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水界の縁〜虐げられた乙女は水神の慈愛に絆される〜  作者: 猫屋ちゃき


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第四話

 あれから夜になっても菊代の体調は戻らず、気落ちしたままだった。おそらく、櫛をなくして塞ぎ込んでいるのだけが理由ではない。離れの廊下を覆っていた黒い靄や、寿々を避けていった怪しげな黒いものたちの影響もあるに違いない。

 菊代にはよく休むよう言い聞かせ、他の使用人たちにも事情を説明しておいた。万が一明日も調子が悪くても、何とか分担して仕事を回すことができるだろう。

 だが、それでは問題の解決にはならない。櫛の行方がはっきりしない限り、菊代はずっと気に病むだろう。

 だから、早く元気になってもらうためにも、櫛を見つけてやりたかった。

 そのために頼れる相手は現実世界におらず、寿々は祈るような気持ちで眠りについた。

 今夜はスミに会えますように、と。いつも優しくしてくれる彼なら、寿々の力になってくれるかもしれないと思って。

 その祈りが通じたのか、眠りに落ちると真っ白な霧がかかっていた。彼がいる場所だとわかり、嬉しくなる。


「スミさん」

『寿々か』


 名前を呼ぶと霧が晴れ、その向こうから彼が現れる。相変わらず美しく、神秘的な姿をしている。

 彼の穏やかな顔を見たら沈んでいた気持ちが少し元気になったが、すぐに問題を思い出した。


『寿々、何か心配ごとがあるのか?』


 そっと寿々の眉間の皺を撫で、スミが尋ねてきた。不思議な存在の彼は、やはり寿々のことにすぐ気がついてくれた。


「それが……私の友人が大切なものをなくしてしまい、そのせいで体調を崩してしまったのです」

『だから、寿々も元気がないのだな。友人のことをそれだけ大切に思っているのか』

「はい。……友人と言いましたが、私にとっては姉のような人なのです」


 スミなら寿々の気持ちをわかってくれそうな気がして、菊代のことを話した。

 寿々にとってどれだけ菊代が大切なのかということも、彼女の失くしものを見つけてあげたいという気持ちも、他の誰かに話してもきっと理解されないだろう。

 水守家でのつらい境遇の中であっても生きてこられたのは、菊代の存在があったからだ。


『そうか。その人がつらいと、寿々もつらいのだな』

「そうです。早く元気になってほしいですし、何よりずっと悲しい気持ちのままでいさせたくないので」

『そなたは、やはり清い水のように心地よい乙女だな。そなたの憂いをはらってやるのも、われの務め。——どれ、見てやろう』


 スミは慰めるように寿々の髪を撫でてから、おもむろに袖口から何かを取り出した。丸い、金属を磨いた板のように見える。


「それは、何ですか?」

『鏡だよ。これで失せ物の行方を見てやろう。失せ物探しはわれの特技だ』


 そう言って、スミは手元の鏡を覗き込んでいる。

 隣で寿々も覗き込んでみるが、そこに何かを見出すことはできない。ただ、よく磨かれた金属の表面が輝き、薄く自分とスミの姿が映っているのが見えるだけだ。

 だが、彼の目には何かが見えているらしい。じっと見つめる彼は、徐々に難しい顔をするようになっていった。


『その櫛はもしかしたら、身代わりに差し出されたのかもしれぬな』

「え? 身代わりって……?」


 彼の口から出た不穏な言葉に、胸がざわりとする。やはり何かよくないことが起きているのだということは、理解できてしまった。


『これは、一筋縄では取り戻すことはできないだろう。だが、取り戻さねば持ち主も危ない』

「え……」


 不吉な予言めいた言葉に、寿々はますます不安になる。その不安を感じ取ったのか、スミは鏡をしまって、そっと抱きしめてくれた。


『そなたの近くに、良からぬものと縁を結んだ者がおる。その影響だな』

「良からぬもの……」

『恐れるな。こういったものと向き合うとき、恐れの心が何よりまずい。それに、寿々はわれと縁づいておる。われとの縁が、そなたを必ず守るだろう』


 結ばれた縁を強めるかのように、スミは寿々に口づけた。触れ合った場所から、力がみなぎってくるようだ。

 彼の纏う澄んだ空気に似た何かが体に入り込んでくるのを感じる。それが体を満たすにつれて、先ほどまで胸を占めていた不安や恐れが、霧が晴れるように消え去っていくのがわかる。

