蔵庫に溜まったガスの幻覚だと言い捨てて。


だが、私は知っている。病院のベッドに横たわりながら、自分の二の腕を見つめる。

そこには、ガスによる幻覚では説明のつかない、鋼のように硬く、異様な脈動を繰り返す己の筋肉、密かに、確実に答えていた。あれは幻覚などではない。


しかし、脳はあれは本当に幻覚だったのかという問いを繰り返す。


では、私の喉に残る、あの青緑色のプロテインの甘美なまでの生臭さは、一体何なのだ?


窓の外、遠く離れた海の方角から、再びあの深遠なる湿った冷気と邪気が忍び寄ってくるのを感じ気がした。


打ち消せぬ不安と戦うべく、私は看護師に懇願して紙とペンを入手した。そして、発狂寸前の激情を込め、この手記を殴り書き始めたのである。一時はガスの幻覚だと自らを欺いたが、いや、違うのだ。 あの体験は、まごうことなき現実であったと、私の狂おしいほどの理性が叫びを上げていたのだ。

ああ、感じよ! あの深淵を覗き込んだ者の末路を。私の理性が砕け散る音は、蔵の地下で聞いたあの忌まわしき咆哮と同じ響きを湛えているのだ。


ああ、私のペンを握るこの指の節々が、もはや自分自身のものとは思えぬほどの異様な律動を刻み始めている。書き残さねばならない。あの忌まわしき漁村の蔵の暗がりのなかで、私の身に何が起きたのかを。


しかし、疲弊した身体は私を裏切る。気がつけば、私は再び夢魔の領域へと引きずり込まれていた。鉛のように重い身体は、自らの意思を失い、闇の底へと沈んでいく。


これは悪夢だ。


見渡す限りの漆黒の海中。その中、砂浜の海底に、あの忌まわしきモノリスが、深海の幽光を帯びて微かに輝いている。


そして、その表面から、深海からゆっくりと浮上する巨大な生物のように、あの鱗に覆われた、ぬめぬめとした魚人の腕が、私を捕らえんと伸びてくる。耐え難い生臭さが、夢の中の鼻腔を激しく襲った。


あれは太古の魚人どもを崇める、冒涜的な神格的偶像なのだ。


私の脳裏に、かつてない確信が閃く。あの深淵を覗き込んだ者は、もはや逃れる術はない。脳髄に刻み込まれた恐怖そのものが、奴らをこの次元へと呼び寄せるのだ。


助けてくれ。


私は声にならない呻きを上げた。しかし、私の肉体は、もはや恐怖に震えるばかり。かつて私を救ったはずの筋肉は、その強固な輝きを失い、ただの醜悪な惰弱な肉塊と化していた。


私は怯え弱り果てた人間だ。もはや終わりだ。


理屈の介在を許さぬ絶対的な真理が、私の精神を蹂躙する。私を引きずりこもうとする巨大な魚人の腕は、ゆっくりと、しかし容赦なく近づいてくる。その生臭い息吹が、海中だというのに私の皮膚を撫でる。

私はただ、迫り来る暗黒に怯え、世界が、私の存在そのものが深淵へと飲み込まれるのを待つばかりであった。


その刹那。


私の背後、闇の奥底から、微かな音が聞こえた。


ドアを叩く音か? いや、違う。


振り返ると、そこには窓があった。


病室の窓。月明かりが、弱々しく、しかし確かに差し込んでいる。そして、その薄闇の中に、鈍く光る金属の輝きが見えた。


あれは?


バーベルだ。


私の喉から、枯れたはずの声が迸った。ああ、私の神よ! 筋肉の神よ! 私を救う、光の筋肉よ!


「筋神よ! 救い給え! 筋繊維は裏切らない! 私を裏切らせない!」


私は狂乱の中で、闇の中で蠢き、まるで何かに憑かれたかのように腕立て伏せを始めた。


唸る大胸筋に、すべての意識を集中させる。脈打つ筋肉の律動が、私の肉体に再び熱を取り戻していく。


闇を切り裂くような煌めきを帯びた筋肉が震る。それは私の精神に活力を与え、深淵の恐怖的存在を遠ざける。


そして、窓の外。


あの月明かりの中、バーベルが! バーベルが、激しく窓を打ち叩いている。


ガラスが軋む音が、私の魂に希望の歌を響かせた。


闇の境界を打ち破ろうとする、鋼鉄の光がそこにある!


闇と光の境界が砕け散る。


ああ、窓が! 窓が!


筋肉でゴリ押しするパワフルな探索者がいてもいいかなと思いました

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