キミが心配なんだ
「芦川さんのこと、好きなんだ。付き合ってほしい」
放課後に時間があるかと聞かれ、空き教室に呼び出された時。まさか告白なんてことはないだろうと思いつつも、全く期待していないと言ったら嘘だった。高校二年の春。放課後。呼び出し。こんなシチュエーション、期待しないなんて無理だ。でも、相手はあの霧ヶ谷くんだ。私に告白なんてするわけがない。ちゃんと会話したことなんて一度しかない。つまり現実的に考えて、これは告白の呼び出しではなく、他になにか伝えたいことがあるのだろう。と、分不相応な希望を抱いてしまった自分を律していた。
それなのに、まさか、本当に告白してもらえるなんて。
「ええと、その、私でいいの?」
「え?なんで?」
「だってほら、霧ヶ谷くんってその……女の子に人気でしょ?私なんかが釣り合うのかなって」
見た目も良くて勉強もスポーツもできる完璧すぎる霧ヶ谷真琴くん。しかも誰にでも優しくて、スマートで、女の子たちに人気なのはもちろん、霧ヶ谷くんを悪く言う人を見たことがない。雲の上どころか遠巻きに見てるだけでも眩しくて目が潰れてしまいそうなほどの存在。引け目を感じない人なんているのだろうか。
今だって、もう放課後なのに髪も顔も崩れているところなんてひとつもない。クラスの男子たちが汗の臭いにまみれている中、霧ヶ谷くんからは爽やかな香りすら漂っている。キラキラと輝いていて、少女漫画の男の子みたいだ。
「よくわからないけど、僕は他の誰でもなく芦川さんが好きなんだ。だから、むしろ僕の方こそ釣り合うのかなって……だめ、かな」
「駄目じゃない、駄目なわけないよ!」
「ほんと?」
霧ヶ谷くんは自信無さげに私の顔を窺う。こうして当たり前のように謙虚なところもずるい。自分の容姿や出来るところを鼻にかけることもなく、傲慢に振舞うこともなく。どこまで完璧なんだろう。どうしてもこの状況に現実感が湧かなくて、頭にモヤが掛かったみたいだ。でも、なぜ、こんな人が私を好きになるのだろう。
なんとなく付き合って、三日や数日で別れたり、付き合った二人が進展もなくいつの間にか別れていたり、そういう付き合い方をする同級生もも沢山いた。きっと霧ヶ谷くんにとって私は何かが丁度良くて、なんとなくそういう気分になれる相手なのかもしれない。短くて儚い青春のお供に選ばれたのなら、光栄なことだ。ミーハー気質な私も、こんな人と付き合えるなんて一生に一度あるかないかだろうと喜ばしい気持ちになる。
「うん……なんか、夢みたい。私なんかが霧ヶ谷くんと付き合えるなんて」
「そんな言い方しないでよ。僕は芦川さんのこと世界で1番好きなんだから」
「そ、そんな、恥ずかしいよ」
簡単にそんなことが言えてしまうのはイケメンの特権なのかもしれない。私、今、絶対に顔が赤くなってる。顔を冷やそうと手で覆っても、私の手も熱を帯びていてなんの意味も無かった。パタパタと手で顔を仰ぐけれど、焼け石に水だ。下がってくれない体温に困っていると、霧ヶ谷くんが声を出して笑った。
「あはは。慣れてないところも可愛いけど、僕、結構こういうこと素直に言っちゃうと思うから」
「がんばって慣れます……」
「うん。やっぱりかわいい」
「む、むり!まだむりです!」
「はは。ゆっくり慣れていこうね」
「うん……」
霧ヶ谷くんの手が私の手に触れる。線の細い印象があるけれど、霧ヶ谷くんの手は大きくて骨ばっていて、遠い存在だった霧ヶ谷くんを男の人として強く意識してしまう。そうしてどきどきしている間にも、霧ヶ谷くんは私の指に指を絡めて繋げていた。急な距離感の詰め方に驚きながらも、溢れる熱が霧ヶ谷くんに伝わってしまう羞恥に顔を伏せる。
「ねぇ、みはるちゃんって呼んでもいいかな」
