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水界の縁〜虐げられた乙女は水神の慈愛に絆される〜  作者: 猫屋ちゃき


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第三話

『寿々』


 穏やかな声が呼んでいる。

 スミの声だ、と思った瞬間、霧が晴れて彼の姿が現れる。

 彼の姿が見えるようになるのと一緒に、今立っている場所の景色も見えてくる。ここは、手入れの行き届いた美しい庭だ。瑞々しい植物と水の気配がする。


『寿々、元気がないのか?』


 近づいてきたスミが、身を屈めて顔を覗き込んできた。そうすると、筆で()いたような美しい黒髪がはらりと揺れる。

 古めかしい着物も、涼やかに整った顔立ちも、艶めく長い黒髪も、どこか作りごとめいている。だからやはり、この人は夢の中の人物なのだろうなと思う。こんなに美しい人が、現実にいるわけなどないのだから。


「少し目眩と吐き気がして、とても眠かったんです」


 でも大丈夫と続けようとすると、スミが寿々の体をそっと抱き寄せた。不慣れなことに心臓が子鼠のように元気に飛び跳ねたが、決して嫌ではなかったから、寿々はされるがままになっていた。

 夢の中で、いつもスミはそうだ。まるで寿々の恋人のように振る舞う。


『馴染まないうちは、体に負担をかけてしまうのだな。——力を貸してやろう』

「ん……」


 彼の顔が近づいてきて、あっと思った瞬間には口づけられていた。重ね合わせた唇から、彼の体温が伝わってくる。

 それは初めての体験で、寿々の胸をさらに高鳴らせた。若い娘がこんなことをしてはいけないと、頭のどこかで警鐘が鳴る。

 だが、夢の中だから大胆になっているのか、寿々は自分の心に素直になっていた。唇が触れ合ったときに、はっきりとわかってしまったのだ。この人が好きだ、と。

 溶け合うように深い口づけを続けるうちに、寿々は体に温かなものが満ちていくのを感じる。これがスミの言った〝力〟なのだと、頭で理解するより先にわかった。


『これで、少しは楽になったはずだが』

「ありがとう。もうちっとも怠くありません」


 唇を離し、スミが覗き込んでくる。水を湛えたような不思議な色の目が、優しく細められて寿々を見つめていた。

 この人を好きだと思うし、この人もまた自分を好いてくれているのだと、なぜだかわかる。夢の中だからとことん自分に都合がよくできているのだろうなと思うと、その事実を疑問もなく受け止められた。


『われはいつでも、そなたのことを想っているよ』


 優しく慈しむように、スミが寿々の髪に触れてくる。恋人に甘えるのならこうするのだろうなと、寿々は彼の胸に頬を寄せた。

 孤独が見せる幻なのだとしても、寿々はスミが好きなのだ。そして彼の存在は、寿々の支えになっている。


(しば)しの辛抱だ。時が満ちれば、そなたのそばへ行ける』


 スミが名残惜しそうに寿々の髪に口づけてから、再びあたりは霧に包まれ始めた。目覚めが近いのがわかる。


「寿々さん」


 体をそっと揺り動かされ、意識が覚醒した。目を開けると、見慣れた顔が覗いていた。


「菊代さん……ごめんなさい。寝てしまっていて」

「少し寝たのがよかったみたいですね。お顔に血の気が戻ってよかった」


 気がつくと自分の部屋で、外は明るくて、寿々は自分が昼間に気分が悪くなって眠っていたのだと思い出した。そして、長いこと眠っていた気になっていたが、菊代の様子からまだそこまで時間が経っていないことがわかる。


「約束通り、おにぎりを持ってきましたよ。食べられそうですか?」

「いただきます」


 吐き気がしていたのが嘘のように、体が食べ物を欲していた。程よい塩気のおにぎりと、皿に添えられた漬物が嬉しい。一緒に運んできてもらった温かなお茶を飲むと、もうすっかり元気になった気がした。


「おかげさまで、お昼からも元気に働けそうよ」


 体に活力が満ちてくると、眠る前は心も弱っていたのがわかる。だが、夢でスミに会えたことと菊代の気遣いによって、すっかり元気になった。


「それはよかったです。じゃあ、いろいろ片づけてしまいましょうね。洗濯したものが乾いたら、次は針仕事ですから」

「ええ、そうね」


 その日、寿々は暗くなるまでよく働き、夜は夢も見ないほどぐっすり眠った。

 スミに会えないのは残念だったが、そのぶん体は休まった気がする。何より、ここのところ悩まされていた異様な疲れや怠さがなくなり、力がみなぎっているようにも感じられた。

