いらない物、捨てた物
部屋にあったぬいぐるみが捨てられる。無造作にゴミ袋に詰められていくそれらを見て悲しい気持ちになっても私は母を止める事は出来なかった。
「大人になったんだからいらないわよね? 埃被って汚いし捨てちゃっても良いわよね?」
私は「うん」と頷いてしまった。もうぬいぐるみが欲しいと思う歳ではないのは母の言う通りであり、ただ無造作に置いてあるだけなので埃を被っているのも確かだった。
だから「いらない物」と言われたら、私にはいらない物だった。なくても良い存在だと思った。
しかし、ゴミ箱に詰められていくぬいぐるみを見ていると無性に悲しく母の手を止めたい気持ちに駆られる。でも、なぜ悲しいのか分からず、埃を被っていただけの物にかける感情ではないと考えてしまう。
どのぬいぐるみも可愛いと思って母か父にねだって買って貰い、最初こそ頭を撫でたり一緒に寝たりすることもあったが、すぐに部屋の置物と化していた。
ただのインテリアとなったそれらはろくに手入れをしない為に埃を被り汚いなりに成るのも当然で、それを見た母が私の部屋に来るたびに小言を言っていたのを聞いている。
最後の一匹が捨てられる時、たまたま顔がこちらを向いており、目が合った気がした。しかし、一瞬ですぐにゴミ袋へと詰められていく。
ギシギシに詰められたゴミ袋を持って母が何もなくなったぬいぐるみの棚を見て嘆息してから部屋を出ていく。
私も綺麗になった部屋の棚を見てため息を一つ。今から彼らは捨てられるんだと思うとせつない気持ちになる。
思えば私の部屋はどんどん物が少なくなり綺麗になっていっている。ランドセルや教科書、よく使っていた文房具や、キラキラのシール。母が少しずつ捨てていった私の部屋にある私物達。
いつも「もういらないわよね?」と尋ねる母は私に尋ね、私はそれに頷いた。
そして無造作にゴミ袋に捨てられていく物を見て私はやはり悲しくなっていた。私にとって本当にいらない物であるのに、それらが捨てられると私の心は暗く沈んでいった。
ぬいぐるみが捨てられ更に物がなくなった部屋に残ったのは、勉強机や椅子にベッド、そしてぬいぐるみが入っていた棚だけとなっていた。
他にも小物がチラホラと見えるが、もうここが誰の部屋なのか分からない程、何もない。机や棚に貼られた可愛らしいシールの主張がギリギリ女の子の部屋である事を告げているが、私の部屋だと言うにはあまりにも物がなく情報がなかった。
いや、一つだけ私の部屋である事が分かる物がまだ机の上にまだ残っていた。
赤いランドセルを背負った私と今よりも若い母と父が並んだ写真であった。それは家族で撮った最後の写真であった。嬉しそうにランドセルをカメラに向ける私もそれを見守る母も、そして父も幸せそうな表情を浮かべている。
「もういらないわよね?」と言ってこの写真をゴミ袋に捨てる母の姿を私は思い浮かべる。その様子は悲しみを通り越し、絶望に近い感情を湧き立てる。
それでもきっと私は今まで通りに頷くだろうと思った。それだけは私に取っては「いらない物」じゃないとしても、母にとっては「いらない物」なのだろうから。
私がここで生きた証は母にとって「いらない物」で捨てたい物なのだ。
そう、ぬいぐるみが捨てられる事が私は悲しいのではない。「死んだ」私の記憶を母が「いらない物」として捨てようとしているのが悲しいのだった。
10年くらい前に車との事故で死ぬと、私が存在した証を母は部屋から少しずつ捨てていった。
「もういらないわよね?」
と私に問いかけるように。
それは私の事を思い出したくないから捨てると言う本心を自覚しないように、私には必要ないからと言う理由を付けたいのだと思った。
少しずつ年月を重ねて捨てていくのも一度に捨てる程の覚悟がないからのように思えた。そんな非常な母親になれないからだと。
だから私にはもう必要ないと言って、高学年の歳のころに可愛らしい文房具やキラキラのシールを捨て、中学に上がる歳の頃に教科書やランドセルを捨て、大きくなった今になってぬいぐるみを捨てようとしたのだろうと思えた。
部屋の様子を見に来るたびに「もういらないかしら」「埃を被って汚くなってきたわね」と母は呟いていた。それは早く捨ててしまいたいと言う欲求の現れのように思えて悲しくなった。
そして、ついに決意した母は「もういらないわよね?」と私に問いかけるように言ってぬいぐるみを捨てたのであった。
私がどれだけ悲しくても頷くしかない。母が「いらない物」だと言うのなら受け入れるしかない。
そもそも、死んだ私に出来る事なんてないのだ。
ただ苦しそうに「もういらないわよね?」と問う母の気が少しでも楽になれたらと、それは私にも「いらない物」だと頷いて見せるのだった。
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