彼の指がすり、と私の手の甲を撫でた。
「うん……じゃあわたしも、真琴くんって、呼ぶね……?」
「嬉しい、すごく」
顔を見上げれば、目尻を下げて赤らめた顔で笑っていた。彼でも顔を赤らめることがあるんだと、他人事のように思ってしまう。いつでも余裕があってかっこいい彼が、照れて笑うところを見ることができるなんて、しかもそれが自分に向けられていると思うと、感じたことのない多幸感でいっぱいになった。
「みはるちゃんは、このあと予定ある?」
「ないよ?」
「じゃあさ、ちょっと寄り道して帰ろうよ」
「うん、いいよ」
「初めてのデートだね、嬉しいな」
「私も」
素直に全て言葉にする真琴くんに照れくさくなってくすくすと笑っていると、つられたように彼もくすくすと笑った。
初デートに相応しい場所かどうかは分からないけれど、駅ナカで雑貨店を見て回り、少し高いカフェでお茶をすることにした。頼んだ飲み物が揃うと、彼はいそいそとスマホを取り出す。
「実は友達にみはるちゃんのアカウント教えて貰ってたんだけど、なんか恥ずかしくて何も送れなくてさ……送ってもいい?」
「もちろん!真琴くんでもそんな風に思うんだね」
「だってみはるちゃんに嫌われたくなかったから……みはるちゃん僕のことなんだと思ってる?」
そういって真琴くんがおどけるから、つい笑ってしまう。
「ふふ。そんなことで嫌わないから、いっぱい送ってよ」
「良かった」
通知音と共に、可愛らしい猫のスタンプが送られてきた。真琴くん、こんなスタンプ使うんだ。かわいい。普段はふざけたスタンプばかり使うのに、なんとなく私も可愛らしい動物のキャラクターを選んだ。気の抜けた笑顔を零す真琴くんを見て、私まで嬉しくなってしまう。告白してもらった時に感じていた緊張もほぐれて、真琴くんとの会話は心地よくて楽しいものだった。気が付いたら外は電灯の明かりで照らされている。私たちは慌ててカフェを出て帰路につくことにした。
帰るのが遅くなってしまった。家族も帰りが遅くなると言っていたから大丈夫だろうか。真琴くんは家まで送ると言ってくれたけど、彼氏が出来たことも、その彼氏がこんなにかっこいいことも、家族に知られたらからかわれる気がして気恥ずかしくて、駅でお別れした。「」帰ったら連絡してね」なんて言ってくれて、彼氏っぽいなと少し照れてしまった。でも、真琴くんと最寄りが同じだなんて、知らなかったな。
駅から暫く歩いて、我が家が見えてきた。既に電気がついている。どうやら家族はもう帰宅しているようだ。
「おかえり」
「お兄ちゃんただいま」
出迎えてくれた兄が、外をじっと見つめている。何かあるのだろうかと振り返っても特に何があるわけでもなかった。虫でもいたのだろうか。
「今日は遅かったな、何してたんだ?」
「えっと、友達と、ちょっと、遊んでた」
「ふうん。早く入れよ、寒いだろ」
兄が私の肩を優しく抱き、鍵とチェーンを閉めた。そして何度かドアノブをガチャガチャと回し、鍵を確かめているようだった。普段はそんなことしないのに。少し気にはなったけれど、夕飯に呼ぶお母さんの声が、そんな些細な気がかりを掻き消した。
目を覚ました時、全部夢だったらどうしよう。なんて思いながら眠りについたけれど、寝起きにスマホを確認したら真琴くんとのやり取りが確認できてこれは現実なんだと安心した。寝るまで続いた通話の履歴が少し照れくさい。朝から真琴くんは『おはよう』なんて可愛いスタンプを付けてくれていた。真琴くん、もうこの時間には起きてるんだ。
あの真琴くんの彼女になれたんだから、少しでも可愛く思ってもらえるようにといつもより時間をかけて支度をした。ちょっとは可愛くなっているかな。軽くかけた香水の匂いは、彼の好みに合っているだろうか。