 その力の源を意識して辿ると、何となく腹の中心のように思えた。それに気づいたときに、もしかしたらあの珠が体に馴染んだのだろうか——と思い至った。

 スミとは夢でしか会えないし、毎日必ず会えるわけではないものの、きっと何かの縁で結ばれているのだろうと、寿々は不思議な気持ちでその事実を受け止めていた。

 そう考えることで、つらいことも多い日々を何とか楽しく過ごしている。

 だが、その一方で菊代が塞ぎ込んでいることに気がついた。


「菊代さん、何かあったの?」


 ある日、朝から菊代が真っ青な顔をしているのに気がついて寿々は声をかけた。仕事は真面目に取り組んではいるが、いつものように潑剌(はつらつ)とした様子がないし、手が空くと何かを探しているような、そんな素振りを見せる。

 きっと人前では話さないだろうと思い、彼女が裏庭のほうにひとりで向かったのを見て、寿々は声をかけた。誰かがついてきていたのにも気づかないほど憔悴しきっていた彼女は一瞬驚いた顔をしたが、周りに誰もいないのを確認して口を開いた。


「実は……母の形見の櫛がなくなってしまって」


 そう言うと、菊代は目を潤ませた。理由を聞けば、彼女が目元を赤くしていたのにも納得がいく。

 菊代は、うんと小さいときに水守家にやってきたのだという。身寄りもなく、お腹を空かせていた彼女を気の毒に思い、まだ子供のいなかった寿々の父母が引き取ったらしい。

 そのとき、唯一持っていたのがその櫛で、彼女がずっとそれを大切に持ち続けていたことを寿々は知っている。というのも、その櫛を入れていたきれいな小袋は、寿々の母の美緒が着物の端切れで作ってくれたものだということで、以前菊代が見せてくれたのだ。

 親の顔も知らない菊代と、早くに母を亡くした寿々は、お互いの寂しさや悲しさを重ね合わせて生きてきた。菊代のほうが二歳上だから、美緒について覚えていることも多かった。

 寿々の中にある母の記憶は、菊代から聞かせてもらったものがほとんどかもしれない。幼いときに亡くして失っていく一方だった母との思い出は、菊代の口から語られることで守られていられる。

 だが、彼女にはそうして思い出す親の記憶がないのだ。唯一あるのが、拾われたときに持っていたという櫛だけ。

 その櫛をなくした彼女の痛みがわからから、寿々も苦しくなった。


「菊代さん、いつ頃、どこでなくしてしまったのかわかる?」

「え?」

「一緒に探したいと思って。菊代さんがあの櫛を大切にしていたのを知っているから、知らんぷりはできないわ」

「えっと……」


 よかれと思って申し出たのだが、なぜだか菊代の目が泳いだ。今の発言に動揺するような要素はあったかと、寿々は訝る。


「……余計なお節介だったかしら?」

「いえ、そうではなくて……もしかしたら、もうないのかもしれないと思って……」


 言いながら、菊代の声はか細くなっていった。寿々に事実を伝えながらも、それを認めたくないと思っているのだろう。

 その悲痛さの理由がわからず、気の毒になった。


「手分けをして探せば、見つかるかもしれないわ」

「違うんです……なくなったのではなく、盗まれてもう捨てられているのではないかと思って……」


 そう言ってから、菊代はわっと泣き出した。()えていたものが、(せき)を切ってあふれ出してしまったのだろう。

 これまで富美や富貴子につらく当たられても、折り合いの悪い使用人がいても、こんなふうに泣くことなどなかった人だ。そんな彼女がこうして泣くのには理由があるのだろうと、寿々は考えた。