 それとは反対に、視界は白くなっていく。目覚めの時間だ。


「……菊代さん」


 恐れも不安もなくなって爽やかな目覚めだと思いたかったが、覚醒するとすぐに、菊代の問題を思い出した。

 スミの言葉を信じるならば、今彼女は非常に危険な状態にあると言えるだろう。

 明かり窓からはまだ光が射さず、外が暗いのがわかる。もしかしたらまだ目覚めていないかもしれないが、起きてくるまで待ってもいいのだろうかと寿々は躊躇(ためら)った。

 昨日体調が悪かったのだ。無事に起きられたかどうか確かめに来たと言えば問題ないと考え、ひとまず着替えて部屋を出た。

 今日は天気が悪いのか、部屋の外に出ても暗い。それに、どことなく湿って淀んだ空気が満ちているようで、気がつくと鳥肌が立っていた。

 あのときと同じだ。菊代の様子を見に行こうと廊下を進むとき、厭な気配を感じて怖気がした。

 だが、昨日と違うのは、今このあたりに満ちているものは少しも寿々に干渉できないということだ。避けたり霧散したりする間もなく、寿々が進めば禍々しい気配がなくなる。

 まるで清浄な水の膜でも纏って歩いているようだと気がついて、その意味がわかった。


(これが、スミさんの言っていたものなのね)


 彼は、自分との縁が寿々を守ると言っていた。その言葉の通り、禍々しい気配から守ってくれているようだ。

 その事実に勇気づけられた寿々は、菊代の部屋に向かった。また昨日の黒い蛇のようなものがいたらどうしようかと思ったが、いなかった。寿々の纏う清浄な気配に、逃げ出しただけかもしれないが。


「菊代さん、入るわね」


 そっと(ふすま)越しに声をかけると、ひゅっと息を呑むのが聞こえた。怖がらせてはいけないと思い、急ぎ襖を開けて顔を見せる。

 菊代は、布団の上に体を起こしていた。無事に目覚められたのだとほっとしたかったものの、掛け布団を頭から被ってこちらの様子を伺っているのは、尋常ではない。

 ひと目で、何かあったのだとわかった。


「どうしたの、菊代さん……寒気がするの?」


 違うとわかっていても、何と声をかけたらいいのかわからなかった。震えてはいるが、おそらく寒いからではないのだろう。

 昨日よりさらに血の気の引いた顔で、目を潤ませ、菊代は震えていた。消沈しているのではなく、あきらかに何かに怯えている。


「……お、お……恐ろしい夢を、見てしまって……」

「それで、眠れなかったのね……」

「私……きっともうすぐ、化け物に捕まって食べられてしまうのだわ……!」


 なだめようとする寿々を振り切り、菊代は悲鳴のように言ってから被った布団の前をかき合わせた。そうしなければまるで、その〝化け物〟とやらに見つかってしまうとでもいうように。

 昨日とは違い、はっきりと何かに怯えている。昨日は櫛が失われたことと、それに関連して何か漠然とした不安を感じている様子だったのに。


「菊代さん、落ち着いて。夢の中に、化け物が出てきたの?」


 これ以上怯えさせたいわけではないが、話を聞かなければ始まらない。

 寿々は布団越しに菊代の背中を撫で、努めて優しい声で話しかける。彼女を守るには、まず彼女の心をこちらに引き戻さなければならない。でなければ、その〝化け物〟とやらがやってくるより先に彼女の神経が参ってしまうだろう。