「みはる、どうしたんだよ」
「へ?」
大学生で朝の遅い兄は、優雅にコーヒーを飲みながらソファーを占領してスマホを弄っていた。ご飯を食べるために急いでいると、突然兄が私を見て声を掛けてきた。
「いつもと違うじゃん」
「たまにはね」
「へえ」
彼氏ができたからなんてバレたら絶対からかわれる。言い訳が苦手な私は適当に流すしかなくて、兄からの痛いくらいの視線が刺さる。
「やめとけよ」
「えっ、変かな……」
「そうじゃなくて。悪い虫が寄るから」
「なにそれ」
「みはるが思ってる以上に男なんて気持ち悪い存在なんだからな」
兄はスマホに目を落としながら、どうでもよさそうな顔でそう言った。兄にとっては些細な言葉だったのだろう。けれど、私はなんだか真琴くんのことを悪く言われたような気がして、つい気が立ってしまった。そして思ってもいない言葉が口から飛び出していく。
「気持ち悪くないよ!お兄ちゃん嫌い」
「は?」
兄には意味の分からない癇癪だろう。謝らなければと頭では分かっているのに、身体は荷物を持って家から飛び出していた。勢いのまま飛び出てしまったせいで、せっかく作ってもらったお弁当を忘れてしまい、けれど取りに戻る気持ちにもなれない。既に出勤しているお母さんへごめんねの連絡をする。忘れたお弁当は夕飯にするとして、お昼はどうしようか。帰ったらお兄ちゃんに謝らなきゃ。憂鬱な気持ちで学校へ向かうことになった。
「みはるちゃん、今日すごく可愛いね」
出会って開口一番に、真琴くんが褒めてくれた。それだけで憂鬱な気分が晴れやかになった気がする。最寄り駅が同じことを知ったので、今日からは一緒に電車に乗って通学することになっていた。一緒に行こうと誘ってくれた真琴くんに感謝しなければ。
「えへへ、実はちょっと頑張った」
「……もしかして、勘違いだったら恥ずかしいんだけど、僕のためだったりする?」
「うん……だって、真琴くんに可愛いって思ってもらいたいから」
「可愛い、すごく。なんかいい匂いするし……ってキモいかな」
「嬉しいよ!私もこの香り好きなの」
「そっか。僕も好き」
撫でようと頭に伸ばされた手が、アレンジされた髪に触れることを躊躇うように下げられていった。簡単なものだから多少崩れても別にいいのに。何と言っても真琴くんに見てもらえて褒めてもらえて、目的は果たされたのだ。けれどもやり場をなくした手を寂しそうに下げた真琴くんが可愛くて、その優しさにまた胸がときめく。次は巻くくらいにしておこうかな。下げられた手に軽く触れると、驚かせてしまったのか大げさに肩が揺れた。真琴くんの顔が赤く染まっていて、楽しくなってしまった私はその手を強く握る。何かを言おうとして言い淀んで、真っ赤な顔で口をパクパクさせているのが可愛らしい。昨日はあんなに手を握ってきたのに、人から握られるのは慣れていないのかもしれない。
「みはるちゃん、ちょっと意地悪だね……?」
「ふふ。だって真琴くんが可愛いから」
手を繋いで笑いあう私たちは傍からみたら鬱陶しいカップルに見えるかもしれない。けれど朝の憂鬱を吹き飛ばすには、真琴くんの笑顔が効果的だと知ってしまったから、止められそうにない。今日からこれが見られるなんて贅沢な通学時間だな、なんて。
昼休みにスマホを覗くと、兄から連絡が来ていた。お弁当をわざわざ持ってきてくれたらしい。朝の私は酷い態度を取ってしまったのに。兄はいつもそうやって妹の私を気遣ってくれるから、すぐに甘えてしまいたくなる。
ちらりと窓から校門を見ると、兄が居心地悪そうにソワソワと立っていた。ひとりで妹の高校に来るなんて、楽しいものではないだろう。
もういっそのこと、からかわれてもいいから正直に話して謝ろう。