「もしかしてだけれど……盗まれたというのには、確証があるのね?」


 背中をさすり、なだめながら尋ねると、菊代は弱々しく頷いた。そして十二分にためらってから、恐る恐るといった様子で口を開く。


「昨日、富貴子お嬢様に聞かれたんです。『お前の一番大事なものは何?』と」

「それで、形見の櫛だと答えてしまったのね?」


 菊代は頷きながらまた涙をこぼした。後悔しているのがよく伝わってくる。子供のように頼りなく泣くその姿は、見ていてあまりにも胸が痛んだ。

 だが、菊代の言葉を疑うわけではないが、富貴子の行動には疑問を持った。

 苛烈な性格だし、残虐性も持っている。しかし、そんな彼女にしては回りくどいやり方のように思えたのだ。

 あの子が菊代を傷つけて楽しもうと考えたのなら、櫛を自ら差し出させ、それを目の前で壊すくらいのことはするだろう。

 隠れてコソコソ盗み出すことも、それをわからないように捨てることも、日頃の富貴子の振る舞いからは外れているように感じる。

 だが、それを菊代に伝えたところで詮無(せんな)いことだ。


「あの子がどこかにやってしまったのかもしれないけれど、まだ捨てられたかどうかはわからないわ。どうか気を落とさないで、ね?」


 励ましてはみたものの、それが少しも菊代の慰めにはならないのはわかっていた。寿々だって、母からもらった何かをなくしたとしたら、落ち込むだけでは済まないだろう。

 ましてや、富貴子のような意地悪な人間に大事なものだと知られてしまっているのだ。盗られたり捨てられたりしたかもしれないと思えば、気を落とすどころか心が傷つき、不安になるに違いない。

 だから、無意味だとわかっていても慰めずにはいられないのだ。


「落ち着くまで、少しお部屋で休んだらいいわ」

「でも……」

「お茶と、目元を冷やすためのものを持っていくから」


 泣いているのを誰かに見られれば、その理由を尋ねられるだろう。櫛をなくしたことも、それに富貴子が関わっているのとも、人には話しにくい。それならば見られないようにするのが懸命だと、寿々は菊代を部屋へと促した。

 渋々ではあるものの彼女が自室へ向かうのを見て、寿々も厨へ向かった。温かなお茶を淹れて、それと一緒に水で濡らした手ぬぐいを持っていってやるために。

 気持ちがそぞろになっていても自分の持ち場の仕事は終わらせていたようで、菊代の不在は誰にも咎められなかった。だが、誰の目にも様子がおかしいのはあきらかだったから、心配された。

 

「菊代さん、お嬢様にずいぶん酷く当たられていたようで……『怖い思いをしたくないなら、あんたの大事なものを教えなさい』なんて、脅すみたいなことを言われていたんですよ」


 まだここで働き始めて日の浅い年若い少女が、声を潜めていった。菊代が面倒を見ているから懐いているようだ。情報提供はありがたいが、口の軽さが気になる。


「教えてくれてありがとう。でも……あまりそれを人に話してはだめよ? あなたが富貴子ちゃんのことを悪く思っていると思われたら困るでしょう?」


 心配して言ったのだが、少女は目に見えて怯えた顔になる。この様子なら、もう十分富貴子の苛烈さは理解しているのだろう。それでも、この子が標的にならないように言っておく必要があった。

 本来なら、寿々が使用人たちを守ってやるべきなのだろう。だが、自身も虐げられているため、そんな力も権限もない。だからこそ、こうして裏で気にかけてやるしかないのだ。

 お茶と冷たく絞った手ぬぐいを用意して厨を出ると、離れへ続く廊下が何だか暗かった。曇って日が陰ったかと思ったが、どうもそういうわけではなさそうだ。

 廊下にだけ、黒い靄が薄くかかったかのように見える。心なしか気温が低く感じられて、ほんの一瞬、寿々は足が(すく)んだ。

 何となく、これ以上先へは進みたくない気がする——そんな忌避感を覚えながらも足を進めると、不気味な声が耳に届いた。


『……どこだ……見えぬ……においはこちらか……』


 それは、何かを擦り合わせるような不快な声だった。水の向こうから響いてくるような独特の聞こえ方から、これが人間ではない生き物の声だというのもわかる。

 人間ではない得体のしれないものが、何かか誰かを探して離れに近づいているのだ。

 それがわかった途端、寿々は血の気が引いた。怖さを振り切って菊代の部屋へ駆けると、足元をサッと避けていくものがあった。


(……私のことを、避けてる?)


 寿々が走ると、廊下の黒い薄靄が晴れていくのだ。

 そして菊代の部屋の前までたどり着くと、黒いものがいくつも逃げ去るように散ったのを見た。

 まるで紐状の蛇のようなものに見え、寿々はゾッとした。

 それが一体何なのかは、わからない。だが、何か悪いものが水守家に忍び寄っているのは感じ取っていた。


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