ある夏の日の話
とある夏、私は長めの休暇をもらい、ある観光地へと赴いていた。
そこは完全に一般大衆の生活から隔絶された秘境というわけではないが、豊かな自然に囲まれ、とても空気が澄んだ町であった。公共交通機関がバスのみであり、あまり便が良いとは言えないが。
ここに来て3日目。丁度身体が落ち着いてきて、始めに立てていた旅行計画のほぼ全てを終え、次はどこを見てみようかと考えていた昼下がり。日差しがやや落ち着いてきた頃、私は町内のカフェにいた。
店の隅の2人席でブラックコーヒーの入ったカップを持ちながら、スマートフォンのニュースを眺めていた時、ドアベルが鳴った。
入ってきたのは1人の女性だ。ミディアムヘアの髪は手入れが行き届いておらず、いくら夏とはいえ、あまりにも飾り気のないTシャツに短パンといった格好で、普通の外出でないことは明らかであった。
女性は店内をキョロキョロと見回した後、何を思ったのか、私の反対側の椅子に座ってきた。あまりにも予想外の出来事で、私は心当たりが無いか女性の顔を凝視したが、どこからどう見ても、出会ったことのない顔である。
「すみません。ちょっとお話を聞いて貰えますか。」
私が口を開くよりも先に、女性は言った。
マルチ商法や宗教勧誘の類いかと瞬時に思いはしたが、女性は続けて否定したので、私はとりあえず、暇つぶしと思って話を聞いてみることにした。
テーブルの端に立てかけられたメニューを女性に渡そうとしたが、それと同時に女性は手を上げ、店員に抹茶ラテを注文したため、ここの常連である事が分かった。
「突然お邪魔して申し訳ありません。どうしても誰かに話したくて。でも、身近な人にはちょっとできない内容ですので。」
なるほど、行きつけの店で知らない顔があれば、よそ者であるとおよそ検討はつけられる。しかし、近しい人間に知られては困る件とは、絶対にロクなものではないと少々後悔してしまった。
「実は私、昨晩人を殺してしまったのです。」
予想以上にとんでもなかった。初めは耳を疑った。冗談ではないかと女性に確認したが、どうやら本当らしい。
ここから店員のいるカウンターまではやや距離があり、周辺に他の客も座っていなかったので、この会話が聞こえるのは私と女性のみであっただろう。
殺人犯と会話したことは、もちろん今までの人生で一度たりとも無かったため、どう返したら良いのか全く分からなかったが、相談に乗るかのように仔細を聞き始めた。
「殺したのは私の彼氏です。あ、いえ、もう元カレですね。○○崖ってご存じですか?一応、観光スポットではあるのですが、あまり人気がないので観光客を含めて人は滅多に来ません。そこに元カレを連れてきて突き落としました。」
「ええ、はい。お察しの通り、浮気ですよ。二股をかけられていたのです。しかも、私の方が愛人だったようで。そのことを聞かされた時はもうガクってきましたよ。怒りとか憎しみだとか、そんな感情も湧き上がってこなくて、まさに『無』という感じです。」
そうやって女性は、まるで世間話のようなテンションで淡々と話しているので、理解はできても信じられなかった。殺人犯とは、こういうものなのだろうか。それとも、女性がおかしくなっているのか。はたまた、私がおかしいのか。
頼んでいた抹茶ラテを店員が運んできたので、会話を一時中断した。
「えっと、いけないことをした、という自覚はあります。あるからこそ、どうすればいいのか分からなくなって。誰かにこのことを伝えたくても、そのままだと警察に自首することになってしまいますし。でも、友達に『人を殺した』なんて言えるわけがないでしょう。」
『普通』、罪の意識があるのであれば自首をするべきではないのか。女性との会話に苛立ちを覚え始め、やや強い口調で指摘したが、女性は運ばれた抹茶ラテのカップに口をつけながら続けた。
「いや、もしかしたら黙っていれば見つからない可能性もあるのではと思いまして。先程も言ったとおり、○○崖にあまり人は来ませんし、崖の下は深い森になっているのですよ。崖の高さから言って、まず元カレは確実に死んでいますし、目撃者もいないはずです。」
ヒーローを倒したと思い込んでいる怪人の台詞にそっくりであった。
この時少なくとも、この女性が言う『いけないことをしたという自覚』の存在は嘘であることが分かった。
「そうですね。ごめんなさい。確かに私は100%悪いとは思っていません。だってそうでしょう?私はあの男に遊ばれていたのですから。」
「ずっと私を騙して、人生をめちゃくちゃにされて、それでもあの男がこの先も生きていると思ったらいたたまれないですよ。それに、女の方もそうです。あの男に愛されて、私から愛を奪って。なんで被害者の私だけがつらい思いをしなくてはならないのですか。」
「そうやって考えていた後に思い浮かんだのが男の殺害です。そうすれば男は罰を受け、女は1人になるのですから。」
女性は表情を険しく変えて話した。
私は、目の前にいる人物が正常ではないことを確信し、黙ってコーヒーを飲み干した。
しばらく無言の時間が続き、女性の方も、カップを空にしたところで抹茶ラテの代金をテーブルに置いた。
「話を聞いていただき、ありがとうございました。」
そう言って席を立った女性の表情は曇っているかと思いきや、つきものが落ちた顔をしていた。帰り際に、私はこれからどこに行くのかと女性に尋ねたが、まだ分からないと首を横に振った。
ドアベルが鳴って数分した後に、私も席を立ち、女性が置いていった小銭を握りながらレジへと向かった。支払いが済み、店の涼しい空間から夏の蒸し暑い空気に触れたところで、スマートフォンの時計を確認した。
泊まっているホテルのディナータイムまで、まだ時間があったので、私は次の目的地へと向かうことにした。