「ほら、昼飯。忘れてたぞ」
「うん。ありがとう。朝、ごめん。言い過ぎた」
「あー、いや。俺の方こそ」
ちらりと兄が私の後ろを見やる。何事かと振り返って視線を向けると、丁度私の教室の方だった。教室の窓から、真琴くんがこちらを見ている。目が合ったようで、軽く手を振ってくれた。緩んだ顔で手を振り返していると、兄が「何あれ」なんて言ってくるから咄嗟に友達だと返してしまった。素直に話そうと思ったのに。慌てて「お弁当ありがとう!」とだけ言い捨てて逃げようとしたけれど、兄が腕を掴んで止めた。
「本当に友達か?」
「とっ、友達!離して!」
その言葉で兄の手がパッと離れていく。そのまま走って教室に戻った。どうしてこんなにも素直に話せないのだろう。
「おかえり、みはるちゃん」
「あ、えっと、ただいま?」
「どうしたの?あの人、お兄さん?」
「う、うん。お弁当忘れちゃって、届けてくれた」
「そうなんだ。仲悪いの?」
「え?」
「なんか腕掴まれて振り払ってたように見えたから」
「それは……」
バレてからかわれるのが恥ずかしくて、なんて言ったら真琴くんにも失礼だ。上手い言い訳が浮かばなくて、適当にはぐらかして終わった。真琴くんも言いたくないことを察してくれたようで、すぐに話を変えてくれる。私は何をしているのだろう。
「あいつと付き合ってるんだろ?」
帰宅するなり、兄がそう口を開いた。あいつというのは多分、あの時手を振ってくれた真琴くんのことだろう。きっと揶揄われるのだろうと構えていると、兄は予想外の言葉を投げた。
「あいつは止めとけ」
「……は?意味わかんない。お兄ちゃんに言われる筋合い無い」
兄が私の選択をこうして否定するのは初めてだったかもしれない。叱ることはあっても、こんな風に頭ごなしに否定するなんて。つい怒りが先走って、私もまた強固な態度を取ってしまう。
「なんだよ。反抗期か?」
そう言って茶化すから、私は兄を無視して自室に戻った。釣り合ってないのなんて私が1番よく分かってる。私だって、素直に話そうと思ったのに。
それからしばらく、兄とは気まずい関係になってしまった。
あれからも真琴くんとは順調だ。学校では毎日一緒にいて、会えない日は必ず連絡をしてくれて、そしてなぜか、よくいろんな物をプレゼントしてくれる。順調ではあるけれど、それだけが気がかりだった。
「真琴くんってバイトしてるの?」
「ん?まあそんなところ」
「悪いよ、貰ってばかりで。私全然返せないしさ。お金だけじゃなくて、選ぶのも大変だろうし」
「僕が渡したくて渡してるだけだから。いらなかったら捨ててくれていいよ」
「そんな!いらなくなんてないけど」
かっこよくて、なんでもできる完璧な真琴くん。そんな人が、どうしてこんなに私にいろいろしてくれるんだろう。真琴くんの理想の恋人像、みたいなものなのだろうか?そんなことをしなくても、私も未来の彼の恋人たちも、きっと真琴くんのことを嫌いになったりしないのに。そう伝えたくても上手く伝えられない。真琴くんとのお付き合いで浮かれてばかりな自分がいる一方で、少し戸惑いも感じていた。
考えながら一口、クレープを頬張る。チラリと真琴くんを見ると、口元にクリームがついていた。基本的になんでも綺麗に食べる人だから、意外だなとつい笑ってしまう。
「ついてるよ、ここ」
「えっ……恥ずかしいな」
そう言って備え付けの紙ナプキンで口を拭った。そして恥ずかしそうに躊躇いながら話し出す。
「実はこういうかぶりつくタイプの食べ物、あんまり食べたことがなくて」
「そうなの?ハンバーガーとかも苦手?」
「あまり食べないかも。味は嫌いじゃないけど、食べるの難しくない?」