「……たぶんですけれど、富貴子お嬢様がずっと怯えてらしたものって、これだったんだす……だから、私を……」


 少し落ち着きを取り戻した菊代が、声を落としていった。だが、その声には確信が篭っているように聞こえる。

 主人を貶めるようなことは言えないが、もう彼女は自分をこんなふうにした原因を理解しているのだ。


「それは……身代わりにされたかもしれないということ?」


 スミが言っていたことを思い出し、寿々は尋ねた。

 ひとつひとつ、物事が繋がっていくようだ。


「そうです……お嬢様の身代わりにされたから、化け物が私のところに……そのために、私の大事なものについて尋ねたのだわ……」


 言葉にしながら、菊代は確信を強めていったのだろう。その顔からは、恐怖のあまりどんどん血の気が引いていく。

 スミの言葉と彼女の言ったことを合せると、いろいろなことがわかってくる。

 おそらく、富貴子は何か悪いものに目をつけられていたのだ。そのせいで、ずっと夢見が悪かった。

 それに関係して、富美は神社や寺に信心していたのだろう。慌てて縁談を探していたのも、その関係なのかもしれない。


(櫛を取り戻すのが難しいというのは、こういうことだったのね。でも、取り戻さないと菊代さんが……)


 スミの言葉を思い出し、寿々は焦った。状況が呑み込めるにつれて、非常にまずいということがわかってくる。

 どうにかしなければ、きっと富貴子の代わりに菊代が化け物に攫われてしまうのだ。

 そうならないように、守ってやりたい。だが、どうすればいいのか全くわからない。何より、寿々は自分が無力であることを弁えている。


「菊代さん、手を出して」


 寿々は首元に手をやり、そこにかけていた紐を引っ張った。すると、着物の下の胸のあたりから、小さなお守り袋が現れる。

 それは、寿々が肌見放さず着けているお守りだ。今は亡き美緒が、寿々のために遺してくれた手作りのお守り。


「これは……」

「私のお母様が作ってくれたお守りなの。よく見たら、あなたの櫛を入れていた袋と同じ布なのよ。……櫛の代わりにはならないだろうけれど」

「でも……」


 躊躇(ためら)う菊代の手に、寿々はお守りを握らせた。これは彼女に必要なものだから。


「ずっと私を守ってきてくれたものだから、きっと効果があるわ。あなたを守ってくれるはず」

「……ありがとうございます」


 ほっとしたのか、菊代はポロポロと涙をこぼし始めた。先ほどとは様子が違う。少しでも落ち着かせることができたのだとわかって、寿々も安堵した。

 おそらく今、彼女に必要なのは安心感だ。お守りの効能が実際にあるのかどうかではない。自分を守ってくれる拠り所となるものがあるかどうかが、踏ん張らなければいけないときは必要なのだ。


「それじゃあ、そのお守りをしっかり握りしめて休んで。寝不足なまま働けなんて言えないもの。今日寝てちゃんと回復してくれるのが一番助かるわ」

「……では、お言葉に甘えますね」


 よほど気を張って疲れていたのだろう。菊代は寿々の言葉に従って横になり、すぐに寝息を立て始めた。

 眠ることができるなら、回復するだろう。

 しばらく見守って、彼女がうなされる様子がないのを確認してから部屋を出た。

 それから、厨へ行って日頃菊代が主だってやっている仕事の肩代わりをした。あらかじめ昨日のうちに事情を話していたからか、他の使用人たちも手伝ってくれた。頼まずとも、進んで掃除などを済ませてくれる者もいた。

 周囲に大いに助けられて仕事を進める合間に菊代の様子を何度か確認しに行ったが、昼過ぎには起き上がって食事が摂れるようになっていたし、夕方には顔色もほとんど元通りといえるほどに回復していた。

 離れの廊下に厭なものが立ち込めることも、黒い蛇のようなものが這回っていることもなかった。

 そうして何事もなく夜を迎えたため、寿々はこのままが事が済むだろうと安堵していた。

 朝が来れば菊代が元気な姿を見せてくれ、また一緒に働けるようになるだろうと。


 だが、そんな期待を裏切るように夜半過ぎ、水守邸に悲鳴が響きわたった。


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