「ふふ。真琴くんにも苦手なことあるんだね。……もしかして私のためにクレープにしてくれた?真琴くんが好きなものでいいのに」
「だってみはるちゃん好きでしょ?みはるちゃんに楽しんで欲しいから。でも良かったよ。本当はほら、学校の近くにケーキが有名なカフェができたからさ、そこに行こうと思ってたんだけど。みはるちゃん昨日行ってたから変えたんだ」
「あれ、真琴くんに話したっけ?」
確かに昨日友達とそのお店に行ったけれど、真琴くんとはまだその話をしていなかったと思う。今まさに私がその話をしようとしたところだったから。
「ああ。みはるちゃんからは聞いてないけど、友達がそう話しててさ」
そういえば別の友達に朝その話をした気がする。なるほど確かにその友達は真琴くんの友達とも仲が良いし、その流れだろう。私がいない場所で私の話題が出ているというのは少し恥ずかしいけれど。
次は真琴くんが行きたいところに行きたい。そう伝えると、照れくさそうに笑っていた。
◇◆◇
「みはる」
久しぶりに話しかけてきた兄が、何を言うのかと思えばまた「あいつは止めとけ」なんて真剣な顔で言ってきた。何度言われたら良いのだろう。私だって、真琴くんがずっと私と付き合ってくれるなんて思っていない。いつかくるその時まで、楽しんだっていいじゃないか。こんな風に否定されるくらいなら、からかわれた方がよっぽどマシだった。
「なに。やめてって言ったよね、そういうの」
「兄ちゃんの言うこと聞けって。本当に、あいつだけはやめろ」
「お兄ちゃんの言うことなんて聞かない。意味わかんないし。そんなことばっか言うならもう話しかけないで」
「おい!みはる!」
それから私は、完全に兄を避けるようになった。
兄と話さなくなってから数日。真琴くんが神妙な顔で「ちょっと僕たち距離を置こうか」と話した。ああ、ついにこの時が来てしまった。ついに私に飽きてしまったのか。私を選ぶという気の迷いから目が覚めてしまったのか。それとも他に好きな子ができたのだろうか。分かっていたはずなのに、私だって青春のイベントだと思っていたはずなのに。本当にこの時がくると、こんなにも悲しくて淋しく感じるんだ。
楽しかったな、夢みたいな時間だった。なんでもできる真琴くんが実はちょっとクレープを食べるのが下手なところ、可愛かったな。いつもストレートに好意を伝えてくれるのに、私が頑張って積極的に手を繋いだりすると赤くなってどうしたらいいか分からなくなってるところも。
「うん……ありがとう、楽しかったよ」
「……みはるちゃんにとっては、僕ってやっぱり怖かった、よね。僕ばっかり好きで、プレゼントも、気持ち悪かったよね」
「え?そんなことないよ!嬉しかった。怖いとか気持ち悪いとか思ったことないよ」
「そうなの?」
「ごめん、私が何か勘違いさせちゃった?」
「……いや、そうじゃないんだけど。お兄さんが」
「お兄ちゃん?」
「この間会ったんだけど、みはるちゃんが怖がってるって。僕、気持ち悪い、って」
「そ、そんな!そんなこと私言ったこと無い!知らなかった、お兄ちゃんがそんなことしてるなんて……。最近全然お兄ちゃんと話してないし……な、なんなのそれ」
「……ほんとに?みはるちゃん、僕のこと嫌ってない?」
「好きだよ!」
真琴くんが、大きな瞳からポロポロと涙を落としていく。彼の泣き顔なんて、初めて見た。
「あ、えっと、真琴くん」
「初めて、初めて……みはるちゃんに好きって言ってもらえた」
「そう、だっけ」
「うん。大丈夫、わかってる。みはるちゃんは僕のこと、ちょっと付き合ってみようくらいにしか思ってなかったよね。でも僕はそれでも良かったんだ。だって、好きだから。チャンスだと思った。でも、みはるちゃんに嫌われてしまうのは、それは絶対、イヤだから。でも、そうじゃないなら……もう少し、僕にチャンスくれるかな」
痛いほどの愛が、私の心臓を貫いていく。知らなかった。こんなにも想っていてくれたのに、私は真琴くんへ引け目ばかり感じて気の迷いだと決め付けて、青春のイベントだなんて誤魔化していた。それなのに、彼はそれでも健気に私を思い続けてくれる。悪いのは、兄だけではない。私がもっとちゃんと真琴くんと向き合って、言葉を伝えていたら、真琴くんがこんなにも傷付くことなんてなかったんだ。
「うん。うん……ごめん、ごめんね。私、真琴くんに、ちゃんと向き合ってなかった。真琴くんが私のこと好きだなんて、一時の気の迷いだろうってそう思ってた。でも、ごめん。泣かせる気はなかったのに、こんなに好きでいてくれたのに私……私、もっと真琴くんのこと知りたい。もっともっと真琴くんのことを沢山好きになって、真琴くんを泣かせない女になりたい。私の方こそ、チャンスもらいたい」
「あは、はは。みはるちゃん、本当に好き。かわいい。大好き。愛してる。ずっとずっと大好き」
涙を流しながら笑う真琴くんが、ぎゅうと私を抱きしめる。嬉しそうに溢れる吐息が私の首をくすぐった。
「くすぐったいよ……私も、好き。真琴くんのこと、好きだよ。……だから、本当に、ごめん。私も、お兄ちゃんのことも」
「……きっと、お兄さんもみはるちゃんが心配だったんじゃないかな」
「知らない。お兄ちゃんが何考えてても関係ないよ。嘘ついて真琴くんを傷付けたことはちゃんと謝らせたい」
「みはるちゃん……」
「お兄ちゃんのことは私が解決するから。お兄ちゃんの言葉なんて気にしないで。絶対謝らせるから」
「ふふ、いいよ、そんなの。みはるちゃんが僕のこと好きって言ってくれるだけで十分すぎるから」
「もう」
どうして真琴くんはいつもこうして謙虚なのだろう。もっと文句を言ってくれていいのに。それでも、真琴くんが許したって、ちゃんと直接謝ってもらいたい。しばらく話していない兄とも、しっかり向き合わなければいけない。そう決意して、私は兄へ対峙することにした。
「真琴くんから聞いた」
リビングのソファーを占領してスマホを操作している兄へ、真琴くんから聞いた話を伝える。どうしてそんな嘘をついたのか、一体何がしたいのか。聞いた所で納得できるとは思えないけれど、兄の口から聞きたかった。そして、真琴くんにちゃんと謝って欲しい。
「俺は嘘をついたわけじゃない」
「なに誤魔化そうとしてるの」
「俺は、『お前の気持ち悪い本性を知ったら、みはるは怖がるに決まってる』って言っただけだ。綺麗に切り取ったな」
「は?意味わかんない」
「鞄貸せ」
兄は溜息を吐きながら、私の鞄を奪い取った。
「ちょっと!」
奪い返そうとするも、体格差で敵わない。ふざけるなと怒鳴りそうになったところで、私の鞄からペンが出てきた。一見何の変哲もないペン。けれど見覚えがなくて、もしかしたら誰かの物が紛れこんだのだろうか。
「これカメラな」
「……え?」
ペンを近付けてよくよく見ると、確かに不審な穴が開いていて、そこにはカメラのレンズのようなものがあった。
「こっちは盗聴器だな」
ころり、と小型の丸い機械がテーブルの上に転がる。さらに兄は鞄についていたぬいぐるみのようなキーホルダーを手に取った。唐突に棚からハサミを取り出して、キーホルダーに刃を入れようとする。「やめてよ!」と止めようとするも、「必要なことだから」と容赦無く切り裂いた。中からは先程の盗聴器と同じもの、それから似たような丸い形状のカメラのような物が出てきた。
「ま、待ってよ。このキーホルダー、真琴くんは関係ない。真琴くんと付き合うよりずっと前から持ってるもん」
「すり替えられた可能性は?」
「そ、れは……そんなこと、する必要ないし……」
兄は何も返さず、複数の丸い小物をテーブルに置いた。全て私の部屋にあったという。いくつあるのか、両手では収まらないほどの数だ。数えたくもない。
「な、なにこれ」
「あいつが仕掛けた物だ」
「証拠がないでしょ。なんで真琴くんになるの」
「他に誰がいるんだよ。まあいいけど」
兄はスマホを操作して、写真を見せてくる。それは、この家に来たことのない真琴くんが、知るはずもない真琴くんが、我が家に、私の部屋にいて、この機械を持っている写真。それから、このカメラを私の部屋の机に配置している写真。
事実を確かめるべく、兄と一緒に私の部屋へ行って机を見る。震える手で写真の位置を探すと、カメラが出てきた。リビングに戻って他と比較すれば、確かに他のカメラも全く同じ型のものだった。つまり、これら全て――
「うそ……」
「偶然を装ってカメラの方向を変えた。アイツ、まんまとカメラの位置を戻しに来たよ。どうしてもみはるの顔は映したいらしい。気持ち悪い奴だ。どうせ今もその盗聴器で聞いてる」
「そんな、わけ、な」
通話の通知音が鳴り響く。相手は真琴くんだった。うそだ、そんな、まさか。
「出るぞ」
「ま、待って。何かの偶然かもしれないじゃん。私が出る」
もし何かの間違いだったら、私はまた真琴くんを傷付けることになる。それだけは、嫌だ。恐る恐る通話ボタンをタップした。
「みはるちゃん?」
「……真琴くん、どうしたの?」
「どうしたのって、用があるのはそっちでしょ?お兄さん」
真琴くんの言葉に、兄が舌打ちをする。未だに頭が追いついていない私は、再び、縋るように真琴くんの名前を呼んだ。
「真琴、くん……?」
「安心して、みはるちゃん。これは悪意があってやったわけじゃないんだ。その逆で、みはるちゃんのことが心配だったんだよ。好きな子のことは全部知りたいしさ。みはるちゃんも分かるよね。それになんかお兄さんは超過保護な感じだし、妹に手出してないかな?とか心配で」
「ぶっ殺すぞ」
「お兄さんこわっ。大丈夫?みはるちゃん。僕、心配だよ。迎えに行くから待っててね」
そこで通話が途切れた。呆然としていると、兄が気遣うように声を掛けてくる。
「みはる、兄ちゃんがいるから心配するな」
「な、なんなの……何が起きてるの」
「だから言っただろ、あいつは止めとけって」
真琴くんが、来る。父は長いこと出張で、母は「今日は仕事で帰れない」と今朝話していたことをふと思い出す。どうして。だって、真琴くんは彼氏だから、別に私の家に来たって不思議じゃない。いや、でも、私、家の場所、まだ教えてない。
ピンポン。インターホンの無機質な音が鳴った。
引かれるように玄関へ向かおうすると、兄に後ろから抱きしめられて止められた。
「え?」
気が付くと足に違和感がある。足枷のような何かが付けられており、それには長い鎖が付いていた。どうして、なぜ、これは一体、何。
「みはる、大丈夫。お前はずっとここにいればいい。みはるは昔から、ああいうのにすぐ好かれるんだから。もう危ないことはやめような。家の中が1番安心だ。ずっと一緒に、この家にいよう」
混乱する頭が理解を拒む。久しぶりに、兄の穏やかな声を聞いた気がする。私はただ呆然と、その場に立ち尽くしていた。
いつまでそうしていただろうか。微かに物音がした。何かの割れるような、けれど大袈裟な音ではない。そして不意に、頬へ冷たい風が流れた。ベランダの窓を見ると、カーテンが揺れている。閉じていたはずの窓が開け放たれていた。カーテンの奥に、人影が見える。
「みはるちゃん、大丈夫。助けに来たよ。そんな怖いお兄さんと居たら駄目だよ。僕と一緒に逃げてずっと一緒に暮らそう」
真琴くんは、いつも通りの完璧な笑顔を浮かべていた。